雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

Garth Maxwell『Jack be nimble 』(1993)短評


(Filmarks になかったからこちらにメモ)

 26-62。英語版BD。英語字幕付き。1993年のニュージーランド映画。
 今日はシノさんに某所でこれを観せてもらう。どこに連れてゆかれるかわからないのだけれど、きっちり人間が描かれている。Jack be nimble はマザーグースの一節で「Jack be nimble / Jack be quick / Jack jump over / The candle stick. 」から。「ジャックよ、敏捷に蝋燭を飛び越えなさい」という意味なんだけど、この作品のジャックは果たして、ろうそくを飛び越えられるのか?
 そんなおとぎ話じみたニージーランド・ゴシック・ホラー。このゴシックは訳のわからないものという意味なんだろうけど、じっさい奇妙な催眠装置やサイコパスのような超常現象から、ぞっとするゆおな4姉妹が登場するかとおもえば、『激突』ばりのカーチェイスに驚かされる。
 しかも、映像が綺麗。全てのカットが綿密に、美しく、おどろおどろしく、作り込まれている。レースのカーテンに透ける顔と模様を一致させたり、ジンのような透明なアルコールに血がわずかに広がったり。これってシノさんによると『ブレード・ランナー』のパクリなんだというのよね。さすがよくみていらっしゃる。
 ぼくは一種のPTSDものにみえたから、心理カウンセラー必見じゃないかと思えた。そのぐらい、よく練り込まれた脚本でもある。それから音がおもしろい。声の使い方が、いいスピーカーで聞いたからかもしれないけれど、グルグリ回ってきて、それだけで映像の底が抜けてゆく。
 しかも、ラストはそんなのありかよ、というハッピーエンド。あれ、ハッピーエンドなんだよな。うんきっとそうだ。だとすれば、なんて懐が深いのよ、ニュージーランド映画。
 監督の Garth Maxwell は1963年生まれで、この映画が長編デビュー作という。スーパー8で撮りまくった映画少年だったってことがよくわかる。


ここで英語版が鑑賞可能ね。

 

『NAZA』:冒涜する映画のために

 今年のヴェネツィア映画祭で話題になった作品が公開されるらしい。まだ見ていないけれど、気になったことを記しておく。

 まず「NAZA」というタイトル。これは Gaza とは関係がないらしい。直接に関係はないけれど、あらゆる場所の Gaza のようなところに関係する。どういうことか?

  ChatGPT によれば、「נז״א(NAZA)」とは軍事用語「נזק אגבי(nezek agavi)」の略語で、その意味は「collateral damage(副次的な損害)」。簡単に言えばある軍事作戦を行った時の「巻き添え被害」のことを指す。だから、今回の作戦では「15 NAZA」になるといえば、「15人の人間が巻き添えになる」という意味になる。

 つまり、子供であれ大人であれ、女性であれ男性であれ、市民であれ医師であれジャーナリストであれ、ある作戦によって巻き添えになって損なわれる命のことを、「15人が死ぬだろう」とは言わず、「15NAZAが予想される」と表現される。NAZA という表現は、副次的な損害が、モノではなく、人の命であることを隠蔽しながら正当化する。いやはや... 

 きっとそうせざるを得ないのだろう。軍事作戦とは、ふだんは正当化されることのない殺人を、人殺しであることを隠蔽しながら正当化するものなのだ。チャップリンではないけれど、「「1人を殺せば犯罪者、100万人を殺せば英雄となる」。そして数が人でさえないNAZAとなることで、殺しの行為は「神聖化」される。

 NAZA とは神聖化された殺しなのだ。殺す対象を聖別することで、人は神聖な生贄となり、その殺しは聖なる行為となる。だからこそ、殺しを聖別する神聖なるNAZAを冒涜する必要がある。犠牲ではなく、それが殺された人であることを暴露することで、神聖なるものを冒涜することができる。つまり瀆神こそが『NAZA』という映画がめざすことなのだろう。だからこそ、この瀆神に対しては、イスラエルの神官/当局とそれに使える人々から怒りが表明される。ふたりの冒涜的な映画監督とその家族に対する抗議の報道は、それが効果的な瀆神であったことを証明しているのかもしれない。

 瀆神(profanare)とは、神聖な場所(fanus)を前にする(pro-)ことであり、神聖なものを世俗の世界へと引き戻すことを言う。それは『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』もそうなのだろうし、『ヒンド・ラジャブの声』も同じことをしようとしているのだ。触れてはいけない神聖なものを、こちらの世界に引き戻す冒涜的な行為。それこそは映画や文学が、これまで繰り返してきた聖なる行為ではなかったのだろうか。聖なるものは、あちらとこちらを往来しながら、境界を曖昧にし、あいまいなところから、新たなものを立ち上げてきたのではなかったのだろうか。

 映画には、そして文学にも、そして物語としての歴史にも、そうした冒涜的な魅力がある。その魅力が力なのだ。ぼくは『NAZA』はおろか、『ネルソンさん』も『ヒンド・ラジャブの声』もまだ見ていないけれど、見るときには、その力に身を任せたい。ネルソンさんが、NAZAのような隠蔽の犠牲者でありその告発者であるならば、少女の声は NAZA がモノではなく声であることを暴きたてて告発してくれるはずだ。その冒涜が許されるのは、あくまでもフィクションとして映画だからこそ。そしてそれが映画の力。

 だから映画は、兵士にとってさえ正視できない現実を垣間見せてくれる。劇場を出ても、彼らのようにPTSDを抱えることはない。すこし悪夢をみるだけで終わるだろう。フィクションだから。演出があるから。けれどもそれは、ある種のワクチンなのだ。まともに見つめることなく、小さなトラウマだけに済ませてやりすごし、そのトラウマに飲み込まれることから救ってくれる。

 それがフィクションの存在理由のひとつだと思う。どんなトラウマ経験だって、それを擬似的に経験可能にしてくれる。だからといって嘘の経験ではない。いわばそれは太陽の黒点を観察するようなもの。直視すれば失明する。だから専用の遮光グラスを使う。ある種の映画や文学的、ジャーナリスティックな表現は、そんな「遮光グラス」として、ぼくらの視野を広げてくれる。


 ぼくはそう思っている。

 

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《ナポリ的なもの》をめぐって/別府貫一郎とエルヴィラ・ノターリ

 先週の金曜日、イタリア文化会館で大変興味深いシンポジウムがありました。タイトルは「別府貫一郎画伯の風景画と日医文化交流の足跡をめぐるシンポジウム」。ぼく自身は画伯のこともその作品もまったく知らなかったのですが、画伯が愛したナポリとヴェネツィアについて多角的にとらえてみたいというのがシンポジウムの趣旨。そしてまとめ役をされた陣内先生から、ナポリのことを話してほしいとお声をかけていただき、参加させていただくことにしました。

 陣内先生は、ヴェネツィア留学時代に画伯とたいへんお世話になったということです。そして、ご存知のように建築学史の観点からイタリアの各地を調査されており、もちろんナポリのこともよく知っておられる。その陣内先生から「ナポリ的なもの」を、たとえば映画などを通して、伝えたと言われたのです。

 ナポリを舞台した映画といえばデ・シーカの『昨日・今日・明日』(1963)の第一話や、『ああ結婚』(1964)がありますし、ナポリ出身の俳優といえばトトやデ・フィリッポが思い浮かびます。女優ならソフィア・ローレンですね。自分はイタリア人であるよりも前にナポリ人なのよと公言していますね。

 最近ではパオロ・ソッレンティーノが『パルテノペ、ナポリの宝石』(2024)がみたことのないようなナポリの美しさを描きました。彼自身がナポリ出身の監督ですね。映画監督ですし、ロベルト・サヴィアーノ原作でマッテオ・ガッローネ監督の『ゴモラ』(2008)はナポリの犯罪組織カモッラを描いて日本でも評判となり、イタリアではその後テレビシリーズもつくられました。

 もちろん、《ナポリ的なもの》に関係する映画は他にもたくさんあります。けれども別府貫一郎という画家のことを知るほどに、ひとりの知られざる映画人の名前が浮かび上がってきました。サイレントの時代にナポリにあって世界的な活躍をしながら、その後忘れらてしまった女性映画監督のエルヴィーラ・ノターリです。そこで今回は、別府画伯を通して知ることになったサイレント時代のエルヴィーラの映画を通して、画伯の愛したナポリと《ナポリ的なもの》のことをお話しすることにしたのです。

 では、以下に短い発表の書き起こしを残しておきます。ご笑覧。

 

 * * * 

 

イタリア文化会館 2026年4月3日

別府貫一郎シンポジウム、第2部「ナポリ」

「エルヴィラ・ノターリの映画による《ナポリ的なもの》」
     Napoletanità secondo il cinema di Elvira Notari


押場靖志 

はじめに

 押場です。タイトルをイタリア語で記しましたが、「エルヴィラ・ノターリの映画を通してみた《ナポリ的なも》」というタイトルでお話しさせていただきます。

 ぼくはナポリに留学したことがあるんですけど、今、あっと思い出したんですけど、別府貫一郎(1900 ‐ 1992)さんの講演会には羽仁五郎がいたそうですね。その羽仁五郎には『抵抗の哲学』という本がある。日本の軍事政権下の中で、ベネデット・クローチェ(1866-1952)というナポリの哲学者を紹介した本だ。クローチェとは反ファシスト知識人宣言を起草したりした人なんですが、羽仁五郎はこのナポリの哲学者の言っていることを日本語にして出版した。そのころイタリアと日本は同盟国でしたからね。お咎めがなかったわけです。

 じつはぼく、その『抵抗の哲学』を読んでナポリに惹かれたんです。というか、惹かれたのはナポリでなくて、クローチェに惹かれた。そのクローチェがナポリの哲学者だったということなんです。それで修士ではクローチやっていたんですが、そのとき指導教官の上村忠男先生から「今度ナポリの国費留学の席が空くから、お前行かないか」とか言われたのです。ほとんど有無を言わさずでしたね。クローチやるんだろう。だったらナポリ行け。はい、わかりました。そんな感じでした。それが僕とナポリの出会いです。

 それ以来、ナポリに留学してきた人ということになった。今回もナポリ的なものをしゃべってとか、ナポリといえば押場さんでしょうみたいに言われるんですけど、申し訳ありません、たしかにナポリは行きましたが、けっこう苦しみました。そもそもイタリア語が通じない。もたもたしているうちにあっという間に一年が過ぎて、何をやっていたのか覚えていない。そんな僕が語れるナポリは、自分のアパートのあったトリブナーレ通り界隈のことであり、そこで子供たちがワーッと集まってきたり、シッポとよばれる有名なひったくりに合いそうになったり、ときには悪いにいちゃんに刃物をパッとつけつけられて、千リラよこせとおどかされたり、そういうのが僕の語ることのできるナポリなのです。

 表題に掲げた「ナポレタニタ Napoletatnità」とは、「ナポリ的なもの」ということなのですが、ぼくが語れることは限られている。それでも肌触りは残っている。ほとんど微かな感覚なのですが、それでもこれまで、ナポリ方言を聞いたり、ナポリを舞台にした映画を見ると、ああ、そう言う感じだったなと納得するものがある。

 そこで今回は、別府貫一郎画伯の絵から始めて、そんな「ナポリ的なもの」をサイレント映画のなかに探ってゆきたいと思います。というもの、ぼくはこのところ至映画のサイレントの時代に触れる機会がありまして、そこでエルヴィーラ・ノターリ(1875-1946)というサイレント映画時代のナポリの映画人を知ったのです。調べてみると、この方はイタリア映画の最初の女性映画監督だということで、ここのところ大変注目されている人なのです。

火山と卵城

 まずはこの絵です。いかにもナポリですよね。この絵は残念ながら今回は展示されていないのですが、似た構図の絵をご覧になれると思います。

 ここには2つありましてね、ひとつは背景の火山。これぞ「おお、ナポリだ!」と思わせる、あの特徴的なラインはヴェスヴィオ火山。ブラタモリのタモリが喜びそうな形状です。「あの真ん中の凹んだ部分は噴火でボーンと飛んでしまったのでしょうね」とか言いそうな感じ。そう、ナポリといいえば、やはりヴェスヴィオ火山。でも普段暮らしていると火山なんてみない。僕もほとんど火山を眺めたことなんてない。街の中にいると見えないですからね。海岸通りに出て初めて見える。卵城もそうなんです。海岸沿いの通りに出て初めて、パッと美しい、ナポリらしい形式がひろがる。でもぼくは、そういう景色を眺めてうっとりするような時間はあまり持てなかったですね。今にして思うと…

 さて、このヴェスヴィオ火山。じつはナポリはこの火山によって作られた街でもあるのです。火山がどうしてナポリを作るのか。じつは火山の近辺というのは火山灰によって良質な土壌ができる。だからナポリの食べ物は美味しい。あたりは火山地帯だからブドウが美味しい、オリーブが美味しい、トマトが実る。そして海がある。海の幸がある。だからナポリの人々の体は、火山の恩恵で育った食べ物を食べて出来上がっている。

 しかし火山は、いっぽうでたいへんな苦しみを与える。ご存知のように紀元79年8月24日の噴火は、ある暑い夏の朝方に大地を揺るがす大爆音とともに始まります。まさか噴火するとは思っていなかったポンペイの人々を熱風で包み込み、真っ赤に焼けた火山礫が降りそそぎ、逃げ惑う人々の口や肺を降り積もる火山灰がふさいでゆく。火山灰と火山礫は6メートル以上も積もり、ポンペイの街はその時のままに埋没。それでもポンペイの市民のなかで数千から1万人といわれる生存者は、近隣のネアポリスなどに移住したといいます。ネアポリスとは現在のナポリのことですが、噴火による難民を受け入れることでナポリの人口は急増したわけです。
 以来、ヴェスヴィオ火山の噴火はこれまでおよそ30回にわたるそうです。1631年の噴火では4000人以上の死者を出し、1906年の大噴火では降灰などで約300人が死亡、この災害がイタリア経済を圧迫し、1908年のオリンピック開催地がローマからロンドンに変更されたといいます。そして、第二次世界大戦のさなかの1944年3月にも噴火しています。

 1944年の噴火では、ナポリから噴火が見える溶岩が11日間流れ続けて黙示録さながらだっと言われます。なにしろ、そのころのナポリは、ドイツ支配から解放されたばかり。1943年10月の「ナポリの4日間」と呼ばれる戦いでドイツ軍を追い出し、そこにシチリアからやってきた連合軍が無血入城。戦後の困窮のなかにあった人々は、物資もたらした連合軍にとりいりろうとする混乱したナポリを描いたのが、リリアーナ・カヴァーニの『狂える戦場(La pelle)』(1981)という映画ですね。原作はマラパルテですが、まさに「皮を救う salvare la propria pelle 」、つまり「自分の命を救う」ために堕落のしていゆくゴモラさながらの様子が描かれています。

filmarks.com

 もうひとつ注目しておきたいのが、中程の右側にみえる卵城(Castel dell’Ovo)ですね。別府貫一郎画伯には、この卵城だけを描いたものもたくさんある。たとえばこれですね。


 この絵なんですが、近くでじーっと見ますとね、さっと流れる筆の運がよくわかる。僕は絵の専門家ではないんですけども、近くで見るとなんだ、筆の跡ばっかりじゃんと思うのですが、下がってみると、あら不思議、卵城がうかびあがってくる。これはびっくりです。まるで魔法。そう魔法なんですよ。じつはこの城のなかにも「魔法の卵」が置かれているというわれている。あの詩人ヴェルヴィリウスが城の中に隠したといわれているのですが、「この卵が割れるとき、城はおろかナポリの街が滅びるであろう」と語ったという伝説が「卵城」という名前の由来らしい。

 この地はもともとギリシャ人から「パルテノペ」と呼ばれていたところ。パルテノペというのは、ナポリの地のことですがもともとはギリシャ語の「パルテノペ(Παρθενόπη)」で、意味は「乙女の声」を意味します。パルテノス(parthenos / παρθένος)が「乙女・処女」、オプス(ops / ὄψ)が「声・顔・姿」で、この二つの語から成り立っているようです。そのパルテノペはギリシャ神話に登場するセイレーン(人魚)の一人。伝説によれば、オデュッセウスを歌声で誘惑することに失敗して、海に身を投じて溺死。その遺体が現在のナポリの卵城のあるメガリデ島の浜に流れ着いたとされる。

 そのパルテノペが流れ着いたメガリデ島に、共和政ローマの政治家・軍人ルキウス・リキニウス・ルクッルス(紀元前118年〜紀元前56年)が、豪華な別荘兼図書館が建てます。その後ローマが衰退すると5世紀から11世紀頃まで修道院として使われ、11世紀になるとノルマン人がナポリを征服してルッジェーロ2世の命により現在見られる城の原型が建てられる。そしてアンジュー家、アラゴン家、ブルボン家などの時代ごとに改修・改築が繰り返される。城上部に置かれた大砲は外敵のためではなく、ときには反乱や革命を恐れて国王が市民を威嚇しようとしたとも言われますね。フランス革命の直後の1799年、ナポリの市民がパルテノペア共和国を立ち上げたものの、すぐにブルボン政府によってつぶされたことが思いだされます。

 ようするにこの卵城、じつに非常にナポリ的なんですね。図書館や別荘だったり、要塞や刑務所だったりする。なんだか時代に応じて善と悪をかわるがわる体現しているような存在ではありませんか。地図をみるとこのあたりから描いたのでしょうね。別府貫一郎という画家は、アトリエで書くことはなく、いつでも道具一式持ち歩き、現場で絵を描いたの人だといいます。ですから、この卵城の絵はきっと、地図で言えばこのあたりから書かれたものなのでしょうね。

 ぼくが関心を持ったのは、別府画伯が最初にイタリア、そしてナポリを訪れたという1929年から1933年という時代です。それはイタリア映画が、そして世界の映画が、大きな転換期にあったころ。サイレントの時代が終わりトーキーの時代が始まうとしていたのです。そしてナポリでは、、エルヴィーラ・ノターリというイタリア初の映画監督が、時代の変化の中でその例外的な活躍ぶりを終えようとしていたころだったのです。

 

 

エルヴィラ・ノターリの『È piccerella…』(1922)より

 サイレントの時代にナポリは映画の中心地のひとつだった。トリノは有名ですし、ローマやミラノ、ジェノヴァやフィレンツェなどでも映画制作は盛んだった。しかし、1920年代にはいると世界大戦による経済的な疲弊があり、資本力を持つハリウッド映画が流入、ディーヴァと呼ばれるスター女優が引退したり国外に拠点を移したり、イタリア国内の映画産業は衰退してゆきます。
 そんな1920年代に、エルヴィラ・ノターリが元画家で写真家でもあった夫ニコーラとともに起こしたドーラ・フィルムが、イタリア国内でも例外的に活発な映画作りを続けていました。エルヴィーラは監督だけではなく企画から脚本までをこなし、撮影所でもとても厳しいことから「ラ・マレシアッラ La Marescialla」(女元帥)と呼ばれていた女傑です。ものすごい厳しいけども、ものすごい優しく家庭的で、その息子エドアルドによれば、お料理の腕もすがらかったという。仕事も家庭もという人だったんですね。撮影は夫ニコーラが担当し、みずからは監督と脚本だけではなく、出演者のスカウトから教育、映画の企画までを一手に引き受け、次から次へとナポリでのヒット作を生み出してゆきます。それでけではない。ナポリの人々が移民したアメリカでも大成功だったというのです。

 さて、そんな彼女の作品から、ちょうど別府画伯が卵城を描いた場所あたりで撮影されたシーンをご紹介しましょう。ナポリ湾を臨む海岸沿いの大通り。馬車が走り、その後ろから自動車、傍には自転車が走っている。1922年のエルヴィラ・ノターリ監督・脚本の『È piccerella…』からのワンシーンです。

 注意するのは馬車の後ろからやってくる車。その車が男の子の乗った自転車にぶつかりそうになっているんですね。男の子は、うわ、やばい、みたいな顔をして画面の外へと逃れてゆくのだけれど、これって偶然にとらえたシーンのはずですね。全然演出してない。そもそも映画の筋と関係がない。撮影しているところにたまたま映り込んでしまった。そういう映画なんです。


 通りに出て絵を描き続けた別府画伯と同じように、エルヴィーラの撮影も通りにでて、そこに行き交う人々も含めてフィルムに撮ってゆく。撮影許可なんてとっていない。今で言うところゲリラ撮影ですね。演出しているのは馬車に乗った男女だけ。それ以外は、そこにあったがままのナポリの姿が映り込んでいるわけです。

 この馬車に乗っている男がですね、ちょっとお金持ちに見える男ですが、側の清楚に見える女の子を口説いているのです。馬車をチャーターしてナポリの海岸通りを馬車でドライブしている。そういう場所なんですね、卵城がみえる海岸通りは。 

 このお金持ちそうにみえるボンボンが、いかにもナポリ的なマッチョぶりで彼女に言うのですね。「おい、おれは他のやつらと違うんだぞ」みたいなセリフ。じぶんは金持ちで力もあるんだからな、みたいなセリフ。すると女の方はニコニコしている。案外従順そうに見えるのですが、次の瞬間、男がタバコに火を付けようとした隙を見て、タクシーに飛び乗ると海岸通りを走り去ってゆく。これがすごい移動撮影なんですよ。これカメラを自動車に載せて後ろから走って撮っている。1922年の白黒のサイレント映画なんですけど、実に面白い。ぼくが弁士みたいに喋ってるからじゃなくて、それだけで十分に楽しめる。 


 この映画『È piccerella… 』というのですが、タイトルの意味はナポリ方言で「まだ小な娘だから…」という意味。母親が自分の娘のことを「彼女はまだなにもしらない子供だかね」と言っているわけです。監督は、今でこそエルヴィラ・ノターリと表記されてますけれど、これが彼女の作品として知られるようになったのは最近のことです。エルヴィラ・ノターリという人がどういう人だったのかというのは、1980年代に少しずつ知られ始め、1990年代に最初の研究書が出版され、昨年(2025年)には生誕150周年ということでヴェネツィア映画祭にドキュメンタリー映画が出品されています。

 さて、そんなエルヴィラ・ノターリのこのシーンですが、これは卵城からメジェリーナ港に向かう通りなんですよね。フランチェスコ・カラチョロ通りというのですが、この通りの名前になったフランチェスコ・カラッチョロ(Francesco Caracciolo, 1752 - 1799)という人は、実は、別府貫一郎さんと少し関係があります。この人、じつは海軍士官なのですが、このカラチョロという人、「パルテノペア共和国」のために戦って戦死した英雄なんですね。だからその名前は通りの名前だけではなく、軍艦の名前にもなっている。そのカラッチョロという名前の戦艦が廃艦になったとき、チヴィタ夫人という方がひきとり、艦上に孤児・浮浪児を収容する学校を1928年まで15年間にわたり運営し、750人を超える少年たちを教育・社会復帰させたというのです。じつは、そのチビタ夫人と別府貫一郎画伯は交流があったというのです。

 そんなフランチェスコ・カラッチョロという人の名前がついた通りを、この『È piccerella…』という映画が撮っている。卵城とで口説かれた娘が、その色男から逃げ出すと、まるで「あっかんべー」でもするかのように、その道をバアと走り去ってゆく。それをカメラがザーッと追いかける。これはもう見事に映画的なシーンでございます。

 イタリア語の英語のチラシ

 そんな 1922年のサイレント映画のポスターというか、宣伝のチラシというのか、それをご紹介します。

 日本語訳です。

コスモ劇場 6番街 3番街角
1923年4月24日火
ドーラ・フィルム制作
È PICCERELLA
 この物語で勝利するのは母の愛。許される息子トーレ・スピーナ。不運な恋に溺れた相手は、男たちに軽々と心を許すと、その心を引き裂くことに喜びを覚える危険な女なのだ。
 トーレ・スピーナは、そんな恋に駆られてついには犯罪に追い込まれ、深く苦しむことになる。ところが、この嘘つきの女はまだ愛していると言うのだが、それは裏切りの言い訳にすぎないのだった。
 名高いナポリの歌謡『È PICCERELLA(まだ小さな娘…)』に着想を得たドラマ。人気者ジェンナリエッロも出演。

 このエルヴィラさん、実は彼女の写真はこれともう1枚、ぜんぶで2枚ほどしか残っていいないと言われています。映画も長編を60本ほど撮っているのですが、フルで残っているのはわずか数本。そのうちの一本がこの『È  piccerella 』なんですね。
 その宣伝文句を読むと、主人公の女性はいわゆるファムファタールだということがわかります。男をたぶらかして、その心を弄ぶことに喜びを覚えるような危険な女。それがこの女性。なんだか清楚な顔をしてるから、お母さんが「まだこの子は子供だから」って言うわけ。この「子供」に相当するのが「ピッチェレッラ(piccerella)」なのですが、これはイタリア語というよりはナポリ方言、つまりナポリ語ですね。そのナポリ語がタイトルになっている。彼女の映画はたいていがナポリ語。現存するもう一本のタイトル『’A Santanotte(聖夜)』(1922)もまたナポリ語ですね。

 「ピッチェレッラ」は、この娘はまだ子供だよという意味なのですが、子供どころとんでもないファムファタールだというのが、この映画の趣旨。そして、そんな女に溺れてしまった主人公トーレ・スピーナが、中央で警官に取り押さえられている男ですね。恋に溺れて思わず犯罪に走ってしまったというわけですが、そんな男では、ただひとりお母さんは大切な息子。だから母の愛が勝利するのがこの映画なんだという、そんな映画です。

 ところで、このチラシが興味深いのは下段の部分が英語になっているということなんですね。何が書いてあるか。訳してみるとこんなことが書いてある。

Tuesday, April 24th, 1923
お母さん方へ警告
 この映画の教訓は、ご覧になるすべてのお母さん方に心に刻んでいただきたい。これはあなたの娘のことかもしれない。母親が不注意だと、道を踏み外す娘がいる。同じ運命から、あなた自身の娘を守ってください。
「ある少女の過ち」をご覧あれ

 どうしてイタリア語と英語で表記されているのか。じつはこれ、イタリアの宣伝チラシではなくて、アメリカでのチラシ。ニューヨークのナポリ移民のための上映会のチラシなわけです。1923年とありますから、イタリアでの公開と同時期ですね。イタリアからすぐに海を渡っている。早いんです。だってサイレントだから吹き替える必要がない。字幕を訳すも大変じゃない。むしろ訳す必要がない。なにしろニューヨークにはイタリアからの移民がおおぜいいた。ただフィルムを運ぶだけでよい。これ23年ですけど、 25年にはこのエルヴィラ・ノターリのドーラ・フィルムは、ドーラ・フィルム・オブ・アメリカという代理店まで作ってしまう。
 これ1923年です。1923年というのはどういう年かというとですね、イタリア映画は全部軒並みダメで、イタリア映画の監督はみんなドイツ行ったりフランス行ったりして、ダメだこの国はって言ってる時に、ただひとりナポリのドーラ・フィルムだけが気を吐いていて、どんどん観客を集めてしまう。映画館の前が人だかりで、まだ見ていない人がたくさん並んでいるから、しょうがない、警察に許可をもらい朝まで上映しようなんてことまでしたらしい。そんなことは後にも先にも、いや先はわかりませんが、後にはフェデリ・フェリーニの『甘い生活』(1960)があるだけだという。そんなヒット作をつくったのが、ナポリのドーラ・フィルムなんですね。

カンタンテ・アップレッソ

 そしてもうひとつ注意しておきたいのが、イタリア語の段の最後に書いてある言葉。赤字で訳しておきましたが、こうあります。

映画の上映中には 
「È PICCERELLA」の歌と
そのほかのナポリ民謡が生演奏されます。

 映画上映と生演奏とは、どういうことか。じつはエルヴィラのドーラ・フィルムの作品の多くが、上映のときに「カンタンテ・アップレッソ cantante appresso 」と呼ばれる専属歌手に、生演奏付きで歌をうたわせていた。そしてその歌に合わせて、上映するときにフィルムを回すスピードを変えていたというのです。当時は手回しで上映していましたから、音楽と映像を手動で同期させていた。むしろ、手動だから生演奏とあわせやすい。そんな事情があったようです。

 だから、ニューヨークで上映するとき、現地で歌手とバンドを調達したのでしょう。イタリアからの移民はおおぜいいましたからね。そんなに難しいことではない。そして、その歌の内容は映画にピッタリだった。むしろ、映画のほうが歌の内容に合わせて作られていたと言うのが本当のところ。映画より先に歌があった。そのヒット曲をもとに映画がつくられた。だから観客は歌をしっている。内容もわかっている。今でいうミュージック・ビデオのようなものだし、映画と歌のタイアップ企画と考えても良い。

 ではこの『È piccerella』というのはどいう曲なのか。カヴァー曲を聴きながら、ナポリ語の歌詞を追いかけてみてください。その次に日本語訳をあげておきます。


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‘A mamma ha ditto: “Oje ni’, saje che te dico?
E’ strappatella e nun capisce ancora.
Te tratta, ch’aggi’ ‘a dì, comm’a n’amico,
meglio ‘e n’amico, comm’a frate e sora.

E’ piccerella,
è ‘n’anema ‘nnucente
e nun capisce niente”.

E’ piccerella e intanto,
saccio sul’io chello ca dice ‘a gente.
Ma ‘a mamma dice ch’è ‘na piccerella.
E i’ dico appriess’â mamma: “E’ piccerella”.

日本語訳です。

お母さんは言った「ねえあなた」聞いてちょうだい
あの子はまだ幼くて何もわかっていない
あなたのことはね、なんていえばいいか、お友達みたいに思っている
お友達どころか、まるで兄と妹みたいにね

あの子はまだ小さい、
無邪気な魂、
何もわかっていないののよ

あの子はまだ小さいと言う——でもその一方で
世間がなんと噂しているか、知っているのはオレだけさ
それでもお母さんは「あの子はまだ小さい」と言う
だからオレもお母さんに一緒に繰り返す 「そう、まだ小さいですね」と

 この歌の「オレ」が映画の主人公なんですね。そして母親がまだ娘は「小さくて何も知らないのよ」なんて言っているけど、とんでもない。じつは彼女は男たちの気落ちを手玉にとるような女。そしてその彼女に自分はほれてしまった。そして挙句の果てにはナイフを手にして、罪を犯してしまう。

 エルヴィラのドーラ・フィルムは、こうして大衆的なヒット歌謡曲や、大衆小説を題材に、映画館に生演奏を持ち込み、手軽な娯楽として絶大な人気を誇ることになります。だからエルヴィアは、当時のヒット曲の権利を早く手に入れたい。そこで彼女が目をつけたのが、当時全国的に人気のあったピエディグロッタ音楽祭なわけです。それは日本でもよく知られる『オ・ソーレ・ミオ』や『フニクリフニクラ』などの曲を生み出した音楽祭なのです。

音楽の國と浮浪児たち

 じつは別府貫一郎もこのナポリの音楽祭のことに触れている。1936年の旅行記には「音楽の國」という一節があります。

音樂の國

 伊太利人は一體に歌を唄ふことの好きな國民である。そして、その歌が皆んなうまいし、質にいい聲を持つてる。海岸へ行けば漁師が唄つてるし、自動車では運轉手が唄つてゐる。町を彷徨ふ浮浪少年も唄つてゐる。無論正規な音樂教育を受けたわけでないのだから、聴く者がいたら成つてないのだらうが、その聲のいいのと、調子のいいのとで迷ひうつとりと聞き惚れてしまふことがある。
 またこれはナポリばかりの風景ではないが、伊太利には辻音楽師がに多い。自動ピアノを車に載つけて町中をうろつき廻り、聴衆に帽子を廻してゐる。かと思ふと、場末の飲なぞに入ってあると、ケチ臭い携楽蓄音機にレコードもほんの二枚ぐらゐ持つたのがやつて来て、それを鳴らし、帽子を持つて来る。ウンソルド(日本の5厘くらゐの金)も入れてやると、喜んで引き退ってゆく。
 九月七日には。ナポリのピュディグロツタといふ處で盛んな民議祭が行はれる。お祭の四五日前から、ナポリは音楽の洪水である。至るところでギターが鳴り、バイオリンが鳴り、聲楽が唄はれ、それはそれは賑やかである。殊にお祭の当日と来たら、人が三十人も乗れるやうな大きなだしが引き出され、それにギターを持つたのや、ヴィオリンを持つたのが乗り、伊太利全國から募集した作曲作詞を、その上で弾いたり唄つたりしながら町中を練つて歩く。そしてピュディグロツタへ曳き込んでゆくのであるが、その日うつかり町なぞ歩いてゐやうものなら、遂(つ)ひ耳許で、きなり喇叭(らっぱ)のやうな樂器をビーと吹き鳴らされ、びつくりして、飛び上るやうなことがある。子供達のいたづらである。

別府貫一郎「伊太利所見」『彩管余録』(昭和11年)所収

 

 別府画伯は「町を彷徨ふ浮浪少年も唄つてゐる」と記していますね。画伯は、ナポリにいた大勢の浮浪児たちのことをしっかりみておられる。おそらくだからなのでしょう、先の述べたチビタ夫人のことも知るようになる。

 ナポリには、前にも述べたやうに乞食や浮浪人が質に澤山ある。冬の寒い夜なぞ舗道を歩いてゐると、建物の壁にくつ着いて、五人も六人もの宿無し少年が押しかたまつて寝てゐる。そこは、下がの格子になつてゐて、建物内部のスチームか何か、兎に角温かい策がその格子から流れ出してゐるのである。しかもそれが一ヶ所や二ヶ所ではない。町中どこへ行つても、至るところにさう云ふ浮浪少年の群が押しかたまつて寝てゐる。では、かういふ浮浪少年群を収容する孤兒院のやうなものはないのかーーといふと、ないどころか、伊太利はさういふものの施設にかけては世界一、古い歴史を持つてゐるのである。
 〔中略〕
 ナポリの軍港に、少しも動かずに碇泊してゐる古い巡洋艦がある。チビタ夫人がどこかの國から譲り受けて、不良少年を収容し、自らそれの感化教育に當つてねる。今は隠居して後継者に任じてゐるが、チビタ夫人の感化事業は非常に好成績を繋げ、不良少年の中から、各方面に亙つて相当の成功者を輩出してゐる。その成績が除り美事だつたので、終ひには、上流の家庭から不良ならざる善良の子弟の教育を委託され、これも全力を注いで営つてゐるといふ。

同上

 先に述べたのようにチビタ夫人とは、ジュリア・チビタ・フランケスキ(Giulia Civita Franceschi、1870〜1957)のこと。ナポリに生まれ、1913年にナポリ港のベヴェレッロ埠頭に係留された廃艦「フランチェスコ・カラッチョロ(Francesco Caracciolo)」の艦上に孤児・浮浪児を収容する学校を開いたことで知られています。

 彼女の教育方法は「チビタ方式 metodo Civita」と呼ばれ、子供たちの個性を引き出し、それぞれに合った役割・職業を見つけるような見事な成果をあげたというのです。興味深いのは、その教育の基本にあったのが個性を大事にすること、自発性を育ててやること、教師はそれを助けるだけど、教育を押し付けることはできないという立場ですね。だから、教育界から注目され、あのモンテッソーリで知られるマリア・モンテッソーリ(Maria Montessori、1870 - 1952)からも評価されていたといいます。

 ところが、このチビタ夫人は1928年に解任され、彼女の少年施設はファシストの教育改革のもとでバリッラ国民事業団(Opera nazionale Barilla)に吸収されてしまいます。これは自発的な「隠居」ではなく、政治的な強制解任だということができるでしょう。別府貫一郎の文章が、1929〜33年頃の最初のナポリ滞在のことを書いているのだとすれば、チビタ夫人が解任された直後にその功績を知ったということなのだと思われます。

 チビタ夫人が更生に力を注いだナポリの浮浪児たちは、ナポリ語で「スクニッツォscugnizzo」 と呼ばれています。そんなスクニッツォたちをそのままスクリーンに登場させたのがエルヴィラ・ノターリなのです。

映画のなかの《ナポリ的なもの》

 エルヴィラ・ノターリは、ナポリの人々のリアルな生活からその題材を選びます。ピエディグロッタ音楽祭の人気の歌謡曲がナポリ的なリアルな人情を歌いあげたように、エルヴィラの物語にもリアルなナポリがそのままに登場します。そこではバッスィ(bassi)と呼ばれる貧しい人々の暮らしがあり、グワッピ(guappi)とよばれるヤクザものが幅を利かせ、スクニッツォたちの走り回る。貧困が支配し、社会の不安が交錯し、不公平と悲劇が愛を打ち負かす。人々はそんな悲劇を嘆きながらも笑顔を絶やさず、歌を歌いながら前を向いて生きようとする。そんなナポリ的なものは、ナポリの人々のあいで大ヒット、海を渡ってニューヨークにまでゆく。それこそ、アメリカ映画のギャングものや、日本映画の任侠もののような人気ぶりだったようです。

   

 それだけではありません。彼女の映画興行には楽団と歌手がついてくる。映画館は大衆演芸場のような空間になる。フィルムだってただの白黒映画ではない。じつはドーラ・フィルム社は最初アニリンによるフィルムの着色を仕事にしていた。フィルム全体を着色するなら自動化もできるのでしょうか、ドーラフィルム社では手塗りで繊細なカラーフィルムをつくっている。そのために女性たちを集めて、フィルムの画像の一枚一枚を丁寧に着色していったわけです。いわば家内工業のようなもの。

 それは出演者も同じです。人気者のジェンナリエッロを演じるのは、実はエルヴィアの長男エドアルド。そして個性的な「ピッチェレッラ」のようなファムファターレを演じたロゼ・アンジョーネは、息子の数学の家庭教師だったというのです。そして、背景のエキストラたちはナポリで生活する生活者がそのままの姿でとらえられていた。ストリートに出て、手の届く範囲のもので映画を撮っていた。題材選びから制作、そして工業まで、すべて自分たちの手で行った。それはある種のブリコラージュであり、職人的な営みなわけです。

 ところが、それが当局には気に入らない。ギャングや浮浪児たちの存在は立派な国には相応しくない。ナポリ語が多様されることは、イタリア語を共通言語として掲げる統一国家には、どうにも田舎くさく、後進的なものにうつる。それがファシズム体制以前から目をつけられていたドーラ・フィルムの作品は、ファシズムの時代となってますます厳しい検閲をうけることになる。

 なによりも決定的だったのは、トーキーの時代が始まったこと。音声を録音するにはスタジオが必要になる。ファシズムは国策として映画に力をいれるようになり、映画作りはローマに集約されてゆく。ようするに映画はもはや、日曜大工(ブリコラージュ)のようには作れなくなってゆく。こうして1930年、エルヴィラ・ノターリは映画の世界から離れてゆくことになるのです。

 ここに晩年のエルヴィラ・ノターリの写真があります。その悲しそうな眼差しは、おそらく映画に人生をささげて生きてきた情熱を懐かしんでいるのでしょうか。サレルノの近くの生まれ故郷の村にひきこもった彼女は、映画の歴史から忘れ去られてしまいます。実際、しばらく前まで、イタリア初の女性監督といえばリナ・ウェルトミューラー(1928- 2021)だと言われてしました。けれども今、エルヴィラの業績が少しずつ忘却の淵から掬い上げられてきました。彼女の作品は、まだまだどこかの倉庫からふと見つかるかもしれません。なにしろ今、世界中の映画人や映画史家が彼女のフィルムを探そうとしているのです。見つかったフィルムの修復もすすんでいるようです。彼女の伝記も出版されました。また去年(2025)には、彼女の生誕150年をさまざまなイベントが行われ、ドキュメンタリー映画もつくられたたようです。

 それでは最後に、生誕150年を記念して作られた2分の動画をごらんください。ありがとうございました。


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