
ネトフリ。25-100。『アヨツィナパの43人』を観た。メキシコで起こった失踪事件を描いたアルゼンチンのドキュメンタリー。原題は「Los días de Ayotzinapa」(アヨツィナパの日々)。
ぼくがこのドキュメンタリーに関心を持ったのは、2020年のメキシコ映画『ニューオーダー』。強烈なフィクションなのだが、その歴史的な背景に2014年の「アヨツィナパの学生失踪事件」があるということを知り、そのドキュメンタリーにたどりついたといわけだ。
ウィキペディアの記事を読んだだけではイメージするのが難しかったのだけれど、このドキュメンタリーでだいぶ様子がわかってきた。メキシコのイグアラ市はアヨツィナパにある教員養成学校の生徒が43名が失踪した事件なのだけれど、それが強制失踪であり国家的な犯罪ではないかといわれている。
アヨツィナパの教員養成学校の学生は農村出身者が多い。失踪した43名もそうだ。この学校では伝統的に社会運動や抗議活動に積極的に参加しており、2014年9月にもメキシコシティで予定されていた「トラテロルコ事件追悼デモ」に参加しようとしていた。
この「トラテロルコ事件」とは、1968年10月2日、メキシコの首都メキシコシティ・トラテロルコ地区の広場で軍と警察が学生と民間人を虐殺した事件だという。その事件の追悼のために集まったアヨツィナパの学生たちは100名ほど。いつもそうするのようにイグアラ市でバスを占拠して出発しようとした。
バスを占拠するというと、なにやら危うことのようだが、毎年そうやって借り出しては返却するのが伝統だったらしい。ところが、その年はどういうわけか、このバスを地元警察と州警察、そして軍隊が襲撃、その場で6名が殺され、43名が連れ去られてしまったという。
ドキュメンタリーの前半は、その襲撃の混乱ぶりを再現してくれる。警察や軍隊にとりかこまれ、発砲が始まったときの混乱ぶり。目の前で頭を打たれた仲間の姿に動揺しながら救急車を求める彼は、じぶんたちは武装していない。銃は持っていないと叫ばなければならない。しかし、警察は現場を取り囲んで、学生たちが携帯で呼んだ救急車をなかなか通さなかったという。
その日、サッカーの試合があった選手団のバスも襲撃されている。そのときの誰かが聞いた声が意味深だ。「まちがえた。サッカー選手が乗っているぞ」。発砲した警察か(あるいは軍隊は)いったい誰と間違えたのか。
混乱が少し落ち着いてきたとき、学生たちは連れ去られた43名の仲間について、当局に連れ去られたのなら安心だ、すぐに保釈されるだろうと思ったという。しかし、時間が経っても、どこに連行されたかわからない。やがて当局から発表がある。43人の全員が死亡したというのだ。
このドキュメンタリーは謎を追う。どうして100名の参加者のうち43名だけが連れ去られたのか。死亡が報じられたとき、どうして場所が二転三転し、最終的には森の中のゴミ集積所で焼かれて袋詰めにされて川に捨てられたことになったのか。最初の当局の発表では、犯罪者たちと取引のあった市長が、その妻の政治パーティを妨害しようとする別の犯罪者を警戒するあまり、学生たちを間違えて襲撃させたのだという。やがて犯人も逮捕され、遺体の焼却を自白することになる。
ところが自白には科学的な証拠がないことが判明する。遺族らの抗議で結成された国際的な第三者調査チームによると、発見された遺骨の焼け焦げ方からすると、遺体焼却施設で処理されたとしか考えられず、メキシコ政府がいうように屋根のないゴミ集積所で43名の遺体をそこまでの焼却するには、膨大な燃料と時間が必要であって、当日に雨が降ったことから考えると、それは事実不可能だったと結論づけるられたのだ。
ではどこで焼かれたのか。ここである記者の話として、麻薬カルテルがからんでいる可能性がうかびあがってくる。ここが怖い。証拠はない。それでも、現地の麻薬組織が、学生たちの奪った2台のバスに麻薬をかくしていたのではないかという。組織は政府とつながっている。俺たちのブツを取り返せと当局に圧力をかける。こうして警察、そして軍が動く。とくに現地に基地のある第27歩兵大隊があやしい。もしかすると麻薬組織と直接に関係にあるのかもしれないし、もしかすると麻薬を回収するところを学生たちに目撃されたのかもしれない。そこで彼らを基地に誘拐・殺害し、基地内にある遺体焼却施設で焼いたのではないかというのだ。
これはあくまでも仮説だが、なかなか筋が通っている。麻薬と政府の汚職がからんでいるのだとすれば、政府の公式見解が大掛かりな嘘であることの説明ができる。100名の学生のうち、失踪させらた43名は不幸にも麻薬を隠したバスを奪ってしまったわけだ。そしてさらに不幸なことに、麻薬組織は政府と軍と警察と通じていた。そうだとすれば、これはなんとも酷い話ではないか。
こうした背景があれば、『ニューオーダー』のようなフィクションが登場するのもわかる。それはある意味でアヨツィナパの農民たち、すなわち体制に抑圧された貧しいネイティブの反乱を描いている。政府や犯罪組織の怖さをナイティブに与えるのだが、最後には、それを白人の入植者が同じくらいの怖さでひっくりかえすというストーリー。
この怖さはなんなのか。乗り越えられたものなら寓話にもなる。思いっきりホラーにするのもよいのだけれどジャンル映画には収められないものが残る。ぼくたちが生きている現実のいたるところでその怖さが姿を見せている。
『アヨツィナパの43人』というドキュメンタリーは現実を振り返りながらも、希望で終わろうとする。ところがその希望の先に生まれたはずの『ニューオーダー』のようなノンフィクションが、ぼくらに絶望を味合わせるのだ。