雲の中の散歩のように

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「Ignorante」をめぐって

 

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 共同通信によると、テニスの大坂なおみさんが、2月6日にメルボルンで記者会見し、東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の女性蔑視発言について「いいことではないし、その背景を知りたい。情報不足で少し無知な発言」と述べたという。この日本語訳について疑問を投げかかるツイートがあった。次のとおりだ。

  大坂さんの言葉を英語にまで遡り、なるほどそれが「I feel like that was a really ignorant statement to make.」だったのかと知ることは大切なこと。けれども、ここでもこの文章をどんな日本語にすべきかという政治的な言語ゲームには参加する気はないが、「 ignorant 」という言葉は気になるので、以下にメモを記しておく。メモやノートはFBにつけていたのだけど、このまえノート機能がなくなってしまったので、少しご無沙汰していたこのブログをノート代わりに使おうと思ったというわけだ。

 イタリア語でも「ignorante 」というのは「モノを知らない人」という意味で、羅語 「ignorare」 (知らない、知らないことする)に由来。これは形容詞「ignarus 」を経て、否定の接頭辞「 i- 」をはずした「 gnarus」(知ること)に遡る。

 「gnarus 」はイタリア語の「 co(g)noscere」(知る)や「 (g)noto」(知られた)あるいは「ignoto」(未知の)、または「(g)nota」(注釈、知の印)などに派生、印欧諸語の語根「 gno-/gna- 」(知)が共通していることがわあかる。

 興味深いのは「 (g)narrare」(語る)も「gna-」に由来し、「知る状態に置くこと」という意味だったというだ。

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 因みに 「グノーシス主義」のことを言う gnosticismo も同じ印欧語の語根「gno- 」を持つ希語「gnosis」(知)からなる言葉。グノーシス主義は1世紀ごろの地中海世界にみられた思想潮流で、ユダヤ教キリスト教的な伝統や権威に基づく見解よりも、個人の宗教的な「知」を重視する。

  そんなグノーシス主義の文脈で興味深いのは、この思想潮流が、それまでの正統的な見解への反発のように見えること。伝統や権威がシステムとして動きだしたところで、個人は個人的な「知」から遠ざけられ、ある意味で「ignorante」(無知な者)たることを余儀なくされる。

 権威が権威として機能しているとき、その言動はただ受け入れられる。しかし、権威が権威を失いつつあるとき、その代表者は自らの姿を「無知な者」(ignorante )として晒すことになる。寓話的には「裸の王様」だろうか。

 問われているのは、その王が「無知なる者」として自らが裸であることをさらすとき、王の無知を無知と見ることを可能にしたその「知」(gnosis )のあり方であり、それをいかにして「語る」((g)narrare)かということなのだろう。