雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ジャンニ・アメリオ『I ragazzi di via Panisperna』(1988)

 

YouTube にて鑑賞。23-104。PALのVHSは持っているのだけどプレイヤーがない。RaiPlay にあったのだけど日本からだと見せてもらえない。幸いにも誰かがYTに1部と2部をアップしてくれていた。感謝。Filmaks にないのでこちらに書く。このところアメリオをキャッチアップしようとしているので、まずはこの作品から。なんといってもこれを8月9日に見ることに意味がある。

主人公は実在の人物。エットレ・マヨラナとエンリコ・フェルミだ。フェルミ統計力学量子力学および原子核物理学の分野で顕著な業績を残した物理学者。中性子による元素の人工転換の実験で新規の放射性同位元素を作り出し、1938年にはノーベル物理学賞を受賞。その授賞式に向かいながら夫婦でアメリカに亡命。なにしろ妻のラウラはユダヤ人。その年はイタリアで人種法が施行された年だ。そのフェルミアメリカではオッペンハイマーの率いるマンハッタン計画に参画。彼の学問がファットマンとトールボーイに結びつくことになる。

そのフェルミローマ大学で原子物理学を教えているころ、パニスペルナ通りあるその教室に集まった優秀な学生たちが「パニスペルナ通りの若者たち」(i ragazzi di via Panisperna)。そんな若者たちのひとりがエットレ・マヨラナ。フェルミも一目おく天才肌の数学であり、彼の協力が原子物理学の分野での発見に結びつく。

アメリオの物語は、レオナルド・シャーシャの『マヨラナの失踪』に基づきながらも、フェルミの物理学教室の若者たちを、自由で陽気ときに反抗的な若者として描き出す。なにしろ冒頭のシーン。ファシスト政権の科学的知を代表する人物として讃えられたラジオの発明家グリエルモ・マルコーニのラジオ放送の電波を、「パニスペルナ通りの若者たち」がハイジャックして古めかしい科学者マルコーニの死を宣告するのだ。そんな事実はなかったのだとしても、映画としてはすこぶる面白い。しかも、原子物理学という新しい科学が誕生する前触れにして、この映画の描くのものが元気のありあまる優秀な学生の青春なのだという宣言にもなっているのだ。

くわえて、このイタズラにエットレ・マヨラナも巻き込まれる描写がよい。なにしろ数学の天才。電波を乗っ取りの直前に、必要な計算が誤っていることが分かると、仲間たちは授業中のエットレのところに走ってゆく。計算式を解いてもらうためだ。天才はあっという間に解いてしまうのだけど、彼の関心はそんなことよりも、目の前の黒板で計算を間違えている教授の指先にある。エットレはラジオ乗っ取りを企てる仲間を無視すると、計算の答えを記した紙を持ったまま教壇に向かい、苛立たしげに教師の間違いを正すのだ。

そんなエットレを物理学の世界に誘うのがエンリコ・フェルミ。ふたりの関係は師と弟子にして、父と子のような親密なものになってゆく。だが、まさにその親密さのなかでふたりは衝突する。そんな擬制的な親と子の関係こそは、ジャンニ・アメリオが繰り返し描いてゆくテーマ。そこに現代物理学の大転換を重ねてくるところがこの映画のすごさ。

フェルミの常識的な科学的態度がそれとは知らないうちに、あの悲劇的な原爆投下への道を開いてゆくのだとすれば、マヨラナはその道に潜む危うさを天才的に見通していた。それがレオナルド・シャーシャの解釈であり、この映画の解釈でもある。

ただし、アガンベンの『実在とは何か、マヨラナの失踪』の指摘によれば、エットレ・マヨラナが見通していたのは原爆への道ではなく、原子物理学がもたらした統計力学というパラダイムへの懸念なのだ。素粒子の実在が統計的なものだとすれば、実在とはサイコロの賭けによって決まるものになってしまうのではないか。それが恐ろしいのはこういうことだ。量子論物理学における確率的な性格こそが、実験者が介入することで現象に方向性を与えることにつながりかねないということ。不確定性原理はその現実への介入のお墨付きを与えることになりはしないのか。

マヨラナは言う。「したがって、いかなる測定の結果も、撹乱が引き起こされる前に存在していた不可知の状態よりも、むしろ実験の過程でその体系が連れていかれる状態に関係しているように見える」。これをアガンベンはこう総括する。「科学はもはや実在界を認識しようとはしておらず、社会科学における統計学と同様、実在界に介入してそれを統治することだけをめざしている」(P.17-19) 

アガンベンは、そうした危機感がマヨラナの失踪につながったとする。つまり介入され統治されるよりは、完全に失踪してみせることを選んだというのだ。

なるほど、だとすればアメリオの描いたマヨラナの失踪も、それに近いものがあるのかもしれない。妻のラウラが自殺を否定することはできないというのに対して、エンリコ・フェルミは自殺を認めることができない。アメリカに向かう船の上でのラストシーン。ふたりの会話はこうだ。

「エットレは死のうとしたのよ」

「そうじゃない、ぼくたちから離れようとしたんだ」

「どうして離れようとしたの?」

「失踪したかったんだ。誰からも見られないようにして、死んだことに確証を与えたくなかったんだ。その点でも天才だった。おかげでまだ生きていると思わせられる。これから何が起ころうとも、エットレはあたかもぼくの背後にいるように、ぼくらを見つめ、ぼくらの行いに評価を下すのさ」*1

 

フェルミの言葉が印象的だ。「エットレはあたかもぼくの背後にいるように、ぼくらを見つめ、ぼくらの行いに評価を下すのさ」というとき、不在の存在によって、生きている者が見つめられ、評価される。そんな不在をつきつけることこそが、アメリオにとっても失踪の意味だというわけだ。

 

追記:
この記事によると、マヨラナは1938年に失踪したが、ヴェネズエラで暮らしていと報告されている。1955-59年までは生存が確認されているから、死亡は1959年以降だろうという。

st.ilsole24ore.com

 

 

YouTube の映像はここ。イタリア語版で字幕なし。残念ながら画質はあまりよくないけれど、なんとか物語を追うことはできる。

Prima parte: 

https://www.youtube.com/watch?v=G9SFvXIBQ4A

Seconda parte: 

https://www.youtube.com/watch?v=zx639W3Di6Q

*1:イタリア語の会話を聞き取ってみた。多分こんな感じ。Ettore ha voluto morie. / Ha voluto lasciarci, è diverso. /Perché lasciarci? / Scomparire, non farsi vedere più e non dare la certezza alla sua morte. È stato genio anche in questo. Ci costringe a pensare che è ancora vivo. Qualunque cosa accadrà e come se Ettore fosse dietro di me, che ci osserva e che ci giudica.  

youtu.be