雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

Claude d'Anna『Trompe-l'œil(Broken mirror)』(1975)短評

 

 N座2。アメリカ版のBD( Mondo Macabra)。'23-118。

 ギリシャ映画の『欲望の沼』(1966)に続いて、フランス・ベルギー映画。これはフィルマークスには見当たらない。日本公開もなし。日本版のメディアも見当たらない。

 映画のフランス語タイトルは「Trompe-l'œil」。文字通りには「目をだます」。それが絵なら「だまし絵」。これは映画だから「目をだます映画」ということか。だとすれば、冒頭に映し出されるのがヤン・ファン・エイクによる『アルノルフィーニ夫妻像』(1434年)というのも納得。ここには有名な凸面鏡が描かれている。そこには、身籠もった若妻と夫らしき人物の背中が映り込んでいるだけではなく、赤いターバンを巻いた画家ファン・エイクの姿も描き込まれている。

 なるほど鏡は見えないものを写すことがある。映画もまた同じ。だとすれば、みごとな幽霊映画。ただし幽霊らしい幽霊のクリシェはない。ここにある幽霊、あるいは幽霊のようなものとは、主人公アンの依代となったロール・デイシェネル(Laure Dechasnel)が、ファン・エイクの描くアルノルフィーニ夫人の雰囲気をそのままであること。最初に登場するところから生きた幽霊のように、この世のものではないようなロココ調の部屋に登場するのだし、その夫を演じるのがマックス・フォン・シドーなのだから、なおさらに幽霊にみえるわけだ。

 見えないもののもうひうひとつは、この身重の主人公アンの、欠落した記憶。覚えていないものは存在しないわけではなく、覚えていないのに見知らぬ絵を持っていたという設定。実は彼女、しばらくのあいだ行方がしれなくなっていて、突然に発見されたのだ。そういえば、N座で最初に見た『欲望の沼』(1966)でも口の聞けない召使で聖女が、しばらくの行方不明になり生きて発見され、それが2度めの悲劇的な発見につながっていたっけ。

 映画はその見えないもの、つまり、まだ生まれてきていない赤子と失われた記憶をかかえるアンをめぐって展開する。加えてアンは絵画の修復師なのだ。修復が見えなくなったものを見えるようにすることだとすれば、その職業もまた、この映画の主題と関わってくる。

 そんな設定を語ってくれるのが、身重の娘を尋ねてきた母親との会話。それは閉じられた奇妙な部屋で、外部の喧騒(とりわけ意味深なのは子どもたちのはしゃぎ声)が聞こえてくるなかで、トゲトゲしく展開しながら、物語の始まるところを描き出してゆく。このあたりがなかなかよい。そしてその母親が、隣の窓から覗いている髭面で手袋をしたハンサムな男を発見する。不気味な重低音とともに姿を表したり、消したりする男。この男もまた幽霊のようなものなのだ。

舞台はベルギーの現代なのだろう。それがわかるのは、アンが映画の半ばで、失われた記憶を取り戻そうと外出するとき。記憶をなくした自分が、ある絵を持っているところを発見されたという場所へ向かうのだけが、その通りがブリュッセルにあるのだという。その石の壁にかこまれた石畳の道で、彼女が見出すのはひとつの画廊。一台の車が現れ、追い回され、停車して彼女を見つめ、バックでもときた通りへと消えてゆく。シュールな映像。

 その画廊を夫のフォン・シドーと再び尋ねるあたりから、謎解きが始まる。「騙し映画 Trompe l'œil」が、騙しの鏡を破るという趣向なわけなのだが、騙し方を見せようとしながら、じつはさらに騙そうとしているのではないかというのが、後半の展開。少なくとも、窓から見つめていた男が誰かわかったではないかと思うのだが、いや、はたしてそんな男が本当にいたのではないだろうかという疑問も立ち上がる。謎を解くはずの扉の向こうには、たしかに謎解きの庭があるのだが、その庭に入るとさらに謎が深まるという謎。

 いつのまにか、窓の男はハゲワシの男にとってかわり、彼女を連れて —— あるいはそれは彼女のこどもだったのか —— 大空へと舞い上がる。残されるのは、レオナルドの洗礼者ヨハネのような謎の微笑み。その微笑みに見つめられながら、ぼくらは何も解決されない空間に宙吊りされたままになる。なるほど「目を騙す trompe l'oeil 」という映画に、みごとに騙されたというわけだ。

 そうそう、映画の中にはこれまたシューンベルグが引用されているというのだが、それが『清められた夜』なのだという。いやはや、これがまた意味深なのだけれど、ここから先は、どこかの好事家に探ってもらいたいと思う。