雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

朝カル新宿「ヴィスコンティとは誰だったのか」(1)と(2)

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2020/9/12 朝カル新宿、「ヴィスコンティとは誰だったのか(1)」
 
 ひさしぶりの対面式でしたが、フェイスカバーはどうにも嫌なので、結局はマスクをつけて喋ることに。ときどき息が苦しくなりましたが、それでもリモートとは違う高揚感に後押しされて言葉が出てくる感じがありましたね。
 ここ2週間ほどは、ヴィスコンティを復習しながら、ずいぶん発見がありました。両親の出自と別居の話しが、彼の人生のなかでどんな意味をもった、今回はちょっと考えてしまいました。やっぱりヴィスコンティは、そのルーツがあって、その上ではじめて、どんな人であり、どんな選択を重ね、どうしてその作品、どうしてその方法で表現したか、そんなことが問われるわけです。
 もちろん、そんなことを考えなくても、作品は作品として楽しめば良いというのもあります。それでも、デビュー作の『郵便配達は2度ベルを鳴らす』のオープニングシーンで、マッシモ・ジロッティクララ・カラマーイのトラットリアに入ってくるところなんて、それまで35年のヴィスコンティ人生が反映しているように読めてしまうし、そう読むことの楽しみというのも、あるのだと思います。
 今回の最後に話したそのシーンでは、撮影の細かいカット割や流れもさることながら、ふたつの音楽の引用がとても興味深い。見直しながら初めて気がついたのですけれど、最初におぼつかないピアノの調べで、ヴェルディは『椿姫』(1853年)の「プロヴァンスの海と土」の旋律が流れてきて、次に当時の流行歌の『フィオリン・フィオレッリ』(1939年、ヴィットリオ・マスケローニ作曲、ペッピーノ・メンデス作詞)を歌うカラマーイの声が聞こえてきます。何の違和感もなく重なりながら、肩や無闇な恋に落ちたものを呼び戻そうとする歌であり、肩や恋に落ちる気持ちを歌うもの。意味としては正反対のベクトルを持ちながらも、高揚する気持ちがやがて破局を招くまでにいたる「盛衰」あるいは、必然的な「没落」が、ヴィスコンティのデビュー作冒頭からは示されているように思えてなりません。
 それはミラノの名門出身貴族でありながら、共産党支持を表明して冠せられた「赤い貴族」という、あのバロック的な形容詞に似ています。それは、相矛盾するもののなかに置かれた人間が、それでも生きようとする力のありようなのかもしれません。生まれてきたからには、その場所に生きることを引き受け、苦しみと喜びのあいだで、やがては衰え退場してゆく。そんな人間の真実に、映画や演劇やオペラを通して、迫ろうとしたように思います。
 人間の真実とは、結局のところ生と死のあいだにあって一瞬の輝きを放つもの。それを「自由への希求」と呼ぶならば、「生まれるのも死ぬのも大変だけど、たぶん死ぬ方が楽だ」と語るときのヴィスコンティが、生涯をかけその実存主義の旗として掲げるものなのかもしれません。

 

2020/12/19 朝カル新宿 「ヴィスコンティとは誰だったのか(2)」

 先週の土曜日(12/12)に「フェリーニと旅するイタリア」と題して朝カル立川で話してきて、その一週間後にヴィスコンティの第2回目。けっこうハードスケジュールでした。とはいえフェリーニヴィスコンティも何度か話したお題なので、なんとかなるとは思ったのですが、それでも同じことをしゃべりたくはありません。結局はまたあちこちあたって、最初から調べ直すことになるのですが、今回はそんなに時間もなく、なんとなく前回にちょっと深めたオペラと映画の関係を調べてみようと、前日から当日の朝にかけてドタバタ。けっこう疲れました。

 さて2回目ではあるのですが、初めての方もいらっしゃると思って、まずは映画ポスターでヴィスコンティのおさらい。晩年の『イノセント』と『家族の肖像』が、それぞれダンヌンツィオとマリオ・プラーツが背景にあることをさらりとふれて、ドイツ三部作の『ルートヴィッヒ』、『ベニスに死す』、『地獄に堕ちた勇者たち』)はヴィスコンティの極点かもしれないという感想から、『異邦人』と『熊座の淡き星影』の2作品のもつアクチュアルな意味は無視できないし、かなり興味深いよねという話から、あの『山猫』と『若者のすべて』へ。『山猫』はランペドゥーサの映画化として有名なのですが、『若者のすべて』が実のところヴェルガの「マラヴォッリャの人々」と響き合っていることと、どちらにも背後にはアントニオ・グラムシの南部問題が横たわっていることなんかを思い出して、『白夜』というぼくの大好きな作品のことは一言「これ好きなんです」ですませ、今回のセミナーの話の目標が『夏の嵐』であると申し上げました。

 いやこの『夏の嵐』(1954)、ネオレアリズモを超える傑作なんですよね。どういう意味かというと、ヴィスコンティが目指した映画がひとつの形として現れているのだと思うのです。それを彼は「チネマ・アントロポモルフィコ」と呼ぶわけですが、その話はあとで触れるとして、もうとつ、これ、ヴィスコンティの作品のなかで、はじめて興行的な成功を果たした作品でもあるのです。

 今回のセミナーは、そんな『夏の嵐』へといたる道筋を、まずは前回の到達点である『妄執(郵便配達は2度ベルを鳴らす)』(1943)から辿ってみることにしました。なにしろ一人の映画監督が、どんな時代に、どんな作品を、どういう理由で撮ろうとしたのかって、けっこう重要なんです。そこにひとつの流れが見つかれば、ああそういうことだったんだと思うことが多々あるからです。たとえば『夏の嵐』の場合は、絢爛豪華な時代劇だけど、単純なよろめきドラマにすぎないじゃないかという人はたくさんいるわけで、実はぼくも最初見たときはそう思っていたのです。ところが、『妄執』からのヴィスコンティの作品を辿り直し、その後の展開を見てみると、この『夏の嵐』と言う作品は、ヴィスコンティのなかでもとりわけ重要なものなのではないかと思えるようになってきたのです。実際、ぼくはカルチャーの授業で受講生のみなさんとイタリア語で脚本をじっくり読む機会があったのですが、これがもう実に深い内容なのです。そして、その内容の深さに気づくためにも、それまでのヴィスコンティを知ることが大切なのです。

 さてヴィスコンティのデビュー作『妄執』が公開されたのは1943年の7月です。その7月に連合軍がシチリアに上陸、ムッソリーニが失脚、同年9月には休戦協定が発表されます。事実上の敗北宣言なのですが、同時に、ヴィットリオ・エマヌエーレ国王とイタリア政府は国外に逃げ出します。それは同時に、ナチスドイツはイタリア全土を占領、ムッソリーニ復権させ傀儡政府を作るわけですが、そんなナチ=ファシスト政権のもので、抵抗運動を起こしたのがレジスタンスというやつですね。

 このレジスタンスを具体的にイメージしてもらうために、ロッセリーニの『無防備都市ローマ』のマニャーニの銃殺のシーンを見てもらいました。この映画ではアンナ・マニャーニが、テレーサ・グッラーチェ(Teresa Gullace 1907-1944)というナチスに殺された女性を演じて、映画史にその名を残すことになるわけですが、実のところそれよりも前にヴィスコンティが彼女を『妄執』に起用して撮影を始めていたのです。マニャーニはそれくらい個性的な舞台女優であり、この人についてはいちどきっちりまとめなければなりませんね。

 さてそのマニャーニなのですが、撮影中に妊娠(essere in stato interessante)が発覚し、結局はララ・カラマーイが代役に立つことになるわけです。カラマーイも悪くないですけどね。彼女は彼女でファムファタールを見事に演じていますが、それでもマニャーニの迫力に比べると、見劣りすることはいなめません。いずれにせよヴィスコンティは、あとでふれる『ベッリッシマ』で彼女を起用しリベンジを果たすことになります。

 閑話休題レジスタンス闘争のころのヴィスコンティは、ローマにいて自宅をレジスタンスの活動家の隠れ家に提供していたといいます。ヴィスコンティは、雑誌『チネマ』の仲間を通して、当時は非合法だった共産党に接近し、その後も終生に党との縁を切ることはありません。1944年の4月に、ヴィスコンティレジスタンスに加担したことで逮捕されます。とはいえ貴族ですから、それなりのもてなしをされたとも言われていますが、それでもレジスタンスは非合法活動ですからね、すぐに処刑される可能性もないわけではなかった。幸い、同年の6月4日、連合軍によってローマは解放されます。もちろんヴィスコンティも解放され、戦後を迎えることになるわけです。

 戦後のヴィスコンティは映画を諦めたわけではないのですが、なかなか企画が実現しない状態が続きます。その間に彼が精力的に活動したのは演劇でした。コクトーの『恐るべき親たち』、ジャック・カークランドの『タバコ・ロード』、ホモセクシャルを取り上げたマルセル・アシャールの『アダム』、テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』などを次々と演出してゆきます。そしてその演出のリアリズム(ボロを纏わせ無精髭そのままの役者たちを舞台にあげるような演出)や、ホモセクシャルのような危うい題材も取り上げるなど、戦後の演劇界に革命をもたらすことになるわけです。

 そんなヴィスコンティが、ついに映画を撮れるようになるのは、共産党からの依頼でした。それは1947年のことでした。前年にイタリアは国民投票によって王政を廃止し、共和制を選んでいました。1948年には共和制体制での初めての総選挙が行われるよていでした。そこで共産党は、ヴィスコンティに、党を宣伝するようなドキュメンタリーを頼んだということのようです。この機会をヴィスコンティは最大限に利用することになります。最初は記録映画をとるための最小限のスタッフとともにシチリアに向かいます。それはアーチ・トレッツァという漁村。ほかならぬヴェルガの『マラヴォッリャの人々』の舞台となった村なのです。だから最初から構想は明らかでした。ヴィスコンティは記録映画を撮るふりをしながら、あの『妄執』から実に4年目のブランクを経て、新しい映画を撮ろうとしていたわけなのです。

 そんな『揺れる大地』を、今回のセミナーでは『ニュー・シネマ・パラダイス』から引用することから始めました。まだ焼け落ちて「新しく」建て直される前のパラダイス座で、『揺れる大地』が上映されるシーンです。映画が始まるると、パラダイス座の案内男(maschera)と村のお客の一人が顔を見合わせます。スクリーンの字幕を見ながら、「おい分かるか?」「あいにく文字は読めないんだ」と言葉を交わすシーンです。スクリーンには「イタリア語は貧しい人々の言葉ではない」(La lingua italiana non è la lingua dei poveri.)という文字が見えます。このふたりは、まさに「イタリア語」を読むことができないというわけなのです。

 これはイタリアは統一以来、イタリア語がずっと問題だったことを思い出しておく必要があます。1861年の統一直後、イタリア語を読みかけできる人はほんの一部でした。その後の教育の普及で識字率は上がってゆきますが、それでもシチリア識字率はそれほど高くはありませんでした。だから『ニューシネマパラダイス』のアルフレードだって小学校に入り直したではありませんか。だからほとんどの外国映画はイタリア語に吹き替えられました。だから小さなトトだって、映画館に入り浸るようになるわけです。もしも映画が字幕で上映されていたら、はたしてトトはあれほど早くから映画好きになっていたかどうか、そのあたりを考える必要がありますね。

 さてトルナトーレが『ニューシネマパラダイス』の舞台としたのはジャンカルドという村です。これは架空の街で実際にはパレルモ近郊の監督の故郷バゲーリアですね。では、この村の住民で、イタリア語が読めなかったあの二人(観客と劇場案内係のふたり)は、『揺れる大地』のセリフを聞き取ることができたのでしょうか。もちろん、ある程度は聞けたのでしょう。しかし、当時この映画を観たレオナルド・シャーシャが言うように、ヴィスコンティの映画から聞こえてくるのはカターニアのアーチトレッツァという漁村のかなり強い方言 vernacolo であり、理解するのがかなり難しかったと回想しています。だとすれば、パレルモ近郊のバゲーリアの人々にもそれほど簡単ではなかったはずです。シチリア以外の上映では、イタリア語の字幕がついたといいますし、その後、イタリア語に吹き替えも行われたと言う話もあります。ようするに、ヴィスコンティの『揺れる大地』のセリフは、カターニアの漁村の人々にしかわからないような響きに満ちていたというわけです。

ここにヴィスコンティロマン主義を見ることができる。その1941年のエッセイ「伝統と文明」において、カターニャの散歩中にヴェルガと出会ったというヴィスコンティは、なによりもその方言の音楽性に惹かれていることに注目すべきなのでしょう。

ごく普通の読者が、ヴェルガの小説に最初は表面的に触れるだけでもそこに可能性を感じて魅了されるとすれば、それはこの小説の「内的で音楽的なリズム」によるものではないだろうか。だとすれば、『マラヴォリア家の人々』を映画化するときの鍵のすべてはここにあるのではないだろうか。つまり映画化の鍵は、このリズムの魔法を聞き取って、捕まえることなのだ。それはすなわち、未知なるものへのあの微かな憧れがもたらす魔法なのであり、この世の中の何かがおかしいとか、あるいは、もっとましであってしかるべきだと気づくときの魔法であり、それこそは運命の戯れがつくる詩の実質にあるものなのだ。

ヴィスコンティはまさに、漁民たちのなかに「内的で音楽的なリズム」を見出そうとします。だからこそ、イタリア語で描かれたセリフを、彼らの言葉ではどういうのかを聞き出し、それを彼らの言葉でセリフにさせて、そのままに録音したというのです。『揺れる大地』は、当時としては珍しいセリフの同時録音が行なわれた作品です。それは、ヴィスコンティは、ヴェルガの小説のなかに描かれたイタリア語の背後に、ヴェルガが書き直す前の生の響きを見出そうとします。それはアルカイックで原初的な、まさに「魔法」の響きだということになるのかもしれません。

ヴィスコンティのこうした原音へのこだわりを、シャーシャは「遅れてきたロマン主義」と呼びます。カターニア方言をイタリア語へと書き換えたヴェルガが、現代的だとするならば、ヴィスコンティはそれほど現代的ではなく、むしろ退行的だと考えているようですね。だから「遅れてきたロマン主義」というわけなのです。

こうした方言の響きへのある種ロマン主義的なあこがれには、実は先行者がいます。アレッサンドロ・ブラゼッティの『1860』(1934年)がそれですね。トーキーができてまもない頃に、ブラゼッティは、パレルモの方言をそのままに録音しようとしている。それだけではない、そこにはブルボンの兵士たちが話すドイツ語や、教皇庁の兵士たちの話すフランス語、そしてイタリア各地の方言を混在させるのです。ブラゼッティの言語の方言的な響きに近づこうとする傾向を、真実への傾向と呼ぶとしましょう。それって、ヴィスコンティが『揺れる大地』のなかで方言を全面的に押し出して見せたときのロマン主義とも重なっては見えないでしょうか。

たしかにブラゼッティの場合は、この真実への傾向は、たとえ後に変更されるとしても、ファシズムへ憧れに通じるものです。ファシズムのルーツとしてリソルジメントを見るという姿勢のなかで、シチリア方言はある種英雄的にとりあげるというわけです。いっぽうのヴィスコンティは、ファシズムに憧れることはありせん。しかし、『揺れる大地』のカターニア方言のロマン主義は、おそらくは共産主義にある革命のロマンティシズムを経由して、ヴェルガ的なものへと辿り着いたもののはずです。ところが、そのヴェルガ的なものを映画化するとき、ヴィスコンティはヴェルガを転倒させることになります。少なくともヴェルガのなかにあったはずの理性的で啓蒙的なもの、ある種のモダニズムヴィスコンティにはありません。ヴェルガには、カターニア方言をイタリア語のなかに表現してゆくとするときにモダニズムがあったのだとすrば、ヴィスコンティには、イタリア語からカターニア方言へと遡ってゆくロマンティシズムがあったと言えるのかもしれません。

意味がわからなくても、その原初的な響きの「音楽性」に魅力を感じたのがヴィスコンティだとすれば、ブラゼッティもまた、本物らしさとしての衣装にこだわり、パレルモでオーディションをして配役にこだわります。そしてそのこだわりが、ヴィスコンティの場合は音楽的な形式、ブラゼッティの場合は衣装や方言や場所という映像の上でのリアリズム的な形式というわけなのでしょうか。そんな形式へのこだわりは、下手をするとそれ自体がある種の耽美主義 estetismo へと陥るわけなのですが、イタリアには耽美主義の巨匠ダンヌンツィオがいるわけですから、なかなか複雑なところですね。だからこそ、ダンヌンツィオの対極にあるヴェルガの存在が、少なくともヴィスコンティにうまくバランスを取らせているのかもしれませんが、そのあたりはまだまだ勉強の余地がありますね。

さて、今回のセミナーで話したかったのは、この言語の話ではなく、むしろ音楽の話であり、具体的には『揺れる大地』のなかに引用さえるヴィンチェンツォ・ベッリーニの『夢遊病の女』のなかのアリア「Ah non credea mirarti」の引用の仕方なのです。スミレの花を手に取り、それが束の間の愛と重なるのだと歌う主人公の歌を、ヴィスコンティは漁民たちが、イワシの大漁によって束の間の喜びを味わっているシーンに引用するのです。ところが主人公の船はシケで壊れてしまい、漁に出ることがかなわなくなります。愛の喜びが消えてしまったと嘆くアリアは、漁民たちの大漁がつかのものであることを暗示するというわけですね。しかもヴェッリーニは、舞台となったアーチトレッツァでは、地元の誇りとして「カターニアの白鳥」と呼ばれる人物であるわけなのですから、このあたりはオペラに精通したヴィスコンティが、リアリズムのなかにオペラをさりげなく招き入れているシーンだと考えることができるのでしょう。

ヴィスコンティのリアリズムのなかにオペラが入り込んでくるのは、この作品だけではありません。続く『ベッリッシマ』でもドニゼッティの『愛の妙薬』の一節が非常に効果的に用いられているのです。それが村の女たちが、噂をする「Saria possibile?」だ。女たちは、主人公の農夫ネモリーノが叔父の死によって大金持ちになったらしいという噂をする歌なのですが、これが歌われるのが『ベッリッシマ』の冒頭のシーンです。今回のセミナーでは、先のこのオペラのコミカルなシーンを見てもらってから、映画の冒頭をみることにしました。映画では、村の女たちのうわさばなしの歌に続いて、ラジオのアナウンサーが映画のために小さな女の子のオーデションが行われることを告知します。その「みなさんとむすめさんの幸運のためにper la vostra e la sua fortuna」というセリフは、もしもデビューしてスターになれれば「たいへんな幸運=一攫千金 una fortuna」とも聞こえるわけですが、それこそは『愛の妙薬』の大金持ちになった噂にかさなってゆくというわけなのです。

しかしながら、楽しそうなオペラブッファの軽やかな調べに始まった『ベッリッシマ』は、その最後に敗北感を持ってきます。娘に入れ込みすぎた母親、アンナ・マニャーニはそれが虚しい夢にすぎなかったという現実をつきつけられるのです。まるで『揺れる大地』のアントーニオの敗北感に重なるようではありませんか。

さらにこの敗北をスケールを大きくするのが『夏の嵐』。ここでも冒頭にヴェルディのあの「イル・トロバトーレ」が使われるわけですが、その意味については以前に解説したのでここではふれませんが、いやまたこれがすごいんですわ。一見それはよろめきのメロドラに見えるのですが、しかしながらイタリアのリソルジメントの負の側面に目を向けるものであるわけです。一言で言えば、グラムシのいう「受動革命」とか「欠如した革命」という概念を使いたくなるような、ある種の敗北感なのですが、そのあたりを論じるのはまた別の場所にする必要がありますね。けれども、ヴィスコンティは、その敗北感にヴェルディではなく、アントン・ブルックナーを持ってくるというのがまたすぐいわけです。まさにヴェルディのリアリズムに対して、ブルックナーのロマンティシズムがぶつけられるという構成。

まさに人生は歴史のなかにあり、その歴史は敗北の歴史であるというような、ヴィスコンティ映画の壮大なドラマがここから始まるわけなのです。それを音楽劇という意味でのメロドラマと呼ぶならば、そこに浮き彫りにされてゆく、いつかは敗北せざるをえない人間の姿こそは、ヴィスコンティが目指した「チネマ・アントロポモルフィコ」なのかもしれませんね。


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さて、その(3)は来年になります。パンフとかもうできているはずなのですが、たぶん次に話す内容は予告とは少し違うものになりそう。さてはてどうなることやら...