雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

『熊座の淡き星影』、あるいはヴィスコンティの《ジャッロ》

 
土曜日、新宿の朝カルで『熊座の淡き星影』のことを話した。この映画はヴィスコンティのなかでも、とりわけぼくのお気に入りだ。なにしろ奥が深い。ハッとさせることがいくつもある。今回も発見があった。備忘のため、それについて記しておく。
1. 形容詞 vago について
ひとつは、いまさらながらレオパルディの詩 Le Riconrdanze (思い出)で、それも冒頭の Vaghe stelle dell'Orsa... の部分。Orsa が星座の「熊座」、あるいは大熊座のことで、その尻尾の部分が北斗七星。北に現れるから脇功訳にあるように「北斗の星」でよいけど、ヴィスコンティに親しんできた者としては「熊座」でもよい気がする。

 今回の発見は形容詞の「vago」。タイトルには「淡き」と訳されているけれど、「美しい」が正解。辞書を引いてもそうだし、イタリアの学校では「O mirabili stelle dell'Orsa」と言い換えさせている。実際、vago は羅語 vagus に遡り「vagante, va in giro(あちこち回る)」を意味する。したがって形容詞 vago はなによりも「さすらう、放浪する」ことであり、そこから「何かを求める desideroso、もの欲しげな」へと展開する。

それまではあくまでも人が「放浪し」なにかを「求める」という意味だったものが、放浪して求める対象のことを指して「望ましいもの desiderabile、好ましいもの piacevole 」となり、ついには「愛すべきもの amabile, 賞賛に値する mirabile 」へと至るわけだ。
2. Giallo について
もうひとつは、ヴィスコンティがこの映画を「ある種のミステリー un «giallo»」と呼んでいること。曰く「ようするにこの映画は、《ジャッロ》のひとつで、〔ふつうのジャッロとは違って〕まずはすべてが明らかなところから始まり、最後に謎に包まれるのです」。ヴィスコンティは誰もが知っているオイデプスを引き合いに出して説明する。父を殺し母と交わるという予言に、自分だけにはそんなことは起こらないと確信するオイデプス。しかし、物語の終わりには、その確信は崩壊。そこには犠牲者がいて、加害者は自分自身。

けれども、ほんとうに自分に罪があるのか。古代の観客ならば、罪は運命にあると言うだろう。かし、今の我々にとってはどうなのか。誰もがオイデプスに罪を求めるはずだけど、果たしてそれでいいのか。自分がオイデプスだとしたらどうなのか。自分に罪があると言い切れるのか。
それがヴィスコンティの言う《ジャッロ》。この映画にも死者がいる。そお加害者が誰なのか。最初ははっきりしているように見える。しかし、話がすすめばすすむほど謎が深まる。転倒したジャッロ。つまり、ふつうなら謎から始まって、謎解きに終わるジャッロが、ここでは謎解きは済んでいると思われる状態からは始まると、次第に明らかになるのは、まだ謎が解けておらず、別の謎の登場とともに、むしろ深まってゆくということ。
3. 裏切られたエレクトラ
ヴィスコンティは、そんなジャッロの構想に、ギリシャ神話のエレクトラを持ち出してくる。いやむしろ、現代のエレクトラを演じることになるクラウディア・カルディナーレの存在が先にあったのだ。それはちょうど、かつてマストロヤンニのために『白夜』を構想したように、カルディナーレのために「現代のエレクトラ」の持ち出してきたのだ。
しかしそれは唐突な話ではない。ヴィスコンティはすでに舞台で何度もギリシャ悲劇を扱っていた。たとえば1945年には、ジャン・アヌイによるソポクレースアンティゴネー』のフランス語への翻案『アンチゴーヌ』。1949年にはアルフィエーリの『オレステス』、1953年にはエウリピデスの『メデア』、1957年にはグリュックのオペラ『トーリードのイフィジェニー』(エウリピデスの『タウリケのイピゲネイア』が原案)という具合で、それまでの伝統的な古典の上演ではなく、独自の現代的な解釈を施した演出で観客を驚かしてきた。
ヴィスコンティはそれをこんなふうに語っている。「映画の最初のアイデア〔…〕は、たしかに『オレステーア』(アイスキュロス)でしたね。アガメムノンユダヤ人でナチスに殺されます。それ以外ではあり得なかったのです。クリュタイムネストラは、精神を病んだソリスト(ピアニスト)なのですが、おそらく自分の夫を(ユダヤ人だと)告発し、みすぼらしい地方の弁護士であるアイギストスと一緒になったのです。オレステはアンチヒーローです。現代の青年たちのように、親の復讐なんてどうでもよい。結局のところ金を稼ぎ、写真週刊誌の表紙を飾りたいだけで、わざと姉との関係についての大胆な小説を書くのです。ギリシャ悲劇において復讐の役割はオレステに任されていましたが、ここではそれをエレトラが担います。その行動は正確で、事実を最後までつきとめようと、明快さを求め、それゆえに誰からも敵とされてしまうのです。ここで語られるのは、すでに出発点から非難され、罰せられた人々の物語です。登場人物たちは、あの1時間と15分にわたって言い争うでのですが、なんの役にもたちません」。
つまりはオレステス/ジャンニ(ソレル)が復讐を助けてくれるはずが、なにもしてくれない。むしろ復讐を挫くようなことをする。だからエラクトラ/サンドラ(カルディナーレ)は「裏切られたエレクトラ」と呼ばれることになるわけだ(脚本の第1校あるセリフだが、最終校では消されている)。
 

4. サンドラの意識
こうしてサンドラの人物像は、ギリシャ悲劇のエレクトラを元にしながら作り上げられるのだが、それだけではない。少なくとも、あとふたつの文学作品がこの映画の背後にあったことが指摘されている。ひとつは英国ルネサンス期のイギリスの劇作家ジョン・フォード作による舞台作品『あわれ彼女は娼婦』(1633)、もうひとつはダンヌンツィオの『Forse che sì, forse che no(多分よい、多分ちがう)』(1910)。
フォードの『あわれ彼女は娼婦』は日本語訳も出ているが、ここにもインセストタブーが扱われ、偽装結婚の話が登場する。ヴィスコンティは、この英国のタブー小説からあからさまに指輪のシーンを引用する。地下の貯水場でジャンニがサンドラに指輪を貸してと頼むシーンがそれだ。そうだとわかると、あの演出のすごみがグッと深まる。
 

また、ダンヌンツィオの『Forse che sì, forse che no』はマントヴァのパラッツォ・ドゥカーレの迷宮の部屋にある天井画の迷路に記された言葉がタイトル。「そっちにゆけばたぶん迷路を抜けらる、もしかしたら抜けられない」(Forse che sì, forse che no)そういう意味なのだろうか。実際、小説も恋の迷路を描く。当時幕を開けた空の時代の英雄である、パイロットのパオロと、インギラーミ家の兄弟たち、イザベッラ、ヴァニーナ、アルド、ルネッラとの色恋沙汰なのだけど、これがまた迷路のように込み入っている。パオロとイザベッラの交際に、妹のヴァニーナが嫉妬し、じつのところアルドと姉のイザベッラには禁忌の関係が隠されている。ヴィスコンティは、このインセスト・タブーと舞台となったヴォルテッラを『熊座』のなかに取り込むことになるのだが、当時はダヌンツィオの名前は表に出すことがない。なにしろ赤い貴族と言われるヴィスコンティファシズムに影響を与えたダンヌンツィオをあからさまに持ち出すことは憚られたのだろう。けれども、冒頭のBMWのスポーツカーなんて、ついパオロの飛行機を重ねているのだろうなと想像してしまうし、ヴォルテッラを舞台にすることで生まれる歴史的な闇の深さへの示唆なんて、ダンヌンツィオ由来だとすれば納得がゆく。

加えて、ヴィスコンティ自身が言うように、この映画の主題が「サンドラの意識 Coscienza di Sandra 」にあるのだとすれば、それはどうしたってズヴェーヴォの『ゼーノの意識』を思わずにはいられない。ユング心理学から影響を受けたフェリーニの『8 1/2』のことを、ケジチはマストロヤンニが演じた主人公の名前をとって「グイードの意識」と呼んだけれど、ヴィスコンティもまた自分の作品を同じように考えている。この映画は、自分自身の無意識へと降り立つ旅を描くものとして、あきらかにフロイトユング的な心理学の延長で考えることができるものでもあるのかもしれない。
ヴィスコンティにそれまで、そんな個人問題への関心がなかったわけではない。しかし、マルクスグラムシの影響のもと、階級闘争や南部問題という枠組みをはっきりと示してきた『揺れる大地』、『若者のすべて』、あるいは『山猫』においては、個人の意識の問題が前景に出てこなかった。しかし、マストロヤンニの『白夜』やカルディナーレの『熊座』においては、俳優の演技を生かす作品をめざしたがゆえに、それがはっきりしてくる。