雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ヌメラシー、低くあること、応答可能性、そして世界に参加すること

計算する生命

4/25 

 TWで評判がよかったので、近所の書店で注文。届いてすぐにページをめくる。おもしろい。指で数字を操ながら数的理解に到達するに、どうやら人は痛みを伴う跳躍をしなければならないようだ。
 森田さんは記している。「生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へと押し広げてゆくには、多かれ少なかれ痛みを伴う」。だから韓国には「数放者(スポジョ)」という言葉があり、英語圏には「数学恐怖症 mathemaphobia 」という言葉があるという。それでも、この痛みを乗り越え跳躍を果たすことで、生まれ持っていた「数覚(すうかく)」が少しずつ文節化されてゆく。こうして数字を操る能力としての Numeracy が出来上がってゆく。

 なるほど、パンデミックの時代に問われているのは、文字を操る能力としてのリテラシー literacy に加えて、この数字を司るヌメラシー Numeracy でもあるのだろう。日本で、毎年インフルエンザが直接の原因で死亡する人がほぼ3,000人。インフルエンザにかかったことによって自分が罹患している慢性疾患が悪化して死亡するケース(超過死亡)については10,000人と言われている。コヴィッド19の死亡者数はどうか。東洋経済のサイトを見ると現在までの数字が9,851人。超過死亡についてはそこにはデータがない。これは誰かに調べて欲しいのだけど、聞くところによると、日本はそれほど増えていないらしい。
 この数字をどう理解するか。それがヌメラシーだ。それはたとえば、今問題になっているトリチウム水の海洋投棄の問題もそうだし、その原因となった2011年の原子力発電所事故とそれにとおなう放射能汚染の問題もそうだ。あのとき、ぼくらのなかにあったヌメラシーの貧困。桁が違うという認識をすることができなくて、有るか無いか、それは毒か毒ではないかという幼児退行。それが今でも続いているのだ。

 文字もそうだが、数字というは、「生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へと押し広げてゆく」道具にほかならない。けれども、この道具のことをよく知らないと、それを使うことはおろか、いつのまにか道具に使われてしまうことになってしまう。

 いやはや、まだ読み始めたばかりなのだけど、これは楽しい。なんだか中学生の数学の時間からやり直しているような感覚。しかも、まだまだページがあるぜ、ドキドキ!

 

4/26

 読了。近年でいちばん響いた。すこぶる読みやすい文章。その背後にある教育者としての実践があり、そこから紡ぎ出された知の営みがある。

 だから、フレーゲラッセル、そしてヴィトゲンシュタインと、「言語論的的転換」の流れが、そういうことだったのかと腑に落ちる。

 なによりも掃除ロボット・ルンバの話がよい。ロドニー・ブルックスによる「表象なき知性」とか「世界自身が世界の最良のモデルだ(The world is its own best model.)」なんていう言葉には、グッと引き込まれてしまう。なにしろ一つの中枢がすべてを制御する中枢的なシステムではなく、何層にも別れた制御系が互いを包摂しながら並行して動き続ける非中枢的システムを具現化したルンバ君が、我が家でも大活躍しているのだ。

 この表象なき知性のモデルは昆虫なんだという。なるほど非中枢的なシステムではないか。身体的なセンサーを介して、自分を取り囲む世界に参加する生命。それはまさにハイデガーが着想の源泉とした生物学者のユクスキュルのダニと、その環世界(ウムベルト)。

 ひるがえって僕たち人間はどうなのか。森田さんが披露する人間という表象の系譜学的な解体も素敵だ。人間= Human の語源とはラテン語の「humus(大地)」であり「humilis(低い)」に由来する言葉であること。これを数学的知性による拡張された世界に生きるぼくらの姿と重ね合わせて見せるとき、こんな言葉が出てくることになる。

 「私たちはいま、自分の朝の発熱が、地球規模のパンデミックの局所的な現れかもしれないと感じる。今日の暑さが、生物の大量絶滅を引き起こしている気候変動の一部かもしれないと考える。こうして、いつも自分が、無数の異なるスケールの字武具が錯綜する網(メッシュ)のなかに編み込まれていると実感すること」。

 すなわち、数学を通して出会った「ハイパーオブジェクト」との接触が、ぼくたちに「human」として「低く humilis」あり、その意味で「恥」を感じながら「謙虚」であるべきだという自覚を促すわけだ。もはや人は自然界の頂点ではない。自分を取り巻くすべてのものと同じ地平に低く降り立っているという意識。そして、その地平において、他者の存在に耳をすませ、それに応答すること。そうした意味での応答可能性/責任(responsibility)が、計算する生命に託されている。

 世界を描写することから世界に参加することへの跳躍。ヴィトゲンシュタインの場合それは、田舎引きこもって子供たちを相手に教えること、問題も起こしたようだけれど、それにもかかわらずそうすることによって、もたらされる。少なくとも森田さんはそう読んでいる。
そういうのをキリスト教では洗礼というのだろう。深く沈んで浮き上がること。

 まさに環世界へと深く沈み、みずからの「低さ humilis 」と「恥」と「謙虚」を飲み込んで、そこに身を投げ出すことではじめて、浮かぶ瀬もあるということなのかもしれない。

 

計算する生命

計算する生命

  • 作者:森田 真生
  • 発売日: 2021/04/15
  • メディア: 単行本
 
開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

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