雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

パトスとエートスのあわいに:テッド・チャン『息吹』

息吹 
 
通算3日ほどで読了。おもしろかった。以下、読書メモ。
  
「商人と錬金術の門」
あっと言う間に引き込まれる。タイムトラベルもの。
テッド・チャンの新しいところは、運命が、たとえ「錬金術の門」によってその因果の法則が破られるかもしれないと思われるところでも、決して変わることのないところ。変わらない運命にもかかわらず、そこにドラマを見出し、そこから意味を掘り起こすという手法は健全で感動的。
 
 「息吹」
表題作はなかなかの出来。人間が出てこないのに、人間の寓話になっている。短いけど山椒みたいにピリッとくる。
 
「予期される未来」
予定説と自由意志に関する逸品。「ソフトウエア・オブジェクトのライフサイクル」は A.I. の話だけど、売れる売れないを超える価値があるのかという問いにもなっていて秀逸。  
 
「デイシー式全自動ナニー」
父と息子とその息子の3代にわたる《反転したネグレクト》とでも呼びたくなる子育て話。ポイントは身体性。そこが全ての人間的情動の出発点となるのと読んだ。子育ては大変で正解がない。正解を求めないことが正解なのかもしれないな。 
 
「偽りのない真実、偽りのない気持ち」
チャンのインスピレーションのひとつが、ウォルター・オングの『声の文化と文字の文化』だという。このふたつの文化のギャップを、「文字の文化」と「デジタルの文化」のそれに重ねてゆこうという試み。
パラレルストーリーを併走させる語りは、どこかハルキの『1973年のピンボール』(1980)や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)を思わせる。そしてこの文化的なギャップのなかで取りこぼされるものが、たとえばジジンギが語る「ミミ」と「ヴァウ」の区別だ。
「ミミ」も「ヴァウ」はどちらも真実だけれど、いわば社会的な真実と、現実的な真実という違いがある。この違いがもたらす「声の文化」の豊かさが、「文字の文化」への移行のなかに置き去りにされてゆく。ではその「文字の文化」が「デジタルの文化」へと移行するとき、いったい何が置き去りにされるのか。それがチャンの問いかけだ。 
 
「大いなる沈黙」
ちょうどシチリアの哲学者がパスカルを語っている映画を見たばかりだったので、パスカル的な無限を感じさせられた。レオパルディ的な無限でもよいのだけれど、無限の「大いなる沈黙」を前にして、ぼくらの驚きや畏敬の念なんて、ほとんど意味がないのかもしれない。  
 
「オムファロス」
オムファロス仮説というものがある。オムファロスとはギリシャ語でおへそのことだけど、この仮説はアダムとイブの「オムファロス」のことを言っている。神がアダムとイブを創造したのなら、アダムとイブに「へそ(オムファロス)」がある必要はない。それは母親の胎内で栄養を補給するための器官なのだから、母親を持たないアダムとイブには「ヘソ」がある必要はない。にもかかわらずアダムとイブに「ヘソ」があるのはなぜか。もしかすると神は、アダムとイブに、あたかも母親から生まれたかのように「ヘソ」をお造りになったのではないか。いいかえるならば、世界が創造そされたとき、「世界はすでにずっとそこにあったような形で創造されたのではないか」という仮説がオムファロス仮説だ。
バートランド・ラッセルは、このオムファロス仮説をさらにシンプルな形にして「5分前仮説」をたてる。つまり、世界は今から5分前に創造されたという仮説だ。そんなバカなというなから。5分よりも前の記憶があるし、ずっと昔にできた自然物があるという反論には意味がない。なぜなら、アダムとイブに「へそ」を創造したように、神は世界は昔からずっとそこにあったように創造したという仮説には、反論のしようがない。神によってフェイクまでも創造されてしまったら、これはもうどうしようもないではないかということになる。
テッド・チャンがここで描いている世界は、実のところアダムとイブに「へそ」がないという世界だ。木の年輪を用いた交差年代決定法を用いて年代を遡っていっても、ある時期になると木から年輪が消えるような世界。つまり、神による創造の痕跡が学術的に発見された世界を描こうという試みが「オムファロス」という短編。
おもしろい。この世界では学術的な探究と信仰が一致する。いや、一致するかに見えるのだが、新しい天文学的な発見がこの一致に亀裂をいれる。そしてこの亀裂は当然ながら、信仰の危機に直結する。科学者は信仰を失っても研究を続けられるのか?
感動的なのは、この亀裂によって科学も信仰も生きる意味さえも失う人がいれば、むしろ信仰のないままに科学的な探究を続ける人も出てくるという記述。
いやはや、テッド・チャンはおもしろい。 
 
「不安は自由のめまい」
最終話。テッド・チャンのストーリーはいつだって、どこかから差し込んでくる一条の光を求めて進んでゆく。量子力学多世界解釈がたとえめまいをもたらすものであって、その都度その都度、ぼくらがその場所で決断することには意味があるというのだ。そう、たとえ結果が変わらなくても、運命によって同じところに連れてゆかれるのだとしても、それでもなお、そのときそこで決断することには意味がある。
なぜなら、ひとつでも、たったひとつでも、今まで変わらなかった習慣(エートス)とは違った決断をするならば、それはあらたなエートスに可能性を開くからだ。この開かれたエートスこそが、多元的な世界のパトスのなかにあってなお、「不安」のなかに「めまい」を感じることからぼくたちを救ってくれる「自由のエートス」なのかもしれない。
なるほどパトスとエートスの「あわい」に、自由意志が意味を持つ次元をひらいてくれたというわけだ。いやはや、この読後感の良さがテッドちゃん!

 
声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化