レオナルド・シャーシャの『真昼のふくろう』(竹山博英訳)を借りてきて読んだ。
実は、この小説を原作にした同名の映画を見て(日本未公開でテレビ放映されたときの邦題は「マフィア」)、おもわず原作の "Il giorno della civetta" にざっと目を通したのだけど、いくつかのセリフがうまく日本語にならなかったので、すこし教えを乞おうと思ったのだ。
1. Mi ci romperò la testa.
まず目についたのが最後のシーン。これはイタリア語で読んでいたのだけれど、竹山訳を読んで少し考えてしまう。最後の「Mi ci romperò la testa.」というフレーズの解釈だ。イタリア語の原文はこれ *1。
竹山訳は「きっとひどい目にあうぞ」。これはたぶん「 rompere la testa 」(頭を壊す/誰かに大きな迷惑をかける)という意味で訳されたのだろう。しかも「訳者あとがき」にあるように、1992年シチリアに再度戻って殺害されたダッラ・キエーザのことを想起しながら。
ただしこのフレーズ、よく見れば動詞は再帰の形で「rompersi la testa」となっている。再帰形の辞書的な意味には「なにごとかの解決を探って脳みそを絞ること( scervellarsi alla ricerca di una soluzione)」とある。ここではその未来形に「シチリアで」を意味する場所の代名詞 ci を伴って「 mi ci romperò la testa 」となっている。そうなると、「きっとひどい目にあうぞ」という意味のなかには、「なんらかの解決を探りながら」という意味も込められていることになる。
ベッローディ大尉は、映画ではフランコ・ネロが演じるが、故郷に帰るシーンはない。マフィアのボスの犯罪に、証拠を綿密に積み上げてようやく告訴まで持ち込んだのに、ボスに不利な証言はいつの間にか消えてしまうと、カメラの映し出すシチリアの画面から消えてしまうのだ。けれどもシャーシャの小説には、疲れ切ってシチリアを離れ、故郷のパルマに帰った大尉の姿が描かれている。人気のない魔法にかかったような雪の街を歩きながら、彼は家に着く前にはっきりと悟る。「じぶんはシチリアが大好きなのだ。いつかきっと帰るのだろう(Ma prima di arrivare a casa sapeva, lucidamente, di amare la Sicilia: e che ci sarebbe tornato.)」。そんな思いに続くのが引用符つきの « Mi ci romperò la testa » 。
シャーシャの小説は、1961年に出版された時点で、小説という形式において初めて犯罪組織としてマフィアに言及したものだったという。イタリアでは実のところ、戦後すぐの1950年代あたりまで、マフィアというのはシチリアの文化人類学的な現象であって、なにかすばらしいものをみたらなんでも「マフィオーソ」と形容してるだけのことだという、ピトレー的な解釈が支配的だった。なにしろアメリカ軍のシチリア上陸を手助けしたのはマフィアだったと考えられている。そのアメリカと接近しながらイタリアの政治を担うことになったキリスト教民主党において、とりわけマフィアについての否定的ではない見解が広がっていた。
けれど、イタリアも1950年代の半ば頃より戦後の復興が加速し、近代化が進む。とうぜん建築ラッシュとなる。そこに政治家が絡む。とうぜんマフィアの力もからんでくる。実はそのころからシチリアでは、マフィアの抗争が激化し死者の数が積み上がっていた。そんな雰囲気のなかで、みずからもシチリアの小さな町で小学校の教師をしていたレオナルド・シャーシャは、いくつかの文章をものにし、認められ、ついにマフィアと建築業会の癒着の話をとりあげて、この『真昼のふくろう』を発表する。
それはまだマフィアがその不気味な姿の全貌を見せる前のことだとは言えないのだろうか。そして、イタリアも世界も戦後の荒廃から立ち直りつつあり、だからこそ日々復興に励み、未来への希望を持つことができた時代ではなかったのだろうか。そしてシャーシャもまた、マフィアという問題について、すぐには解決しなくても、もしかすれば「脳味噌を絞り、頭が壊れるほど考えれば」もしかするとなんとかなるという希望は持っていなかったのだろうか。その希望は、この最後のベッローディ大尉のセリフ「Mi ci romperò la testa. 」には、それがたとえ「きっとひどい目にあうぞ」と訳せるのだとしても、そしてそれは実に上手い訳でもあるのだけれど、かすかな絶望ではなく、乗り越えられない山に立ち向かうときの、一条の希望を読み取ることができるのではないだろうか。
これを読んだとき、少なくとも僕にはそう思えた。けれども、もちろん竹山さんの言うように、やがてその希望はズタスタにされて、ダッラ・キエーザ、ファルコーネ、ボルセッリーノらの名前とともに思い出される多くの希望を持った人々が、それこそひどい目にあうわけなのだが、それはそれ。これは、まだそのずっと前の小説だということを忘れてはなるまい。
2. I quaquaraquà.
ところで、ダミアーノ・ダミアーニが監督した『真昼のふくろう(TV放映されたときの邦題は「マフィア」)』のラストシーンには、小説のこのラストシーンはない。映画のラストシーンはベッローディ大尉の後任が、ドン・マリアーノたちマフィアに嘲りで迎えられるシーンで終わる。最後のボスのセリフはこうだ。「ベッローディは "男" un uomo だった。だが新任の奴は "クワクワラクワ" un quaquaraquà だ」。
この「quaquaraquà 」が出てくるところを見てみよう。竹山訳はこんな感じ。イタリア語は次のとおり*2
竹山訳だと「人間、半人間、みそっかす、あほう、人間の屑だ」となる。イタリア語だと「gli uomini, i mezz'uomini, gli ominicchi, i pigliainculo e i quaquaraquà 」ということ。
この5つの類型を順番に見てみよう。
まずは「 gli uomini 」。これを「人間」とやると問題が残る。そこに女が入るような概念とは違うのだ。なぜならマフィアが生きているのはあくまでも「男の世界」であり、「gli uomini」はあくまでも「男、あの「オメルタ omertà 」すなわち「男ならではの徳力 virtù proprio dell'uomo 」を持つような存在のことであるはずなのだ。そして、このオメルタを本当の意味で持っている「男」には、稀にしかお目にかかれないというのが、ここでのドン・マリアーノのセリフの第一のポイント。
これがわからないと、2番目の「mezz'uomo」が「半人前の男」であり、3番目の「omicchi([omo-:男]+ [-icchio:小さな])」が「ちんけな男」だということが生きてこない。すくなくとも5つの類型のうち、うえから3つにはすべて「男」が入っているのが重要。なにせマフィアは男の世界に生きているのだから。
ドン・マリアーノは言う。この3つで終わっていればよかったのだけど、さらに下へ下へとまだ2つも類型があり、しかも数がどんどん増えてゆくという。それが「pigliainculo」と「quaquaraquà」である。
まずは第4番目の「pigliainculo」。
実はこれ「piglia-in-culo 」という構造。「~ in culo(シリのなかへ)」 という表現には、強烈にホモフォビアの匂いがすることを確認しておかなければならない。マフィアという男(ホモソーシャル)の世界においてもっとも嫌われるのがホモセクシャルであり、じつのところイタリア語が伝統的にホモフォビアの言説にあふれていることも確認しておかなければなるまい。つまりこの「pigliainculo」は、マフィアの代名詞のようなあの「オメルタ」(男ならではの徳力)の対極にあるような言葉なのだ。
ただしである。ここで言う「pigliainculo」は同性愛者のことを言っているのではない。意味としては「おべっかもの」「追従人」ぐらい。実際、ダミアーニが映画化した作品にこの表現は聞かれることはなく、それに代わって「ruffiano (「美人局」「おべっかもの」の意)」が使われる。こちらのほうが一般的で、危うさが少ないからなのだろう。そのくらい「pigliainculo」は強烈なのだ。
ドン・マリアーノによれば、こういう気持ちの悪い「おべっかもの」のイエスマンたちが、じつに「ほんものの軍隊」ができるほどの大人数になってきているという。おべっかを使う相手はもちろん「男たち」たるマフィア。この「pigliainculo」あるいは「ruffiano」らは、「男」のカテゴリーからは外れながら、そのすぐ下にあって、「男たち」にこびへつらい、そのいいなりになっているというわけだ。それが竹山訳では「あほう」ということになるのだが...
さて、それにもまして大人数なのが「quaquaraquà」である。竹山訳は「人間の屑」だが、イタリア語で音読すればそのままカモの鳴き声になる。意味としては「(カモのように)ガーガーガーガーなく奴ら」のことだろう。ということは「人間の屑」というよりも、もはや人間でさえないカモであり、マフィアもふくめてシチリアの男たちが大好きな猟の対象にほかならない。人間としては生きる価値がない。価値があるとしたらせいぜいガチョウと同じ。狩の対象であり、殺して食われる存在。それが「ガーガー鳴いている奴らquaquaraquà」なのではないだろうか。
いやはや、実にマフィア的な5分類なのだけれど、この分類法を読み直していると、ぼくにはどうしても今、世界中で起こっていることが、じつにマフィア的なことなのではないかという気がしてきてならない。
3. おまけ
ちょうどこの5類型を言うところがシャーシャの同名小説の舞台にあったので、映画での同じ部分と合わせてはりつけておきますね。
まずは舞台。セリフはほぼ原作どおり。
«Io» proseguì poi don Mariano «ho una certa pratica del mondo; e quella che diciamo l'umanità, e ci riempiamo la bocca a dire umanità, bella parole piena di vento, la divido in cinque categorie: gli uomini, i mezz'uomini, gli ominicchi, i (con rispetto parlando) pigliainculo e i quaquaraquà... Pochissimi gli uomini; mezz'uomini pochi, che mi contenterei l'umanità si fermasse ai mezz'uomini... E invece no, scende ancora più giù, agli ominicchi: che sono come i bambini che si credono grandi, scimmie che fanno le stesse mosse dei grandi... E ancora più in giù: i ruffiani, i pigliainculo, che vanno diventando un esercito... E infine i quaquaraquà: che dovrebbero vivere con le anatre nelle pozzanghere che la loro vita non ha più senso e più espressione di quella delle anatre... Lei, anche se mi inchioderà su queste carte come un Cristo in croce, lei è un uomo...»
映画はこれ。
«Io divido l’umanità in cinque categorie: ci sono gli uomini veri, i mezzi uomini, gli ominicchi, poi mi scusi i ruffiani e in ultimo, come se non ci fossero, i quacquaracquà. Sono pochissimi gli uomini, i mezzi uomini pochi, già molti di più gli ominicchi. Sono come bambini, che si credono grandi. Quanto ai ruffiani, stanno diventando un vero esercito. E infine, i quacquaracquà: il branco di oche.»
*1:Leonardo Sciascia, Il girono della civetta, (Milano, Adelfi, 1993), p.59 : Parma era incantata di neve, silenziosa, deserta. 'In Sicilia le nevicate sono rare' pensò: e che forse il carattere delle civiltà era dato dalla neve o dal sole, secondo che neve o sole preva- lessero. Si sentiva un po' confuso. Ma prima di arrivare a casa sapeva, lucidamente, di amare la Sicilia: e che ci sarebbe tornato.
«Mi ci romperò la testa» disse a voce alta.
*2:Op.cit., pp.49-50. : «Io» proseguì poi don Mariano «ho una certa pratica del mondo; e quella che diciamo l'umanità, e ci riempiamo la bocca a dire umanità, bella parole piena di vento, la divido in cinque categorie: gli uomini, i mezz'uomini, gli ominicchi, i (con rispetto parlando) pigliainculo e i quaquaraquà... Pochissimi gli uomini; mezz'uomini pochi, che mi contenterei l'umanità si fermasse ai mezz'uomini... E invece no, scende ancora più giù, agli ominicchi: che sono come i bambini che si credono grandi, scimmie che fanno le stesse mosse dei grandi... E ancora più in giù: i pigliainculo, che vanno diventando un esercito... E infine i quaquaraquà: che dovrebbero vivere con le anatre nelle pozzanghere che la loro vita non ha più senso e più espressione di quella delle anatre... Lei, anche se mi inchioderà su queste carte come un Cristo, lei è un uomo...».