雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ブラゼッティ『Nessuno torna indietro』(1943-45)短評

Nessuno Torna Indietro [Italian Edition]

ブラゼッティ祭り。

 ほとんど誰も見ていない幻の映画。RHVが発掘しDVDとして届けてくれた。これは感謝しかない。なにしろ泣けた。いやほんと。よくできている。あの時代に、こんな女性の自由と自立を歌いあげる物語を撮っていたなんて。

 ラブストーリーだ。ラストは結婚式のハッピーエンド。そこに壊れかけた愛の修復のエピローグを添える趣向。ところがブラゼッティのカメラは、そんな幸せにたどり着けなかった魂が寄り添っているところを映し出そうとする。死者もいる。敗者もいる。まだ彷徨う魂もある。だから泣ける。

 制作は1943年で『雲の中の散歩』の直後。ブラゼッティは、1941年の北アフリカ戦線の「ビル・エル・ゴビの戦い」(イギリスの戦車部隊をイタリア軍が跳ね返した戦い)を映画にすることを提案されていたが、それよりもアルバ・デ・セスペデス(1911 – 1997)の小説『Nessuno torna indietro』(モンダドーリ、1938年刊)を選ぶ。小説はローマの女子寄宿舎にクラス8人の女子大学生が主人公。当時の女性としてはめずらしく自立と自由を目指す気持ちで結べれた仲間たちが、さまざまな出来事を通して、それぞれが異なる運命の扉を開くまでを描くもの。

 ブラゼッティはさすがに一人減らして7人の主人公とするが、それでも一本の映画に7人の女性スターを登場させ、それぞれを個性的に描こうとする。まさに「グランド・ホテル」形式の群像劇で、下手に撮ると面白くないのだけど、そこは職人ブラゼッティ、じつに見事な演出を見せてくれるのだ。

 残念ながら映画が完成した直後、イタリアは休戦協定を発表(1943年9月8日)、すぐさまドイツ軍の占領下に入り、北部にはサロ共和国が誕生、抵抗する者たちが武装闘争に入り、イタリアは内戦状態に陥ってしまう。こうして作品の公開は先延ばしされ、状況が落ち着いた1944年から45年にかけて劇場にかけられたという。

 この映画を見たモラヴィアは、「たくさんの登場人物については、演技ができていないとしかいえない。ブラゼッティの混乱ぶりがよくわかるのは、動きがなく空疎な状況を外からなんとかしようとして、テクニックに訴えるところが目立つことからもわかる。まさに「白い電話」風の演出。写真も暗く吹き替えも聞き取れないことが多い」(Epoca, 1945年3月2日)と散々だ。

 モラヴィアがこの映画を見た時代を考えれば、そう言いたくなる気持ちもわからないではない。しかし、その「白い電話」風の演出のなかに、女子大学生が描かれているのだ。女子が大学でようやく学べるようになり、それなりの社会的を地位を望む姿を描くことは、新しいことではなかったのか。女子の仕事といえば、せいぜい小学校の教諭どまり。ところがアルバ・デ・セスペデスの原作には、ブラゼッティの映画には登場しないものの、小説家を目指すオータムがいる。たぶん自分の分身だろう。聡明で知的で野心的なシルヴィア(エリーザ・チェガーニ)がいる。彼女は一度は諦めるものの、最後には大学教授への扉を開くのだ。

 そして美しいヴィンカ(マリア・メルカデル)はスペイン亡命者とのラブストーリーは、スペイン戦争の勃発によって恋人を失うという悲劇に見舞われるけれど、彼女自身は亡くなった恋人のアトリエにこもり、画家をめざして、絵の具で汚れた仕事着に誇りをもつことになる。

 美しく魅力的なクセニア(マリエッラ・ロッティ)は、試験に落第すると大学から逃げ出してミラノに向かう。電車のなかで飄々としたマウリツィオ(デ・シーカ)とすれ違うものの、ミラノで実業家の恋人となり、実業界の華やかさと恐ろしさを経験しながら、最後には愛するものがなにかを見つけることになる。

 エマヌエラ(ドリス・ドゥランティ)は美しく裕福な娘。事故死したパイロットの若き未亡人で、忘れがたみの小さな女の子を修道院に預けているのだが、自分の訪問を心待ちにしている小さな娘を思いながらも、そのことは誰にも打ち明けていない。ところが魅力的な男性に出会うことで、隠しきれなくなってゆく。

 そしてミリー(ディーナ・サッソーリ)。金髪の薄幸のロマンチストは、ヘンデルを愛で、盲目のピアニストに恋するのだが、心臓が弱くみんなから心配されている。ある日彼女が突然に鼓動を止めたとき、仲間の誰の胸にもその記憶が刻み込まれることになる。

 そして野心的なヴァレンティーナ。若くて美しいヴァレンティーナ・コルテーゼの存在感がぴったりくる彼女、年上の友人をうらやみ、いつか恋人をと思うのだけど、最後まで大学に残ることになる。

 最後に素朴で目立たないアンナ。マリア・デニスが演じる彼女は、真面目な学生なのだけれど、いつか故郷に帰って田園での生活をすることを夢見ているのだが、実際に戻ってみると、故郷はすっかり様子が変わっている。両親がミラノで事業を始めるというのだ。それでもアンナは、幼馴染のマリオ(エンツォ・フィエルモンテ)と再開すると、事態は大きく動き、ふたりの結婚式に、7人の仲間が勢揃いすることになる。

 いやあ、当然そうなるよなと言うラストシーンで落涙。みんないい人たちなんだよ。そうなんだよ。人生いろいろあるんだよ。うんうん。こういうのが、モラヴィアは耐えられなかったんだろうな。純粋な娯楽といえば娯楽。白い電話とは娯楽だったのだから、この映画は確かに「白い電話」風ではある。

 だがそれがなんだというのか。いやむしろ、当局の目をくぐりながら、娯楽としての映画を成立させたうえで、新たな時代を生きる女性たちの姿を称揚するこの女性映画の価値を、戦後の空気の中でモラヴィアは別の何かと見間違えたに違いない。それはすなわち、この小説家には、映画監督のブラゼッティがもっとも大切にしているものを理解できなかったということだ。

 映画とは娯楽なのだ。まずは楽しんでもらえなければ、その前に撮ることがきなければ、始まらない。それはきっと、小説家にはわからないことなのかもしれない。