
アラン・ドロンとモニカ・ヴィッティの笑顔。『太陽はひとりぼっち』のワンシーンだけれど、この屈託のないふたりの太陽のような笑顔がエクリプス(日蝕)で消えてゆく。だからこそ、この輝きを移さなければならなかったのだろう。
さて、土曜のセミナーが終わったので、ここに備忘のために記しておきます。話したことはすぐ忘れてしまうのですが、メモをつけておくと後で役に立ったりするのですよね。友人がアマゾンの自費出版とかやっているので、ぼくもやりたいなと思っているのですが、セミナーは文字になっていないのが大変。キーノートのスライドはあるのである程度はわかるのですが、数年前のスライドを見ると、なんの話だったか忘れていたりする。少しでもメモ書きしておくべきなんですよね。近頃では、AI搭載の便利なボイスレコーダーも出ているみたい。友人が使っているのですが、今かなり惹かれているところ。
横浜ではイタリア映画の名作を一本づつ取り上げてお話ししています。元ネタは「保存すべき100本のイタリア映画」(1942年から1974年にわたりイタリアの集合的記憶を変えた100本の作品)のリスト。今回は、そこからミケランジェロ・アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』を選んでお話ししました。
日本版のDVDやブルーレイも出ているのですが、なんとフランス語なのです。これはこまる。ぼくがイタリア語を教えているからというのもあるけれど、そもそも舞台はローマ。そして主人公のピエロ(アラン・ドロン)はローマの証券取引所で働いている証券の仲買人。フランス語で話しわけないじゃないですか。
でも日本では、ドロンのフランス語が聞きたいのだろうと配給会社は思ったのでしょうね。そして円盤を出している角川もそういうことにした。ブルーレイなのだからフランス語とイタリア語の両方を載せられると思うのだけど、その手間を惜しんだわけですよね。U-Next の配信も同じ。ドロンのフランス語を聞きたい人むけということなんでしょうね。そもそもタイトルの「太陽はひとりぼっち」は、ルネ・クレマンのヒット作『太陽がいっぱい』(1960)のもじりなわけです。
でもまあ、そのおかげで日本ではそこそこヒットしたしい。イタリアでは評論家からは高い評価をうけたものの、一般的には難解だということで興行はふるわなかったといいます。どうして日本では受けたのだろう。あそこがゼン(禅)の国だからか、なんて言葉も聞かれるほど。ちがうんだよね。日本ではアラン・ドロン人気に便乗してヒットさせたんだよね。
いやはや、そういうことでイタリア語版を手にいれるのにアメリカのクライテリオン版を買うことにったわけですが、これは名盤です。絵がきれいなのはそうだけど、エクストラが充実。Richard Peña のオーディオコメンタリーは参考になるし、60分のドキュメンタリー『Michelangelo Antonioni: The Eye That Changed Cinema』(2001)や本作についての20分のインタビュー映画『Elements of Landscape』では評論家のアロリアーノ・アプラーの的確な批評と、アントニオーニの友人カルロ・ディ・カルロの証言など盛りだくさん。
加えて封入されたパンフレットには Jonathan Rosenbaum と Gilberto Perez の評論に加えて、アントニオーニ自身のインタビューの英語抄訳が掲載されている。これがよいのですよ。アントニオーニの魅力をぞんぶんに深く楽しむことができるしかけ。そこにはたとえばこんな記述があるわけ。
Making a film is not like writing a novel. Flaubert once said that living was not his profession; his profession was writing. Making a film, on the contrary, is living— at least it is for me. While I am shooting a film, my personal life is not interrupted; in fact, it is intensified. This total commitment, this pouring of all our energies into the making of a film-what is it if not a way of life, a way of contributing to our personal heritage something of value whose worth can be judged by others?
[ Michelangelo Antonioni, 1962 ]
アントニオーニの「映画を作ることは生きることだ」(Fare un film per me è vivere)というのは有名な言葉なんだけど、これってフロベールを引き合いにしていたんだね。一応訳しておくと、こんな感じだろうか。
映画を作ることは、小説を書くこととは違う。フロベールはかつて「生きることは自分の職業ではない。自分の職業は書くことだ」と言った。しかし映画を作ることは、その逆に、生きることなのだ——少なくとも私にとっては。映画を撮っているあいだ、私の私生活は中断されるどころか、むしろ強められる。この全面的な関与、映画作りのために自分のすべてのエネルギーを注ぎ込むこと——それは何であるのか? 他者の評価にさらされうる、何らかの価値あるものを自分自身の遺産として残すひとつの生のあり方ではないだろうか。
フロベールのような作家にとって、書くことは苦痛だったのだけど、書くしかなかったというのもあるでしょうね。生きるためには書くしかない。だから職業として書く。でも、生きるというのは別のところにある。あるいは失われている。ぼくはフロベールはよくわからないけど、そんな感覚なのでしょうか。
これに対して映画は、ひとりで書けない。映画はみんなで撮るものだから、そこで生きることになる。アントニオーニはなにしろモニカ・ヴィッティとは私的な関係もあったわけだから、そういう意味でも映画を撮ることは生きることと地続きなのかもしれませんよね。
でもそれだけじゃない。アントニオーニがここで言っているのは、職業的な映画のこと。映画というのは、このころにはある種のルールというか文法ができあがっている。たとえば、あるシーンを描くためには最初にエスタブリッシング・ショットから入る。つまりどういう場所にいるか全景を写し、窓を写し、それから部屋に入って登場人物の位置関係を明白にしてゆくわけです。そうやると、観客は映画を理解しやすくなる。そこに感情移入できる人物を登場させれば、あとはどんどん引き込まれてゆく。
ところがアントニオーニはそういう職業的な映画は撮らない。そもそもドキュメンタリーを撮ることから始めた彼がカメラを向けるのは、生きている自分が目の前にしている現実。それこに生きている自分はどんなふうに入ってゆくか。何を見るか。何を聞くか。どう振る舞うか。だから映画の冒頭は、テーブルライトと並べられた本を映す。カメラがゆっくりと右へパンすれば座った男(リッカルド)が右前方を見上げている。その目が何かを追いかけているのだけど、すぐに下を向いてしまう。カットがかわるとカーテンに向かう金髪の女の後ろ姿。振り返れる彼女の目が泳ぎながら何かを見つける。ヴィットリア/モニカ・ヴィッティは下に視線を注ぎながら、なにかに興味を惹かれたような表情を見せる。カットが変わると、そこには何も入っていない木製の額縁。向こう側にはタバコが溜まった灰皿と不思議なオブジェ...
こういうスタートすることは当時の映画としてはやや無謀なのです。実験映画ならまだしも、職業人が撮る娯楽映画ではあり得ないもの。説明があってディテールに入るのではなく、なぞめいたディテールから始まるのは、言ってみればミステリーの手法。じっさいミステリーのように、兆候解読的なまなざしこそは生きているカメラであり、映画を撮ることは生きることだということなのでしょうね。
ようするに、職業としての映画は撮らない。自分が映画を撮るのは生きることなのだというのは、そういうことなのかもしれません。
興味深いのは、この兆候解読的な眼差しがとらえるものを解読するのは、ぼくたち観客に託されているということ。なるほど注意してみなおしてゆけば、ちりばめられた兆候が解読へと誘っているようです。
それはたとえばリッカルドの窓の向こうに見える「フンゴ」(キノコ)と呼ばれる水道塔。その上部がレストランになっているのはローマでは有名なのだけど、知らないものにはまるで原爆のキノコ雲のように見えますよね。

なるほど考えてみれば、タイトルクレジットの冒頭で流れるミーナの『エクリプス・ツイスト』が「放射能がぼくの慄かせる(La radioattività / Un brivido mi dà)と歌っていたし、主人公の消えたラストのシークエンスではバスから降りた乗客の広げた新聞には「核兵器の開発競争」「脆い平和」などの見出しが踊っていました。

キューバ危機は1962年10月に始まりますが、この映画のイタリアでの公開は4月といいます。だから撮影が進められた時代は、まさに核の恐怖の時代だったのですね。そしてそんな時代を、アントニオーニの兆候解読的な眼差しが感じさせてくれる。そうだよねと仄めかしてみせる。娯楽映画ならば、しっかりにドラマじててにして浮き彫りにするところを、ただ仄めかすだけに終わるのですが、時代を生きるとは、そういう皮膚感覚のなかにあるということなのかもしれません。
その時代ということで言えば、映画のなかで唐突にヴィットリア/ヴィッティがアフリカン・ダンスを踊るシーンかもしれないね。ここでもまた仄めかされているものがあります。それは明らかに1957年のガーナの独立でしょうね。指導者エンクルマ(クワメ=ンクルマ)がイギリスからの独立を勝ち取り、アフリカ諸国の独立に先鞭をつけたわけですが、ヴィットリアの隣人はそんな時代にガーナから帰ってきたイギリス人。だから、そこでドーランを塗ってヴィッティが踊ってみせるアフリカン・ダンスは、きっと彼女にとっては恐怖だったのでしょう。あの奇怪で唐突なダンスは、植民地時代の終わりにあって、植民地をあたりまえのように生きてきた時代の意味を考えるように、ぼくらを挑発しているのかもしれません。

しかもです。このダンスを踊るヴィッティの役名はヴィットリア(Vittoria)は「勝利」を意味します。その「勝利」の不気味さに、このあとのシーンでヴィッティのヴィットリアは遭遇することになります。きかっけはガーナ帰りの女友達の家から逃げ出した犬を追いかけて外に出たこと。そこは夜の広場。不思議な音に誘われてゆくけば、そこは2年前にローマ・オリンピックの会場となり万国旗がかかげられたポールが立ち並んでいました。そのポールが風に吹かれて不気味な音を立てていたのですが、広場の真ん中に不思議な彫刻がある。それを見上げるヴィットリア。

アントニーニはなんの説明もしてくれません。まあ、何かに出会うとき、説明なんてないのかもしれませんね。気になったので調べてみたのですが、それはエミリオ・グレーコ(Emilio Greco, Catania 1913-Roma 1995)という彫刻家の『La Vittoria Olimpica(オリンピックの勝利)』 (1960) という作品だそうです。なるほど、ヴィットリアがヴィットリアを見上げているという図式なのですね。しかもそこには、アフリカの植民地時代の終わりと独立運動という背景がからんでいる。
なるほど1960年代のはじめとはそういう時代だったわけです。さらに言えば、実はヨーロッパでは1961年2月25日に日蝕(eclisse)が観測されています。アントニオーニはその撮影をしたというのですが、そのときのフィルムが映画に使われることはありません。けれども、この経験が映画の背景にあったことは間違いありませんはずです。なにしろ映画の原題は「L'eclisse(蝕)」なのですから。

この日蝕、あるいはエクリプスはラストシーンがそうですね。アラン・ドロンとモニカ・ヴィッティが依代となった主人公ふたりの気持ちは、次第に育ってゆくと、喜びに溢れたものになりながらも、やがて唐突にわけもなく消えてゆまう。よっぱらいがアルファのオープンカーを盗んで池に飛び込んで命を落とすように、わけもなくなくなってしまう。
おそらく同じものが、あのローマの株式取引所の熱狂ににもあったのでしょう。象徴的なのは黙祷のシーン。取引所に貢献したある人物の死をいたんで黙祷を捧げるところで、あの欲望の渦巻く喧騒のジャングルのような取引所が1分だけ静寂に包まれる。まさにエクリプス。そこでドロンが口にするのは、1分間でどれだけのお金が動くかというおと。時は金なり。けれどもその欲望の渦は、ときにふと「蝕」に覆われて隠れてしまう。その消えた瞬間があるからこそ、その正体が明らかになる。太陽が隠れたとき、その輝きの意味を知るように。
証券取引所のシーンは、取引所が休みの日曜日にそこで働く人に参加してもらっての撮影だったといいます。だからあれは演技ではなくリアル。ドキュメンタリー作家らしいこだわりですが、そのなかにスッと溶け込んでいるアラン・ドロンの野生味もみごと。
現代の神殿ともいえる株式取引所は、ローマのパンテノン近くにあるハドリアヌス神殿において、1802年、ローマで教皇庁によって設立されたものだといいます。それはヴェネツィア(1630年設立)とトリエステ(1775年)に次いでイタリアに3番目にできた証券取引所なのですが、1997年にはミラノの取引所へと統合されたといいます。現在では商工会議所になっているそうです。

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クライテリオン版。日本語字幕がなけれど、イタリア語で鑑賞するならこれ。英語字幕付き。
フランス語版。日本語字幕付き。配信もこれ。ぼくはがっかり。ドロンの声がききたい向きに貴重なのかも。
これ買いたいな。どうしようかな...
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