雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

3月9日横浜、朝カル「アンナ・マニャーニ:芸に生き、愛に生き」(1)

 先週の土曜日、横浜の朝日カルチャーセンターで話してきました。横浜では「イタリア映画の魅力を探る、懐かしの俳優たち」と題して、ジーナ・ロッロブリージダ、クラウディア・カルディナーレシルヴァーナ・マンガノと取り上げてきましたが、今回はその4回めアンナ・マニャーニ。備忘のため、以下に概要を記しておきます。

1)芸に生き愛に生き

 今回のタイトル「芸に生き愛に生き」(Vissi d'arte, vissi d'amore)は、プッチーニの『トスカ』の有名なアリアですが、日本では「歌に生き恋に生き」として知られるもの。イタリア語のアルテ(arte)は、「技術」から「芸術」となり、そこから「歌」や「芸事」、そして「演技」も意味するもの。アンナ・マニャーニは歌も見事ですが、なによりも舞台の上やカメラの前での圧倒的な存在感がある女優さん。65歳で早逝しますが、直前まで仕事を続け、フランコ・ゼフィレッリに言わせれば「60代になって若い頃と変わらない人だった。もしかすると運命が彼女が老けることを嫌って、変わらない姿で連れていってしまったのかもしれない」と語っているほど。

 そして「愛に生きた」(vissi d'amore)。トスカではこの「amore」を「恋」と訳しますが、アンナ・マニャーニの場合はもう少し広く「愛」のほうがよいかもしれません。「恋」とは、ないものを「乞う」ことですが、「愛」ならば「乞う」を含めて「大切にする」まで含みます。アンナの場合は、恋多き女であると同時に、ひとり息子のルーカを大切に育てようとする母でもある。その意味では「愛に生きた」というのがぴったりの気がします。

2)イタリア映画の象徴

 アンナ・マニャーニという名前は、イタリア映画にとっての象徴的な存在です。パゾリーニの言葉を引用しましょう。

Quasi un emblema, ormai, l'urlo della Magnani
sotto le ciocche disordinatamente assolute,
risuona nelle disperate panoramiche,
e nelle occhiaie vive e mute
si addensa il senso della tragedia.
È lì che si dissolve e si mutila
il presente, e assorda il canto degli aedi.
*1 

 ここでパゾリーニが念頭に置いているのは、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市ローマ』(1945)のちょうど半ば、マニャーニ演じるピーナが「フランチェスコ」と恋人の名前を呼びながら、ローマの街中名を走り出すシーン。翌日には彼と結婚するはずで、お腹にはその子供がいる。ところがドイツ軍のパルチザン狩りでフランチェスコは捕まり、連行されてゆく。その姿を見たマニャーニが叫びながら走り出す。機銃を抱えたドイツ兵たち。何もすることができずただ見つめるしかない住民たち。

 パゾリーニの言葉を訳してみましょう。

今ではもう、ほとんど象徴なのだ、マニャーニの叫びが
無秩序に絶対的な髪のふさをゆらし
絶望の景色に響き渡ると
生きながら死んだ眼差しのもと
悲劇がその意味を深めゆく。
まさにその場所で、現在は溶解して切り裂かれ
詩人たちの歌が耳をつんざく。

 すごい詩です。象徴というのは「emblema」。紋章などの寓意的な形象のことですが、そもそもは古ギリシャ語 émblema (内側に入れられたもの)。あのシーンに含意されるのが、イタリア映画だけではなく、その戦後社会にとっての特殊な点であったということであり、その意味をピーナを演じたマニャーニが担っているというわけです。まずはその振り乱した髪は、「髪のフサ」(le chicche)が複数形になっていることから想像できます。そして「絶望の景色」とは、ドイツ占領下のローマのことなのでしょう。占領下で生きる人々は「生きながら死んだ目」をしている。その目の前で、マニャーニは撃たれて倒れるわけです。だからそこの場所は、1943年9月8日の休戦協定のラジオ放送からときから、翌年6月5日の解放のまで、「現在が溶解し引き裂かれ」た占領下のローマ。「耳をつんざく」のは「機関銃の音」。それが「詩人たち」と言い換えられている。そのすべてを寓意的に含みもつエンブレムが、アンナ・マニャーニの肉体だったと、パゾリーニは歌っているわけです。

 興味深いのは、ちょうどパゾリーニのこの一節をふくむ詩集『私の時代の宗教』(La religione del mio tempo)が出版される1961年4月12日、 ソ連が「ボストーク1号」の打ち上げに成功、ユーリ・ガガーリン少佐(1934~1968)が地球に向けたメッセージのなかで、アンナ・マニャーニの名前を出していることです。有名なのは「地球は青かった」ですが、彼はイタリア映画の『無防備年ローマ』や『婦人代議士アンジェリーナ』が大好きで、だから地上に向けてこんな挨拶を送っていたというのです。

人々の友愛に、芸術世界に、そしてアンナ・マニャーニに挨拶を送ります。

Saluto la fraternità degli uomini, il mondo delle arti, Anna Magnani.

il messaggiero 紙より

 もうひとつ、アンナ・マニャーニをイタリア映画の象徴的な存在にしたものに、1955年のアカデミー主演女優賞の受賞があります。映画はバート・ランカスターと共演した『バラの刺青』。これはテネシー・ウィリアムズの同名戯曲の映画化で、マニャーニはシチリア移民のセラフィーナを英語で演じてアカデミー賞に輝くのですが、これは英語を母語としない俳優としては初めての受賞。のちにソフィア・ローレンが『ふたりの女』で同じ賞を受賞しますが、これはイタリア語による演技。少し意味合いが違うわけです。

3)出自からデビューへ

 アンナのデビュー作は1934年の『La cieca di Sorrento』(ソレントの盲女)。続いて、『Tempo massimo』(制限時間)と続きます。

hgkmsn.hatenablog.com

 

hgkmsn.hatenablog.com

 1930年代の冒頭、映画界は技術革新の波がおしよせていました。トーキー映画の誕生です。それまでのスターたちは、もはやカメラの前で微笑んでいるだけではすみません。セリフを語り、できれば歌も歌えると良い。実際、画面から声がでるのなら歌を歌えればなおよいわけですから、アンナ・マニャーニはじつにピッタリだったわけです。

 なにしろアンナは16歳でローマのサンタ・チェチリア音楽院に入ってピアノを学び、18歳のときに併設されていたエレノーラ・ドゥーゼ演劇学校に転入、本格的な舞台の勉強に打ち込むと、1927年に19歳でプロの劇団と契約して仕事を始めます。しかし本格的な芝居では端役しかもらうことができず、やがて歌って踊り即興芝居もある軽喜劇の世界に移ります。1931年には軽喜劇の劇団と契約し、劇団長アントニオ・ガンドゥシオに認められ(愛人となったとも言われています)、主役をまかされるようになったというのです。

 観客から拍手喝采をうけることは、アンナにとっては大いなる喜びでした。それは彼女の出自にも関係します。彼女は両親の愛を知ることなしに育ったのです。アンナ・マニャーニの評伝を記したが、その出自について調査しています。というのも、しばしばマニャーニはエジプト生まれだと誤って伝えられてきたからです。その出自の部分を訳出しておきます。

 アンナの母親であるマリーナは、ラヴェンナに生まれたフェルディナンド・マニャーニとその妻ジョバンナ・カサディオの娘だ。ふたりは若くして結婚した。市裁判所の案内人の仕事のおかげで、かろうじて家族を養えるようになったからだ。結婚の最初の7年間に生まれたのがマリア、マリーナ、ヴェーネレ(リナと呼ばれることになる)そしてドリーナ(すぐにドーラと呼ばれる)。フェルディナンドはチェゼーナに移動になり、そこでオルガが生まれる。カターニアではただ1人の男の子ロマーノが日の目をみる。ラクイラでは末っ子のイタリアが生まれる。1905年7月1日、一家がフォルリーから引越してきたときのローマは、まだ田舎町が大きくなったていどの場所だったが拡大しつつあり、なかでも碁盤の目のように広がるプラーティ・ディ・カステッロ地区(現在のプラーティ地区)は開発が進んでいた。そこはヴァチカンと最高裁判所の入ったパラッツォ・デッラ・ジュスティーツィア(正義の宮殿)に挟まれた地区なのだが、そのローマ人から「醜い宮殿」と呼ばれる裁判所が、フェルディナンドの職場であり、ヴァチカンの壁にほどちかいカンディア通りに、マニャーニの一家は引っ越してきた。引っ越しを重ねたフェルディナンドだったが、ここで定年まで仕事を続けることになる。妻ジョバンナは腕の良いお針子さんで、その仕事で家計を助けた。やがて娘たちもお針子を始める。若いころは誰もそんな仕事をしたのだが、なかでもひとりずばぬけていたのがオルガだった。彼女は何年も後にエジプトのアレクサンドリアに引っ越し、アトリエを開いて有名になる。

 家族の中で最も落ち着かないのはマリーナだ。気が強く、なにごとにも我慢がきかない。ローマに来てから2年後には、結婚してから子どもを持つという決まりごとを破る。まだ20歳で結婚もせずに妊娠する。彼女は、サラリア通り126番にある施設「アジーロ・マテルノ」で出産。この施設は、わずか5年前に「未婚、未成年または若い母親をリハビリし、仕事や家族に戻すために、維持し、世話をし、支援する」目的で生まれた慈善団体だ。1908年3月12日に、マリーナは3月7日午後1時30分に娘が誕生したことを届け出ると、子供の名前にアンナ・マリアを選ぶ。出生証明書に記載されているように、父親については「婚姻関係のない男性であり、認知をさまたげるような親戚関係にはない」(non coniugato, non parente né affine con lei nei gradi che ostano al riconoscimento”)とされている。その数ヶ月後、彼女はエジプトのアレクサンドリアに出発すると、多くのイタリア人が住んでいるエル・アタリン地区に住むことになる。

アンナの父が認知のために現れることはない。数多くのインタビューで彼女がわずかに明かしたことしかわかっていない。「何度言えばわかるの。わたしは道で拾われたわけじゃない。高校だって行ったし、8年間もピアノを学ためにサンタ・チェチリア音楽院に通ったわ。エジプトでエジプト人の父から生まれたともいわれけれでも、それも同じこと。わたしはね、ローマでローマ人の母親とカラブリアの父から生まれたの。出生証明書にも書いてあるわ。母は私を産んだ後でエジプトに行った。まだ20歳で結婚もしてなかったから、当時はスキャンダルだった。だから母はエジプトに行き、私はここローマで祖母のところに残ることになったわけ。   はっきりさせておきたいのだけれど、わたしの姓が父方のものじゃなくて、母方の姓だからといって、何も恥ずかしいことはない。父とは会ったことがない。知っているのはカラブリア人だってこと、そして姓をデル・ドゥーチェというってことだけ。なのに、どうしてみんな、よってたかって私をエジプト人にしたいのかしらね?」
 エジプトはそれでも意味のある場所だったのだろう。叔母のオルガとイタリアはエジプトに行くことになるし、1913年、異父姉妹の妹イヴォンヌ(ミーナ)が生まれる。そこは、将来の夫となるゴッフレード・アレッサンドリーニが生まれた場所でもある。そのアレッサンドリーニのメモワールによると、アンナは自分の父が本当はエジプト人だったと告白したことがあるという。
 1923年に、母に会いにゆく。「初めて彼女に会ったとき私は9歳で、2回目は15歳のときでした。この2回目に、私が彼女に会いにエジプトに行ったのです。とても自慢なことでした。こんなに長い旅行をしたのは初めてでした。ナポリは、ナポリとエジプトのアレクサンドリアをつなぐ最も美しい船「エスペリア号」に乗り込みました。船の中で私は夢を見たのです。ああ、なんて夢だったのでしょうか。 エジプトを見たとき、まるで本のページから飛び出してきた世界のように思えました。私は『アトランティス L’Atlantide』(ピエール・ブノア Pierre Benoit、1886 - 1962、イタリア語訳は1920年)を読んでいましたが、私が見たのはアトランティスでした。それから私は母に会いました。彼女は笑い、私も笑いました。私は彼女を楽しませる馬鹿げた帽子をかぶり、彼女が笑うのが嬉しかった。可愛らしい娘だと良い印象を持ってもらえるように帽子をかぶっていたかと思うと…。その日以来私は二度と帽子をかぶることはりません。お母さんのことは、すぐに気に入りました。話し方もよかったし、話し方も大好きでした。素晴らしいユーモアのセンスがあったのですよ、私の母ったら。その気になれば、何時間も涙を流して笑わせてくれたことでしょう。そして、その性格ときたら。高貴で勇敢な女性だったのです。妹にも会いました。私より4歳年下で、学校に通っていました。私にとっては、永遠の休暇でした。私はレストランや映画館に連れて行っていってもらいました。母はオーストリア人と結婚し、美しい家に住んでいました。毎日、私たちは豪華な建物に食事に行きました。残念ながら、私は本当の心を勝ち取ることができませんでした。一緒にいる喜びと私を取り巻く贅沢にもかかわらず、私はすぐにローマに戻りたいと思いました。突然、自分の貧しい家が恋しくなりました。叔母たちがいて、夕方に仕事から帰りながら、何があったか話をしながら、皿を洗わなければなりません。けれども、ここでは使用人に囲まれ、雰囲気は全くちがいます。ゼラニウム、鶏、私の部屋、そして何よりも祖母がいないのです。今ならわかります。そのとき15歳だったわたしが、小さい頃に祖母がしてくれたような抱擁を、そのときの母親に期待することなどできなかったのです。祖母は私を膝に乗せ、寝かしつけ、梳かして、おとぎ話をしてくれました。わたしは、手に置けない子供でした。祖母は時々私を眠らせるためにおとぎ話をしてくれたのですが、話をしているときは眠ったふりをして、ベッドから立ち去ろうとするときになると、「もう1つ、別のおとぎ話」と叫んだのです。エジプトではすべてが違いました。私は、まだ小さな女の子のふりをするに大きくなりすぎていたのです」

"UNA LACRIMA DI TROPPO E UNA CAREZZA IN MENO", in Matilde Hochkofler, Anna Magnani, 2018.

 アンナに映画の話が来るころは、1929年に祖母ジョヴァンナが、1930年には祖父フェルディナンドが逝去したころ。最初は映画の吹き替えで声がかかり、やがて本格的な助演者としてスクリーンデビューを果たすことになったのです。

4)結婚、そして出産... 

 アンナは1935年に結婚します。お相手は映画監督のゴッフレード・アレッサンドリーニ... 


(続きは今度。今日は疲れたのでこの辺で)


 

 

*1:Pier Paolo Pasolini, Poesie, Garzanti 2001, p.73