雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ネコと絶対音感と人類学的マシン

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今朝テレビつけたら養老孟司さんが話していた。

「人間と違って動物は言葉をもたない。なぜか。すべての動物は絶対音感なんです。みなさんが例外なんです。私が「ネコ」というのと、司会者の女性が「ネコ」というのと、音の高さが違う。違う音になる。それでは言葉にならない」。

たしかそんなことを話されていたと思う。

なるほど絶対音感か。音楽の世界では、すごい才能のように言われているけれど、じつは不自由なものでもあるのかもしれない。聞こえすぎちゃうから、ちょっとした差異でまったく異なるものになる。それは精密な音を出すためには必要な能力だけど、言語にとってはやっかいなものだ。

なにしろ、おじさんが発音する「ネコ」と若いおねいさんの発音する「ネコ」が決して同じものにならないのだとすれば、どうやって「ネコ」という言葉を共有すればよいのか。

言語の習得とは、おそらく僕らも持っていたであろう絶対音感をどこかで捨てることから始まる。そうしなければ、養老さんの「ネコ」とおねいさんの「ネコ」はおなじネコにならないのだから。

だからぼくらは、あのネコも、このネコも同じ猫という言葉でひとくくりにする。その一匹一匹を区別したい時には、それぞれに固有名をつける。タマとかマルとかシカクとか。そうすることで、ぼくらは多様な世界に統一と区別を持ち込むわけだ。

ではネコはどうしているのか。ネコにとっては全てが違う。全てに個性がある。同じに見えても位置が違う。音が違う。匂いが違う。全てが違うから、日々新しい。日々新しい世界で、ネコはどうやって世界に統一を持ち込んでいるのだろう。

それはおそらく身体なのだろう。それぞれの身体がそれぞれの身体として動くとき、その動きの統一のようなものを頼りに生きているのではないのだろうか。だから腹が空く。腹が空けばエサをねだる。エサを食べれば眠くなる。眠くなれば寝る。起きれば元気になる。元気があれば世界と戯れてみる。そんなインターアクションのことを、養老せんせいは「情緒」と呼んでいたのではないだろうか。「情緒は人間と変わらない」というのは、きっとそういうことなのだろう。

ところでその養老せんせいは、言葉を持った人間は、すべてを同じにしようとしているとお怒りになっている。インドネシアで飲むスターバックスも、日本で飲むそれも同じだという。なんでもすべてを同じにしてしまう。「それがグローバリゼーションでしょ?」とせんせいは笑う。いや笑いながら怒っていらっしゃる。

その怒りと笑いはパゾリーニと同じだ。パゾリーニも消費社会を批判するとき、工業の用語を使ってオモロガツィオーネ(規格化)と言った。あらかじめ定められた規格にあわせてゆくことで、同じ製品を作るという意味なのだけど、ほんとうにそうだろうか。同じように見える製品を並べてみても、ネコにいわせれば手前にあるものと、向こう側にあるものは違うモノなのだ。

だからネコにはオモロガツィオーネは通用しない。同じようにグローバリゼーションもなければ、消費社会も到来しない。あるのは、日々是好日、毎日が新しく、身体を通じて連続してゆく、ゆったりとした生の流れなのだろう。

だから養老せんせいにとって、グローバリゼーションのつける薬がネコなのだろう。パゾリーニにとってのネコは、どこまでも原初的(primordiale)な「過去の力」なのかもしれない。具体的には、ローマでであったボルガータの若者たちであり、彼らもが消費社会に飲まれてプチブル化してしまうと、過去に活力ある命の輝きを求めてゆく。わかりやすいのは、「カンタベリー物語」「デカメロン」「千夜一夜物語」のような生の三部作だろうか。

ネコに言葉ない。だから論理がない。けれども情緒はある。それが養老先生。過去とは言葉が通じない。論理は通用しない。それでも喜びは同じだ。それがパゾリーニ。歴史の中で、その都度その都度、人間と動物を分け隔ててきた人類学的マシン(@アガンベン)は、養老せんせいとパゾリーニのもとで、空回りする。その空転が生み出す怠惰こそが、ぼくたちの遊び場なのかもしれない。