雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

エットレ・スコラ『Permette? Rocco Papaleo』(1971)短評

 

 某所N座にてイタリア版DVD鑑賞。冒頭のトラベリング。ふたりの労働者風の男の歩く姿をカメラが追う。こんな感じの長回しのトラヴェリングって、最近ではキュアロンの『ROMA/ローマ』(2018)で見た。でもこれは1971年の映画だから、ちょっと新しい気がする。

 断然新しいのは、フラッシュバックやフラッシュフォワードをまるで実験映画のように使うこと。最初はとまどうのだけれど、観ているうちに語りのスタイルとして染み込んでくるから不思議だ。それから随所に見られる「play」のキャプションでのスロー。テレビなんかの編集で字幕をつけて面白いセリフを強調したりするけれど、まさにあれ。聞き逃しちゃいけないよという箇所、強調したい箇所、印象的な箇所で繰り返される。

 舞台はシカゴ。そこで交通事故が起こる。道路に飛び出したのはロッコ・パパレーオ(マルチェッロ・マストロヤンニ)。運転していたのはジェニー(ローレン・ハットン)。軽い接触事故でロッコに怪我はない。病院まで送るというジェニー。これが始まり。

 ロッコ・パパレーオはシチリアに典型的な名前。じっさい映画のなかでは「(パレルモ近郊の街)バゲリーアの生まれ」と言う。その彼がシカゴにいるのはなぜか。フラッシュバックを読み取れば、ロッコはイタリア人のボクサーだったのだけど遠征先で試合に負け、そのまま移民として残り、アラスカの鉱山で働いている。その鉱山仲間とアメリカはシカゴでのボクシングの試合を観戦しに来たのだ。

 シチリアから出てきて、ボクシングをして、そのままカナダの鉱山で働きながら年を重ねてきたロッコは、一人暮らしの自分の部屋の裸電球が寂しくて、せっかく出てきたシカゴの大都会に驚きながら、少しばかり贅沢な電気の傘を買うと、試合を見るために仲間に合流しようとしていたところで、事故にあってしまうのだが、なんというかこのロッコは、ある意味純粋培養の純朴なお馬鹿さん。もしかするとパンチドランカーなのか。出会う人ごとに「よろしいですか?ロッコ・パパレーオと申します」(Permette? Rocco Papaleo)と繰り返し、交通整理の巡査にさえ自己紹介をする始末。これじゃふつうの相手は当惑するしかない。

 それにしても、これってどこかで似たようなシーン。そうそう、ヴィットリオ・デ・シーカの『ミラノの奇蹟』(1951)。孤児院から出てきたばかりのトトが、ミラノの大都会ですれ違うビジネスマンに、親しそうに「Buon giorno」を繰り返すのだが、みんなに怪訝な顔をされてしまうシーン。

 でもそんなデ・シーカのトトの奇跡的な純朴さを、ぼくが最初に観たのはピーター・セラーズの『チャンス』(1979)だった。監督はハル・アシュビーだけど、あのときのセラーズはほんとに印象的だった。寓話というものに感動したのは、たぶんあれが最初の映画だったと思う。そう、寓話なのだ。男性であれ女性であれ、人々が白痴と見做す存在に気高さを読み取ろうとする寓話は、たとえば『道』(1954)のジェルソミーナを挙げてもよいだろう。マストロヤンニのロッコもまた、セラーズの庭師チャンスの先駆的な存在だったというわけだ。

 そんなマストロヤンニ/ロッコ・パパレーオが出会うジェニー/ローレン・ハットンは写真モデル。町中の広告に彼女の姿があるのを観て、ロッコは夢見心地。しかも、病院ではなく自宅に招待されてお茶を飲み、夕食にも招待されるものだから、カナダの鉱山にはなかなか帰れない。こうして、ロッコのシカゴでの悲しい冒険が始まる。

 しかし出会いごとに誤解から尊敬を集めてゆくセラーズのチャンスと違って、マストロヤンニのロッコの純朴な出会いは同じ純朴な人々と結びついてゆく。すなわち、目が見えなくなりつつあるホームレスのジンギスハン。自分にも女だちがいるのだと言いながら、カバンから5キロのダイナマイトを取り出して見せる。なるほど爆弾は「la bomba」と女性名詞だから女ともだちなわけだ。でも、シカゴだから英語ではどうなるのかと思うけど、少なくともイタリア語はこれで通じる。

 そのジンギスハンが入り浸るバールで出会うのが娼婦のリンダ。誰もがバカにして相手にしようとしないが、われらがロッコは丁重に対応する。なにしろ「失礼します。ロッコ・パパレーオと申します」とやるのだから。気分が良くなったリンダは、ロッコを自分の部屋に連れてゆく。自分の養女だと紹介されたのは盲目の黒人少女。すばらしいことですと称賛するロッコだが、リンダはその少女に春をうらせる魂胆であり、ロッコ大麻を吸わせると、彼の有金をぜんぶまきあげてしまうのだ。

 そんなことがあってもリンダとの友情はかわらない。そこがロッコ。おなじような友情を、モデルのジェニーにも求めようとするのだが、彼女の世界はそんな純朴なつながりでできてはいない。彼女と浮気しているプロデューサーを、ロッコはジェニーの本当の恋人だと思い込み、彼が自分の妻とキスをしているのを目撃すると、わざわざジェニーに忠告して、彼女の怒りを買ってしまう。そうはいってもジェニーもまた孤独なのだ。怒りながらも、ロッコの純朴さに心打たれ、呼び止めようとするのだが、そこにはもう彼の姿はない。

 そんな寓話のラストは強烈だ。盲目ではないと証明すると叫んで道に飛び出し、車にはねられたホームレス(ジンギスカン)から、遺品として託された爆弾を受け取ると、ロッコ・パパレーオはその5キロのダイナマイトのはいったカバンをかかえて、シカゴの大通りを星条旗をふりかざしながら進む行進に、真正面から歩きながら突き進んでゆく。そしてストップモーション。エンドクレジットが流れてゆく。

 エットレ・スコラに言わせると、この映画は「ライオンの巣に落ちてきた天使の寓話」だという。「だから彼の最後のリアクションは、その純朴さと同じように、過激なものになります。もしもロッコ・パパレーオという人物が、もっと現実的で、リアルであったなら、あのラストシーンは筋が通りません。小さなノミが、最後の最後に反乱を起こして、ニワトリ小屋を吹き飛ばしてしまうこと。これは、政治的なアレゴリーというよりも、イソップものがたりのひとつなのです」(Ettore Scola, Il cinema e io, Roma, Officina Edizione, p.105)