雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

蘇ったフィルムたち:映画か、それとも動画か、はやり映画なのか!

 昨日はイタリア文化会館の「蘇ったフィルムたち チネマ・リトロバート映画祭:特別上映・レセプション」に参加してきました。この映画祭は知る人ぞ知る映画祭で、ぼくも名前だけは聞いていたのですが、今回はめでたくも京橋の日本の国立映画アーカイブでその一端を垣間見ることができるようになったのです(1/4-2/5)。詳細はこちら

 昨日の文化会館では、プログラム1の「サイレント短編集」(『サタン狂想曲』を除く)が上映されたのですが、これが実にすばらしかった。なにせ画面がみごとに修復されている。一緒に行ったナギちゃんの言葉を借りれば「パキパキ」している。たしかに「くっきりはっきり」。それを大きなスクリーンで見られるというのは、ちょっとした体験でした。

 映像だけではありません。解説がよかった。サイレント映画ですから音声はありません。普通の映画と見るときの作法が違う。どうしてもギャップが生じます。そのギャップを埋めてくれたのが、チネテーカ・ディ・ボローニャ財団のディレクター、ジャン・ルカ・ファリネッリさんの解説。これがすばらしい。必要な情報を短い言葉で伝えてくれるので、大いに想像力が刺激されませう。くわえて通訳の小池美納さんが日本語で意味をすばやく補足してくれます。映像におくれをとらないコンビネーションが、サイレントの短編の魅力を引き立ててくれました。

 ちなみに「チネマ・リトロバート」(Cinema Ritrovato)とは「見つかったチネマ」のことで、一度は失われたけれど、「再び見つけられた」(ritrovato)という意味。考えておきたいのは、「チネマ」(cinema)という言葉。イタリア語で「cinema」はふつう「映画」と訳しますが、一本の作品としての「映画」は「film」です。

 例えば「映画に行く」は「Vado al cinema」ですが、「映画を見に行く」だと「Vado a vedere un film」。イタリア語の日常会話では「cinema」は「映画館」で、「film」は個々の「映画」作品のこと、そう覚えておけばよいのです。

 だとすれば、この映画祭のタイトルが「蘇ったフィルムたち」というのも納得できます。「フィルムたち」とは一本一本の作品(film)のこと。さまざまな理由で失われていたその「フィルムたち」が、世界中のさまざまな場所で「再び見つけられ」(ritrovato)、それがチネテカ・ディ・ボローニャ財団の修復作業によって「蘇った」(ritrovato)。つまり「蘇ったフィルムたち」(i film ritrovati)。

 けれども「再び見つけられた/蘇った」のは個々の作品(film)だけではありません。作品とともにぼくたちが驚きを持って「発見する」のは、かつての映画のあり方そのもの。つまり「チネマ」(cinema)の発見でもあるのです。

 サイレント映画(cinema muto)は、いくつかの短編をまとめて上映していたといいます。そういうプログラムのあり方のなかで、個々の作品は、誰も見たことのない場所にカメラを持ち込んで、見たことのない風景や人々の姿をとらえ、さらには彩色や多重露出などの技術を駆使して、見るものをハッとささようとします。

 そのあたりをナギちゃんと話していたのですが、サイレント映画には現在の状況に重なるものがありますよね。たとえばSNSに見られる数々の動画(filmati)たち。それらはどこかサイレントの短編に似ています。テレビコマーシャルやSNSの動画たちは、なんとか人目を惹こうとします。それを「アトラクション的なもの」とするならば、それはかつてサイレントの映画たち(i film muti)が試みてきたものでもあります。

 そう考えると、動画と映画の境界が曖昧になってきますよね。おそらく、両者はどこかで白と黒にはっきり区分されるのではなく、曖昧なスペクトラムのように、白と黒の濃淡が徐々に変化しているようなものなのかもしれません。見ればみるほど、どこで区別をすればよいのかわからなくなってくる。同じではない。違うものだ。違うものだけど、どこかで連なっている。

 ナギちゃんに言わせると、単なる動画と映画は違うはずだといいます。けれども、その違いがよくわからない。自分が短編を撮るときは、それを探っている、そう言うのです。そのあたりの気持ちはよくわかります。たしかに動画と映画は違う。ではどこまでが映画で、どこからが動画なのかというのは非常に難しい。

 たぶんそれって、人間と動物の違いに似ているのかもしれません。人間も動物なのだけれど、人間と動物は違う。では、どこに線が引けるのか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。わからないけれど、人間はつねに動物との違いの線をみつけつづける。その営みを、アガンベンは「人類学的機械」と呼びました。だから、映画と動画の間にも、「映画学的な機械」の営みがあるのかもしれません。

 そうそう、備忘のために記しておくと、レセプションの会場では岡田温司せんせいとお話をさせてもらえたのがうれしかった。お洒落で、気さくお人柄に接することのできたのは僥倖。チネマという「インターテキスト」を読み取ってゆくその手つきには、いつも大いに触発されてきたました。

 お話をしながら、つい挑発的に、映画をつくる人間に触れられない理由をおたずねしてしまったのですが、作家主義に取り込まれる危険性に十二分に自覚的でいらっしゃった。納得すると同時に、それでもテキストの背後にいる人間についてどう語るかという思いが強くなってきたのです。

 

 ではいかに見た作品を列挙しておきます。解説はフライヤーより抜粋。

('24-10) スタッキー、クランクの回転
Stucky: Giri di Manovella
1900(伊)
(1分・DCP・無声・白黒)
撮影:ジャンカルロ・スタッキー

ヴェネツィアの「製粉王」の息子でゴーモンの小型キャメラを手にしたジャンカルロ・スタッキー(1881-1941)が、自身のクランクを回す動きを真似る二人の少女を捉えた魅惑的なホームムービー。

*これは映画じゃないのだろうか。キャメラを回す少女たちの姿は、動画にすぎないのだろうか。くっきりと修復された映像には、映画が立ち上がるところが記録されているようにも思う。だとすれば映画なのか。動画が映画に向かおうとする「あわい」の1分。

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('24-11) 花の妖精
La Fee aur Fleurs
1905(仏:パテ) 
(2分・DCP・無声・ステンシルカラー)
監督:ガストン・ヴェル

『花の妖精』では、ルイ15世の愛妾ジャンヌ=アントワネット・ポワソンに扮した女性が、手彩色を施された色鮮やかな花の中から登場する。

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('24-12) シチリアの荷馬車作り
Fabrication des Charrettes Siciliennes
1912(14: /15)
(4分・DCP・無声・染色)

シチリアの荷馬車作り』は、極彩色と派手な装節で知られるシチリア伝統の荷馬車の制作工程を記録している。

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('24-13) ボローニャの史跡巡り
Bologna Monumentale
1912(伊:ラティウム
(5分・DCP・無声・白黒)

ボローニャの史跡巡り』では、世界遺産のポルティコ群(柱廊玄関)など、現在もその姿を留める歴史的建造物が紹介される。

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('24-14) 赤とピンクのカーネーションを持つ女性
Donna con Garofani Rossi e Rosa
1912頃(伊)
撮影:ルカ・コメリ
(1分・DCP・無声・キネマカラー)

『赤とピンクのカーネーションを持つ女性」は、最初期のカラーシステムであるキネマカラーのテストフィルム。

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('24-15) 骸骨
Lo Scheletro
製作年不詳(伊)
(1分・DCP・無声・染色)

『骸骨』は、肉体を失い骸骨となった男の自己愛を消に表現した初期映画。

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('24-16) アルメニア、文明の揺りかご アララト山周辺の悲劇
Armenia, the Cradle of Humanity under the Shadow of Mount Ararat
1919-1923(不詳)
(3分・DCP・無声・白黒)

アルメニア、文明の揺りかご アララト周辺の悲劇」は、アルメニア・トルコ戦争(1920)前後に撮影された歴史的な記録映像。

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('24-17) トントリーニの悲しみ
Tontolini è Triste
1911(伊:チネス)
出演:フェルディナン・ギョーム
(7分・DCP・無声・白黒)

『トントリーニの悲しみ』では、イタリア無声映画喜劇王フェルディナン・ギョーム扮するトントリーニが、失恋の慰めに見た映画の中で自身の分身(ポリドール)と出会う。フェデリコ・フェリーニは「カビリアの夜』(1957)や「甘い生活」(1960)で彼を起用し、往年の喜劇スターに敬意を表した。

*これはおもしろかったな。医者から悲しみ処方をもらったトントリーニは、舞台では楽しめない。当時の舞台の主流は悲劇だから。サーカスに行けば道化たちが喧嘩を始める。じつはサーカスはギョームの故郷みたいなもの。彼はサーカス育ちなのだ。そのあたりの、なんというか自己言及性がすでにこの時代にあったわけ。そして、最後に映画を見にゆけば、スクリーンには自分自身が登場するという趣向。まさにメタチネマ。フェリーニの『8½』がメタチネマだといって驚いているようじゃ、まだまだ映画を知らないってことか。そう、これが映画。これは動画じゃない。映画だよな。

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('24-18) オランダの頭中とその種類
Coiffures et Types de Hollande
1910(仏:パテ)
(4分・DCP・無音・ステンシルカラー)

『オランダの頭巾とその種類』は、オランダの伝統的な帽子をかぶった女性達が、色鮮やかな衣装や装飾品によってひときわ輝いている。


('24-19) テムズ河畔 オックマフォードからウィンザーまで
Les Bords de la Tamise d'Oxford a Windsor
1914(仏:エクレクティック・フィルム)
(5分・DCP・無声・ステンシルカラー)

『テムズ河畔オックスフォードからウィンザーまで」は、船上のキャメラが捉えた緑豊かなテムズ河畔の光景が目を惹く。

 

('24-20) バーテルス姉妹
Le Sorelle Bartels
1910(伊:チネス)

(5分・DCP・無声・白黒)

『バーテルス姉妹」』では、バーテルス姉妹が繰り広げる優雅なアクロバット芸が目を楽しませてくれる。

 

('24-21)  お花で、さようなら!
Buona Sera, Fiori!
1909(伊:アンプロジオ)
出演:マリー・クレオ・タルラリー
(1分・DCP・無声・白黒)

本短高集を締め括る「お花で、さようなら!では、コマ撮りアニメーションによって花々が「BUONA SERA」の文字を形作る。

 

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