雲の中の散歩のように

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『La cieca di Sorrento(ソレントの盲女)』(1934)短評

マニャーニ祭り。イタリア版DVDの到着を待ちながら、デビュー作ということで辛抱たまらず、このサイトにて視聴。24-38。Filmaks のリストになし。

1)原作者 F.マストリアーニ

 1934年の作品でタイトルは「ソレントの盲女」。原作はフランチェスコ・マストリアーニ(1819 - 1891)の同名小説(1852刊)。ナポリ生まれの作家。19世紀に普及した新聞の連載小説で人気で博す。その関心はナポリの下層階級に向けられ、叙述スタイルは絵のように美しく、心和ませるものだが、決して迎合的ではないという。ベネデット・クローチェによれば、「このジャンルのもっとも注目すべき作家」(il più notabile romanziere del genere)であり、文学に馴染みのない人々にまで広く読まれたという。イタリア大衆小説の走りだけれど、同時に、イタリアの南部文学の誕生に貢献し、ヴェリズム誕生の基礎を築いたという。

 ナポリのサン・フェルディナンド劇場にはでフランチェスコ・マストリアーニに捧げられたプレートが飾られている。

FRANCESCO MASTRIANI
FU L'INDIVIDUAZIONE DI QUESTO POPOLO NAPOLETANO
LAVORARE E SOGNARE SOFFRIRE PAZIENTEMENTE E MORIRE
S’INTENDEVANO L'UN L' ALTRO
EGLI AVEVA VISITATO L'ULTIMO TUGURIO E IL POPOLO
SI RICONOSCEVA IN LUI
IN ALTRO PAESE SAREBBE DIVENUTO RICCO
MA L'ITALIA POVERA COME LUI NON MERITA RIMPROVERO
G. BovIo

 訳しておこう。

フランチェスコ・マストリアーニは
ここにいるナポリの人民を体現する人だった
働き夢を見ること 辛抱強く耐えて死ぬこと
それぞれに折り合いをつけていた
最も貧しい家までを訪ねてゆく姿は
人民そのものに見えたのだ
他の国だったなら裕福になれただろう
しかし彼のように貧しいイタリアを責めることはできない

G.ボーヴィオ *1

 マストリアーニは貧しい中で執筆を続け、最後には半ば目も見えなくなり、借金を抱えて亡くなっていったという。イタリアにおけるジャッロあるいはノワールというジャンルの創始者でもあったが、そんなナポリの大衆作家が生前に見返りを得ることはなかった。それでもこの『ソレントの盲女』など広く読まれ、映画化も繰り返された。サイレントの時代から数えると1916年版、ここで取り上げるトーキーの初期の作品である1934年版、さらに戦後になって大衆的ネオレアリズモ(neorealismo d'appendice )時代における1953版、そしてカラー作品の1963年版と続く。

3)物語とその時代

 映画の始まりは1834年。それはナポリがまだ両シチリア王国だったころ、ある居酒屋の地下室で秘密めいた集会が開かれている。冒頭のカメラが捉えるのは炭(カルボーネ)がおこされている映像。なるほど集まったのはカルボナーリ党員たちというわけか。

 カルボナーリはナポリに起源をもつ。フランス革命の影響を受けて、自由を称揚し憲法の制定を訴えたのが始まりだ。ナポリは革命の街でもある。1799年にはパルテノペア共和国が3ヶ月だけの自由を謳歌*2。そしてウィーン体制(1814-1848)の反動。ナポリではブルボン王朝による復古的な治世への反発が強まり、農村ブルジョアジー、下層聖職者、開明的な官僚、そして士官クラスの軍人などが政治的な秘密結社カルボナーリを組織、自由主義的な改革をめざし、1820年に蜂起(ナポリ革命)するも、オーストリアの介入などで鎮圧される。

 それから14年たったカルボナーリたちを描き出すのが映画の冒頭。その集会を摘発しようとブルボンの憲兵隊が突入してくる。かろうじて逃げ出したカルボナーリたちだが、ちょうどそのころ近くのリオネーリ侯爵の屋敷に賊が入り夫人が殺される。現場を目撃した娘ベアトリーチェは恐怖のあまりに熱を出し、そのせいで失明してしまう。

 ところが憲兵たちが逮捕したのはカルボナーリを指揮者フェルディナンド・バルディエーリだった。彼は公爵の屋敷近くに署名入りのマフラーを落としてしまったのだ。殺しは否定してもアリバイはない。秘密の集会に参加していたとは言えない。仲間を売るよりも革命のための犠牲を選び、絞首刑となる。父を信じた息子カルロ・バルディエーレ、不正のはびこるナポリを離れ、自由の地イギリスで医学を学ぶ。

 リオネーリ侯爵婦人を殺したのは誰か。犯人は会計士のエルネスト・バジリオだった。犯行から帰った彼を待っていたのが愛人のアンナ。演じるのはアンナ・マニャーニ。映画初出演。オープニングで主演のドリア・パオラ(盲女ベアトリーチェ)に次いで2番目にクレジットされる。演じるのは裕福なドン・ジャコモの妻にして、その会計士エルネストと密通する女。登場した瞬間から眼を奪われるのは、大きく胸のはだけた衣装、大きく開いた瞳、その影のある眼差しだ。

 もしかすると浮気を疑ったのか、彼女は愛人エルネストを問い詰める。どこに行っていたの、また負けたのと畳み掛ける。なるほどギャンブルにも手をだす男だったのか。だとすれば、侯爵の邸宅に窃盗に入った理由は借金の埋め合わせなのだろう。アンナ/マニャーニの眼差しはすべてを見透かす。その人間の業と、その業から来る苦悩は、彼女の目から逃れることはできない。そんなふうに思わせるのは、それこそマニャーニの生い立ちも関係しているのではないか。

4)アンナ・マニャーニ、そのデビューまで

 アンナ・マニャーニは1908年3月7日、ローマのサラリア126通り、ポルタ・ピア(現在のノメンターノ地区)近くに生まれる。母親マリーナ・マニャーニは18歳でアンナを出産すると、その世話を母親に委ねる。こうしてアンナは、祖母と5人の叔母とひとりの叔父の済むローマのサン・テオドーロ通り(カンピドリオとパラティーノの丘に挟まれた通り)で育つことになる。

 アンアは父親を知らない。大人になって父の身元を探り、カラブリアに出自を持つデル・ドゥーチェが彼女の姓になるはずだったと知る。父親の名前はピエトロ・デル・ドゥーチェ、法学者で貴族の生まれだったおいう。しかし、アンナはそこで身元を探るのをやめたという。「ドゥーチェの娘」と呼ばれたくなかったからだと、笑いながら回想したというのだ。

 アンナの母のマリーナ・マニャーニは、娘を残してエジプトのアレクサンドリアに移住すると、そこで裕福なオーストリア人と出会って結婚する。おそらくはそれが理由で、アンナ・マニャーニはエジプト生まれで、ジプシーの血を引く女優だと信じられていた。なにしろジプシーの語源はエジプトなのだから。

 アンナの祖母は、孫娘を懸命に育てる。勉強させようと寄宿舎に入れるが、数ヶ月しか続かない。結局は家で勉強し、ピアノを練習し、ローマの名門サンタ・チェチリア音楽院に入学するまでになる。1923年、15歳のときアンナは母親を訪問するためにエジプトのアレクサンドリアに行く。しかし望んでいた愛情を知ることができず、親子の関係を作ることができない。関係を作ることができず、非常に痛みを伴う経験となってしまう。ローマに戻ったアンナは、パオロ・ストッパと出会い、音楽院に併設されていたエレノーラ・ドゥーゼ演劇学校に飛び込むことになる。

 1925年には劇団との契約にこぎつけるが、学校ではトップだったアンナも、プロの世界ではセリフをひとつだけもらえればよいのだった。やがて1930年代にはいると、映画がトーキーとなり、セリフをきちんと言える人材が求められるようになる。アンナも吹き替えの仕事などから、映画の世界に近づき、ついに映画デビューするのが、1934年のこの『ソレントの盲女』での殺人犯の愛人の役だったというわけだ。

5)物語の続き

 1834年に始まった物語は、その10年後の1844年となる。無実の罪で絞首刑となったカルボナーリの指導者の息子カルロが、イギリスで医学を修めた名医サイモンとして故郷に帰ると、あの悲劇の夜に盲目となったベアトリーチェの治療をすることになる。手術をすればまた見えるようになるという。

 しかしそのとき、あろうことかあの強盗にしてベアトリーチェの母を殺した会計士のエルネストが、リオネーロ公爵家の盲女ベアトリーチェと婚約していたのだ。ベアトリーチェは、目が見なくても次第にサイモンことカルロに惹かれてゆく。それはカルロも同じ。しかし、その父は娘の母を殺したという濡れ衣で絞首刑となっている。だから自分の正体を明かすわけにもゆかない。しかもベアトリーチェは婚約してもいる。

 手術は成功し、ベアトリーチェは目が見えるようになる。その目で探し求めるのはイギリス帰りの医者サイモン/カルロなのだが、彼は身を引こうとしている。そこに登場するのが、アンナ・マニャーニの演じる愛人アンナ。彼女はまだエルネストに未練があるのだが、その彼が自分が殺めた侯爵夫人の娘と結婚することが耐えられない。

 こうしてアンナ/マニャーニは、リオネーロ(Rionero)侯爵夫人殺しの証拠の品であるRの文字の刻まれた指輪を、エルネストとベアトリーチェの婚約の指輪にすり替える。そして婚約披露の舞踏会。このシーンが見事なのだけれど、そこで指輪が目にふれたとき、ベアトリーチェは自分の婚約者の眼差しが、母親殺しの犯人のそれであることに気が付く。そこにアンアがやってきてすべてを告白することになる。

 こうして、あの悲劇の夜の真実が明らかになったとき、もはや盲ではないベアトリーチェは、彼女に瞳に光を取り戻した医者の本名を知るが、ふたりの恋路を妨げるものはない。

 

 

 

 

 

*1: G. ボーヴィオGiovanni Bovio, 1837 –1903 )はナポリの哲学者。

*2:タヴィアーニ兄弟の『サンフェリーチェ/運命の愛』(2004) がこの共和国を描いている。