雲の中の散歩のように

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ブラゼッティ『La tavola dei poveri (貧者の食卓)』(1932)短評

La Tavola Dei Poveri [Italian Edition]

#ブラゼッティ祭り

 イタリア版DVD(RHV)。イタリア語ブックレット(22頁)付き。イタリア語字幕あり。RHVのシリーズは良心的。古典をしっかり伝えようとしている。

 さて、アレッサンドロ・ブラゼッティ(1900 -1987)の『貧者の食卓』は、『Terra madre(母なる大地)』(1931)に続き、『Palio(パリオ)』撮った1932年に、ドキュメンタリーの『Assisi」を挟んで、撮った作品。この年にはサンタ・チェチリアに併設された映画学校で教師兼校長となっている。油が乗り切った32歳(ブラゼッティは1900年生まれだから計算しやすい)。

 ナポリを舞台にした同時代の喜劇。だから登場する風景は1932年のまま。貴族やブルジョワを乗せた馬車と自家用車が通りを走り、近代的な工場(列車の製造工場だろう)のシーンも迫力満点。原作は、主演も務めるラッファエーレ・ヴィヴィアーニ(1884-1936)の同名の戯曲。戦後のイタリア映画ではトトやデ・フィリッポの舞台が映画化されてゆくけれど、その先駆けのひとつ。ブラゼッティは、たいていのことは最初にやっている。まさにイタリア映画の父といえる存在。

 物語はタイトルにあるように「貧者の食卓」(la tavola dei poveri)。日本では「炊き出し」などとよばれるものだけれど、ここではナポリの貴族や実業家たちの慈善事業で、もう少し気取っている。貧者に施しを与える聖人というイメージだろうか。もちろん背景にはキリスト教的なものがあるのだろうが、ブラゼッティのこの作品ではほとんど描かれない。のちにデ・シーカは『自転車泥棒』(1948)で、カトリック教会での「貧者の食卓」の風景を描いている。自転車泥棒の共犯者が逃げ込むのが、まさに教会の慈善事業の現場だった。

 

 さてブラゼッティの『貧者の食卓』では、この慈善事業の委員のひとりが主人公だ。ちょっとした行き違いから事業に大金を寄付する羽目になったのが、イシードロ・フサーロ侯爵。演じるのは原作者であり舞台役者でもあるラッファエーレ・ヴィヴィアーニ。この侯爵、本当は慈善事業をする余裕などないほどに落ちぶれている。残された宝石や絵画などの家財を売りながら糊口をしのいでいる。それでも侯爵は寄付をやめられない。貧者たちからは慕われて、人望も厚い。寄付は彼の誇り。しかしお金はない。ところがひょうなことから、大金が机の上に置かれることになったのだ。

 その大金はどうしたのか。じつは知り合いの貧者が、コツコツとためてきたもの。ただ自分で持っているのが不安だから、できれば預かってもらい、運用してくれないかと託された。しかたなく預かった侯爵だが、ちょっとした誤解から、大金をまるごと寄付するはめになってしまう。こうして大規模な「貧者の食卓」が開催される。慈善事業を誇りとしてきた侯爵はまんざらでもない。一方で、金を預けた貧者は、侯爵の家に忍び込んだ疑いをかけられて逮捕されていた。これ幸いと思うのは凡人。我らが侯爵は、この貧者に罪はないと証言してしまう。根っから嘘がつけない正直者なのだ。

 やがて「貧者の食卓」に大勢の空腹のホームレスたちが押し寄せる。このシーン、ブラゼッティは本物のホームレスをエキストラに呼んだらしい。のちにデ・シーカが『ミラノの奇跡』で同じことをする。こうしてイタリア映画のひとつの伝統が生まれ、その先駆にはブラゼッティがいる。加えて、この映画には美しい夜のシーンがある。パーティの会場にいる侯爵の娘ジョルジーナ(レーダ・グローリア)を、夜の海岸通で恋人が嫉妬しながら見つめているシーン。光の加減がなんともすばらしいのだけど、これはじつはブラゼッティがはじめて「またがった時間」(l’ora a cavallo)を利用したものだという。それは昼と夜、夜と朝に「またがった時間」のこと。この時間の光を利用して夜の効果を出す撮影技法だというのだけど、これがカラー撮影ではいわゆるマジックアワーになるもの。ここにも、なにごとにも先駆者たるブラゼッティの姿がある。

 もうひとつ、忘れてはならないのはナポリ方言とイタリア語の対比。ラッファエーレ・ヴィヴィアーニは独学で読み書きを習い、戯曲や詩を書き、歌を歌った人。いわば言語の達人で、そのナポリ方言は正真正銘の方言で、ふつうのイタリア人にはなかなか理解できない。理解できないのだけれど、舞台で演技すると意味が通じてしまったのだという。そのナポリ方言を、そのまま利用したのでは映画として成り立たない。だからといって、使わなければ面白くもなんともない。そこで、セリフは基本的に標準的なイタリア語で、少しずつナポリ風のアクセントを加えてゆくという手法が使われている。

 イタリア語と方言を歩み寄らせるというのは、ヴェルガもやったし、パゾリーニやテストーニもやったこと。思い出すのはヴィスコンティ。『揺れる大地』でカターニャ弁をそのまま使いネオレアリズムともてはやされながらも自分では満足がゆかず、のちに『若者のすべて』を撮ったときは、あえて折衷的なカターニア訛りを使って、誰にでもわかるようにした。それって、ブラゼッティのこの映画に戻ったということにほかならない。

 おっと、「貧者の食卓」はどうなったか。食卓には、侯爵に金を渡した貧者もやってくる。お金を返せと迫るのだけど、まわりにたしなめられてなかなか侯爵に近づけない。そうこうするうちに、侯爵の娘と恋人が将来を語り合っているところに出くわす。貧者は、金を返してほしいのだと、娘に借用書を見せようとするのだが、そこにさっそうと現れた実業家の弁護士。本当は娘に恋しているのだが、恋人がいるとあらば身を引く覚悟。そして一度でも恋した娘が不幸になるのは見逃せない。貧者からすばやく借用書を取り上げると、何事もなかったかのように記された金額に利子をつけて返してやる。

 なんとデウス・エクスマキ的な結末なのだけれど、物語はここで終わるわけではない。侯爵の娘は結婚してすでに家を出ている。侯爵はますます落ちぶれているのだが、矜持だけは失っていない。物乞いと間違えられて施しを受けるや、そのお金があれば少しは空腹もしのげるだろうに、「お金を落としましたよ」と返してしまう。とぼとぼと、ナポリの階段を降りてゆく侯爵の危なっかしい足取り。歳をとると誰でもそうなる。下はきついんだよ。

 侯爵の姿がまさに消えようとする瞬間、若いカップルが颯爽と階段を駆け登ってゆく。カメラはそのまま空を映し出す。ナポリの空。

 なんという対比。若さと老い、古き時代と新しい未来、これからの男女、終わりの近い独り身。これってほとんどランペドゥーサ&ヴィスコンティの『山猫』の世界。ああ、ブラゼッティはここでも先駆者だったのか。まさに映画の父というわけだ。

 

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