雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

3月9日横浜、朝カル「アンナ・マニャーニ:芸に生き、愛に生き」(2)

写真はアンナ・マニャーニ・アーカイブより

 

4)結婚、そして出産... 

 アンナは1935年に結婚します。お相手は映画監督のゴッフレード・アレッサンドリーニ( (1904 – 1978)。出会いは少し前、アンナがアントニオ・ガンドゥシオ劇団で活躍しているころとのことだが、その後アレッサンドリーニはアンナにグレダガルボの吹き替えを頼んだというのですが、ほんとうにそうだったのか、ただの口実だったのかわかりません。実際に吹き替えはしていなかったところを見れば口実なのですが、1930年代はトーキーの時代、吹き替えでの外国映画の上映もさかんに行われるようになっていたことを考えれば、実にもっともらしい口実です。

 アンナもまたアレッサンドリーニに惚れ込みます。マニャーニのアーカイブには、結婚したふたりがヴェネツィア旅行をしたときの写真のようです。ご覧のようにアレッサンドリーニはすらりとした美男子。もと障害物競争の選手というスポーツマンであり、当時どんどん華やかになってくる映画界のプリンス。ファシズムが映画に力を入れてゆく時代に、比較的体制と近い映画を撮って賞賛されます。

 結婚してすぐにアレッサンドリーニが発表したのが『Cavalleria(騎兵隊)』(1936)。この作品はイタリア語版をYouTubeで全編見ることができます。

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 主演はアメデオ・ナッザーリですが、彼を主役に推薦したのはマニャーニだったといいます。ナッザーリはこれが2作目。デビュー作の『Ginevra degli Almieri』の評判が芳しくなかったのですが、マニャーニの強い推薦で主役に抜擢されると、伯爵令嬢スペランツァ(エリーサ・チェガーニ)と恋に落ちる騎兵隊の若き少尉ウンベルト・ソラーロを好演。スペランツァの家はしかし経済的に行き詰まり、ウンベルトとの結婚は諦めざるを得ない。その間、時代は変わり、騎兵隊は時代遅れになってゆく。恋にやぶれたウンベルトはパイロットに転向して活躍するも、第一次世界大戦中の作戦で命を落とす。パイロットの話はその後の『空征かば(Luciano Serra Piota)』(1938)へと続くのですが、マニャーニの出演はどうなったのか。

 じつはゴッフレード・アレッサンドリーニの映画にマニャーニが出演したのは2作だけ。1作目は『Cavalleria』なのですが、登場するのは1シーンだけで、しかも遠目から。どうしてそうなったのか。どううやらアレッサンドリーニは、アンナの魅力は舞台にあり、映画には向いていないと考えていたようです。じっさい、『Cavalleria』のアンナはファニーという歌手としてレビューの舞台に登場するだけ。本筋とはほとんど関係のないお飾りで、ほとんどエキストラ扱い。実のところ、アンナとしてはそれでもよかったみたいで、むしろ家にいて妻でいたかったようです。

 ところがアレッサンドリーニは仕事で忙しくてなかなか家に帰らない。仕事は映画関係ですから、おおくの美女たちと一緒。浮気もあった。嫉妬深いアンナとはしばしば大喧嘩になったそうですが、本気でなければまだよかった。子どもができていたらまた違っていたのでしょう。しかしふたりの子宝に授かることはない。父を知らず、母親に捨てられ、祖母に育てられたアンナです。愛に飢えていた。自分だけを愛して欲しかった。そういうことだと思います。

 そんなふたりの中は長く続かない。しばらくするとアレッサンドリーニは家を出てしまう。レジーナ・ビアンキという女優と本気になってしまったようです。アンナはアンナで、若い俳優マッシモ・セラートと付き合うようになる。仕事の上では、本格的な演劇の世界でも認められるようになります。1938年、アントン・ジュリオ・ブラガッリャのテアトロ・デッレ・アルティ劇団で、アンナはロバート・E・シャーウッドの戯曲『化石の森』(1934)の女性主人公ガブリエル(ギャッビー)・メイプルを演じます。これは1936年の映画ではベティ・デイヴィスが演じた役ですが、本格的な舞台での存在感のある人物を演じたという意味で、これはアンナにとってひとつの到達点だったようです。映画でもその後はヴィットリオ・デ・シーカの『金曜日のテレーサ』(1941)などで印象的な役割にみぐまれます。レビュー歌手の役なのですが、デ・シーカは彼女の魅力を見事に引き出していると言えるでしょう。

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 この演技がヴィスコンティの目に止まります。ぜひともアンナを自分のデビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に起用したいと声がかかります。脚本を読んだアンナは大喜びです。こういう役がやってみたかった。ところが撮影がなかなか始まりません。どうやら検閲の問題ですこし時間がかかっていたのようです。

  1942年の夏ごろです。じつはアンナはこのころマッシモ・セラートの子供を身ごもっていました。自分は不妊だと油断していたようです。けれどもアンナは、妊娠を隠して撮影に臨もうとしていました。しかし、撮影の延期で大きくなったお腹が隠せなくなります。そして結局は、降板をよぎなくされ、代わりにクララ・カラマーイが呼ばれることになります。

 1942年10月23日、ルーカが生まれます。父親はセラートですが認知していません。そもそも父親になる気がなかったことは、アンナにもわかっていたのでしょう。当時は離婚もできませんでした。ルーカは別居していたアレッサンドリーニの姓を名乗ることになります。12月、アンナはすぐに新しい映画の撮影にでます。子供を育てるためにも稼がなければならなかったのです。翌年の1月にはカルロ・ルドヴィーコ・ブラガッリャの『人は素晴らしい』の撮影が始まります。

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 続いて2月にはマリオ・ボンナールの『Campo de' fiori(カンポ・デ・フィオーリ広場)』、そしてマリオ・マットーリの『L'ultima carrozzella(最後の馬車)』を撮影します。ここでアンナは、アルド・ファブリーツィと共演します。彼もまた当時の軽喜劇の舞台のスターですね。

 アンナとアルド。このふたりが演じるローマの庶民の姿はじつに生き生きとしています。戦争のさなか、ひとびとはふたりの名優の軽妙で身近な演技に魅せられていたののです。そして、そんな作品がなければ、ロベルト・ロッセッリーニの『無防備都市ローマ』(1945)が生まれることもなかったでしょう。

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5)ヴィスコンティによるマニャーニ

 戦後になって、ヴィスコンティはアンナと仕事をしてみたいと考えます。ネオレアリズモは、素人の俳優を使うと言われます。たしかに『揺れる大地』(1948)のヴィスコンティは、シチリアの漁村アーチ・トレッツァの本物の漁民たちを出演させて見事な成果を収めます。しかし、これはもともとドキュメンタリーとして企画されたものでした。加えて、このころのヴィスコンティは、精力的に演劇の演出に取り組んでいます。プロの俳優と作品を作り上げてゆくこと。それがヴィスコンティにとっては、ネオレアリズモのドグマよりも大切なものだったはずです。

 そのヴィスコンティがぜひとも演出したいと願ったのがアンナ・マニャーニでした。そのころヴィスコンティが考えていたのは、ヴァスコ・プラトリーニの小説『Cronache di poveri amanti(哀れな恋人たちの日誌)』(1946 [1936]*1)や、『カルメン』で知られれるプロスペル・メリメの『Le Carrosse du Saint-Sacrement (聖なる秘蹟の馬車)』(1830)(オッフェンバッハの『ラ・ペリコール』の原作)の映画化。しかし実現することなく、後にそれぞれカルロ・リッツァーリジャン・ルノワールの手によって映画化されることになります。

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 そんななか、チェーザレ・ザヴァッティーニの原案を得て、それをスーゾ・チェッキ・ダミーコヴィスコンティが発展させたのが『ベリッシマ』です。

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 こうして映画のなかでアンナの魅力を引き出して見せると、ヴィスコンティは次に彼女の舞台での魅力、その人となりを見事な短編に描き出します。それがこのオムニバス映画『われら女性』のなかの「アンナ・マニャーニ」のエピソード。そのラストに歌う『Com'è bello fa' l'amore quanno è sera』(夜になって愛を交わすのはなんて素敵なこと)は絶品です。

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拙訳ですが対訳のファイルも載せておきますね。

6)象徴としてのマニャーニの叫び

そんなアンナ・マニャーニというひとが、イタリア映画にとって忘れられない存在であるのは、もちろん『無防備年ローマ』という映画があったからです。ピエル・パオロ・パゾリーニによれば、それは「今ではほとんど象徴」だというのですが、それはまた次回ということで。

 

 

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*1:構想されたのは戦前の1936年だが出版は戦後になる。