雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

"La storia" (Francesco De Gregori, 1985)を訳してみた

イタリアの4月25日は「解放記念日」。人気司会者ファビオ・ファツィオの番組「Che tempo che fa」では番組のなかで「感謝を口にする勇気」というビデオを作成して放送した。 

 イタリアで有名な俳優たちが、町のあちこちにあるレジスタンス闘争で命を落としたパルチザンの碑銘を尋ねて歩くというもの。ほんとうにただ尋ねて歩くだけ。そしてその命を落とした者たちの名前を見上げるその表情。そこに「感謝を口にする勇気」が必要になってきた歴史の流れを感じざるをえないのは、そんな時代であることだけではなくて、背後にながれるデ・グレゴーリの『歴史』(1985)の歌声が語り掛けてくるからだ。

 そのデ・グレゴーリの歌う姿はここでご覧になっていただきたい。ぼくはそれだけで心震えてしまう。  

youtu.be

けれども、なによりも大切のなのは、その歌詞にある。象徴的ではあるけれど、すごくシンプルなその歌詞を以下に訳しておくので、ご笑覧。

歴史 (フランチェスコ・デ・グレゴーリ)

 

歴史はぼくたち だれも傷けられたと感じないように

ぼくたちが空のもとに広がる平原の針なのさ

歴史はぼくたち だれも除け者にされたと感じないように

歴史はぼくたち ぼくたちが この幾重もの海の波

沈黙を破るこの響き

硬くて歯が立たないこの沈黙なのさ

 

やがてこう言われる 「みんな同じさ

みんな同じように盗むのさ」

でもそれは ぼくらをうまく言いくるめて

夜がきても家に閉じこもらせておく方便だろ

 

歴史はけっして玄関で立ち止まることはない

歴史は部屋のなかに入ってくる そして焼き払う

歴史は正しいこと間違ったことを見逃さない

歴史はぼくたち ぼくたちが文字を書くのだから

ぼくたちが勝利すべきもののすべて 敗北のすべてなのだから

 

そして人々は(人々が歴史を作るのだ)

なにかを選ばなければならず どこかに行かなければならないとき

すべてを再びその開かれた目の前におく

なにをすべきわかっているその目の前に

 

百万冊の本を読んだ者も

話すことさえできない者も

歴史にその心を震わせるのは そういうこと

歴史は誰にも止められないのだから

 

歴史はぼくたち ぼくたちが父であり息子

旅立つのは、チャオ・ベッラ(愛しの君よさらば)、ほかでもないぼくたちなのさ

歴史には隠れ場所なんてない

歴史がゲームを降りることはない

歴史はぼくたち、ぼくたちがこの平原の麦なのさ

 イタリア語はこれ。

La storia (siamo noi
di Francesco De Gregori (1985)

La storia siamo noi, nessuno si senta offeso,
siamo noi questo prato di aghi sotto il cielo.
La storia siamo noi, attenzione, nessuno si senta escluso.
La storia siamo noi, siamo noi queste onde nel mare,
questo rumore che rompe il silenzio,
questo silenzio così duro da masticare.

E poi ti dicono "Tutti sono uguali,
tutti rubano alla stessa maniera".
Ma è solo un modo per convincerti
a restare chiuso dentro casa quando viene la sera.

Però la storia non si ferma davvero davanti a un portone,
la storia entra dentro le stanze, le brucia,
la storia dà torto e dà ragione.
La storia siamo noi, siamo noi che scriviamo le lettere,
siamo noi che abbiamo tutto da vincere, tutto da perdere.

E poi la gente, (perché è la gente che fa la storia)
quando si tratta di scegliere e di andare,
te la ritrovi tutta con gli occhi aperti,
che sanno benissimo cosa fare.

Quelli che hanno letto milioni di libri
e quelli che non sanno nemmeno parlare,
ed è per questo che la storia dà i brividi,
perché nessuno la può fermare.

La storia siamo noi, siamo noi padri e figli,
siamo noi, bella ciao, che partiamo.
La storia non ha nascondigli,
la storia non passa la mano.
La storia siamo noi, siamo noi questo piatto di grano.

この曲のイメージをかなり露骨に、その意味でわかりやすく曲にあわせてものがこれ。ただし年齢制限がかかっているので、ログインしてご覧になってくださいな。

 


www.youtube.com

 

La storia

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「剥き出しの生とワクチン」... 訳してみた

 アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』のことはすでに紹介した。そこでのエッセイはすべて、Quodlibet 社のサイトに掲載されたもので、その最後の章「恐怖とはなにか?」(2020/7/13)の後も、アガンベンは執筆を続けている。最新版のエッセイが、今月の16日に掲載された「剥き出しの生とワクチン」だ。

www.quodlibet.it

 読んでみると、アガンベンのエッセンスが見事に集約されているだけではなく、今ぼくたち誰もが感じている不安を見事に言語化してくれているではないか。短いエッセイなので、ささっと日本語に訳してみた。こなれていない箇所はご勘弁。ではご笑覧。

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剥き出しの生とワクチン

 わたしはこれまで、剥き出しの生という形象を思い起こしてきた。事実、感染症があらゆる可能な疑いを超えて示しているのは、人類が信じるものはもはや剥き出しの実存だけになってしまったという事態のように思われる。キリスト教による愛と憐憫の営み、そして殉教さえもいとわない信仰も、政治理念が掲げる無条件の連帯と、労働の金銭への信頼も、剥き出しの生が脅かされるやいなや、二次的な場所へと後退してしまうように見える。その脅威をもたらすリスクの統計的な実態は不確かで、あえてきちんと規定されないままに放置されているにもかかわらずである。

 この概念の意味と起源をはっきりさせるときが来た。そのためには、人間というのは一度定義すればそれで済むような存在ではないことを思い出しておく必要がある。それはむしろ、絶え間なく更新される歴史的な決断の場所であり、その度ごとに人間を動物から、すなわち人間のなかにある人間的なものを、彼の内や彼の外にあって人間的ではないものから隔てる境界を定めるのだ。

 リンネが、その分類学のために、人間を霊長類から区分する特徴を記述しようとしたとき、彼はどうしてよいかわからないと告白すると、ホモ homo という一般名の傍に、古い哲学的なモットー「nosce te ipsum (なんじ自身を知っている)」と書き記すだけに終わる。これがサピエンス sapiens の意味なのであって、後にリンネは、その著書『自然の体系』の第10版に次のように書き加えることになる。ヒトとは自分がヒトであること認識し、それゆえにヒトのものではないものからヒトのものを分類する――決断する ―― 動物である、と。

 この決断を歴史的に実行させてきた装置のことを、人類学的マシンと呼ぶことができる。マシンの機能は、人間を動物的な生から排除し、この排除によって人間を生産することだ。しかし、マシンが機能するためには、この排除がひとつの包摂でもあり、動物と人間のふたつの極のはざまに関節 articolazione があって、動物と人間を分断しながらも連結する閾があることなのだ。この関節が剥き出しの生である。すなわち、まったく動物的であるわけでもなく、ほんとうに人間的でもないものの、その中では絶えず人間と人間ではないものの分類が遂行されている、それが剥き出しの生なのだ。

 この閾は、必然的に人間の内部を通過し、彼の中で生物学的な生と社会的な生を区分する。それはひとつの抽象物であり仮想的な存在だ。しかし、抽象物でありながらも、それはリアルなものとして、その都度その都度、具体的で歴史的かつ政治的に定義された形象のなかに血肉化してゆく。すなわち、奴隷、野蛮人、ホモ・サケルのように、殺しても犯罪とならない対象。あるいは啓蒙の時代から19世紀にかけて、野生児、人狼、そして猿と人間の間の失われた環としてホモ・アラルス。20世紀にあっては、例外状態における市民、ラーガーのユダヤ人、蘇生室における超過昏睡状態の人や臓器移植のために保存された肉体。

 パンデミックの管理において今日問題となる剥き出しの生の形象とは、どのようなものなのだろうか。それはもはや病人ではない。病人は、たしかに隔離され、医学の歴史のなかでこれまでそう扱われてきたように扱われているとしても、そうではない。それは、感染した者である。あるいは ―― 矛盾に満ちた言葉で定義されるように ―― 無症状の病人 il malato asintomatico と呼ばれる者がそうなのだ。どんな人間も、仮想的に、知らないうちにそうなっているところのものである無症状の病人が、剥き出しの生の形象となっているのだ。

 問題はもはや健康ではなく、健康でも病んでもいない生命なのだ。そういうものとしての生命は、病状発症の可能性があるがゆえに、その自由を剥奪することが許され、あらゆる種類の禁止と監視のもとに置くことができるものとなる。あらゆる人間は、この意味において、仮想的に無症状の病人だ。病気と健康の間を揺れ動くこの生命の唯一のアイデンティティは、PCR検査とワクチンを運命づけられていることだ。PCR検査とワクチンは、新しい宗教の洗礼として、かつて市民権と呼ばれていたものの転倒した形象を規定することになる。洗礼は、もはや消すことができないものではなくなり、必然的に臨時的で刷新可能なものとなる。というのも、この新しい市民権は、いつでもその証明書を提示しなければならないのであって、もはや剥奪不能な権利でも解消不能な権利でもなくなってしまい、たんなる義務となって、絶えず決定され更新されなければならないものとなるのだ。

2020年4月16日

ジョルジョ・アガンベン

 

私たちはどこにいるのか?

私たちはどこにいるのか?

 
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

 
例外状態

例外状態

 

 

ヌメラシー、低くあること、応答可能性、そして世界に参加すること

計算する生命

4/25 

 TWで評判がよかったので、近所の書店で注文。届いてすぐにページをめくる。おもしろい。指で数字を操ながら数的理解に到達するに、どうやら人は痛みを伴う跳躍をしなければならないようだ。
 森田さんは記している。「生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へと押し広げてゆくには、多かれ少なかれ痛みを伴う」。だから韓国には「数放者(スポジョ)」という言葉があり、英語圏には「数学恐怖症 mathemaphobia 」という言葉があるという。それでも、この痛みを乗り越え跳躍を果たすことで、生まれ持っていた「数覚(すうかく)」が少しずつ文節化されてゆく。こうして数字を操る能力としての Numeracy が出来上がってゆく。

 なるほど、パンデミックの時代に問われているのは、文字を操る能力としてのリテラシー literacy に加えて、この数字を司るヌメラシー Numeracy でもあるのだろう。日本で、毎年インフルエンザが直接の原因で死亡する人がほぼ3,000人。インフルエンザにかかったことによって自分が罹患している慢性疾患が悪化して死亡するケース(超過死亡)については10,000人と言われている。コヴィッド19の死亡者数はどうか。東洋経済のサイトを見ると現在までの数字が9,851人。超過死亡についてはそこにはデータがない。これは誰かに調べて欲しいのだけど、聞くところによると、日本はそれほど増えていないらしい。
 この数字をどう理解するか。それがヌメラシーだ。それはたとえば、今問題になっているトリチウム水の海洋投棄の問題もそうだし、その原因となった2011年の原子力発電所事故とそれにとおなう放射能汚染の問題もそうだ。あのとき、ぼくらのなかにあったヌメラシーの貧困。桁が違うという認識をすることができなくて、有るか無いか、それは毒か毒ではないかという幼児退行。それが今でも続いているのだ。

 文字もそうだが、数字というは、「生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へと押し広げてゆく」道具にほかならない。けれども、この道具のことをよく知らないと、それを使うことはおろか、いつのまにか道具に使われてしまうことになってしまう。

 いやはや、まだ読み始めたばかりなのだけど、これは楽しい。なんだか中学生の数学の時間からやり直しているような感覚。しかも、まだまだページがあるぜ、ドキドキ!

 

4/26

 読了。近年でいちばん響いた。すこぶる読みやすい文章。その背後にある教育者としての実践があり、そこから紡ぎ出された知の営みがある。

 だから、フレーゲラッセル、そしてヴィトゲンシュタインと、「言語論的的転換」の流れが、そういうことだったのかと腑に落ちる。

 なによりも掃除ロボット・ルンバの話がよい。ロドニー・ブルックスによる「表象なき知性」とか「世界自身が世界の最良のモデルだ(The world is its own best model.)」なんていう言葉には、グッと引き込まれてしまう。なにしろ一つの中枢がすべてを制御する中枢的なシステムではなく、何層にも別れた制御系が互いを包摂しながら並行して動き続ける非中枢的システムを具現化したルンバ君が、我が家でも大活躍しているのだ。

 この表象なき知性のモデルは昆虫なんだという。なるほど非中枢的なシステムではないか。身体的なセンサーを介して、自分を取り囲む世界に参加する生命。それはまさにハイデガーが着想の源泉とした生物学者のユクスキュルのダニと、その環世界(ウムベルト)。

 ひるがえって僕たち人間はどうなのか。森田さんが披露する人間という表象の系譜学的な解体も素敵だ。人間= Human の語源とはラテン語の「humus(大地)」であり「humilis(低い)」に由来する言葉であること。これを数学的知性による拡張された世界に生きるぼくらの姿と重ね合わせて見せるとき、こんな言葉が出てくることになる。

 「私たちはいま、自分の朝の発熱が、地球規模のパンデミックの局所的な現れかもしれないと感じる。今日の暑さが、生物の大量絶滅を引き起こしている気候変動の一部かもしれないと考える。こうして、いつも自分が、無数の異なるスケールの字武具が錯綜する網(メッシュ)のなかに編み込まれていると実感すること」。

 すなわち、数学を通して出会った「ハイパーオブジェクト」との接触が、ぼくたちに「human」として「低く humilis」あり、その意味で「恥」を感じながら「謙虚」であるべきだという自覚を促すわけだ。もはや人は自然界の頂点ではない。自分を取り巻くすべてのものと同じ地平に低く降り立っているという意識。そして、その地平において、他者の存在に耳をすませ、それに応答すること。そうした意味での応答可能性/責任(responsibility)が、計算する生命に託されている。

 世界を描写することから世界に参加することへの跳躍。ヴィトゲンシュタインの場合それは、田舎引きこもって子供たちを相手に教えること、問題も起こしたようだけれど、それにもかかわらずそうすることによって、もたらされる。少なくとも森田さんはそう読んでいる。
そういうのをキリスト教では洗礼というのだろう。深く沈んで浮き上がること。

 まさに環世界へと深く沈み、みずからの「低さ humilis 」と「恥」と「謙虚」を飲み込んで、そこに身を投げ出すことではじめて、浮かぶ瀬もあるということなのかもしれない。

 

計算する生命

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  • 作者:森田 真生
  • 発売日: 2021/04/15
  • メディア: 単行本
 
開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

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