雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

備忘録:アリーチェ・ロルヴァケル

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 アリーチェ・ロルヴァケルが気になっている。最初に見たのは『幸福なラザロ』だった。いい映画だと思った。試写で見たのだけど一緒に見たHさんは、なんだかよくわからない映画だったというので、ラザロは聖書に登場する人物の名前だよねと説明した覚えがある。イエスによってラザロは死から復活するのだけど、背後にそういう話があるのだと思えば、現代の寓話として理解できるのではないか。そう説明した覚えがある。

 それから MUBI の配信で『天空のからだ』(2011)を見た。ここにもキリスト教がある。堅信式という儀式を扱ったものなのだけど、主人公のマルタはにとっても、観客の僕たちにとっても式そのものは偽善的なのだ。その偽善を超えて、それでもキリストへの信仰を固めることができるのか。映画はロードームービーの形式をかりて「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という秘密めいた言葉の意味を探し求める。

 ここにもキリスト教がある。儀式や儀礼や形式ではなく、信仰とは何かを問うようなキリスト教だ。それはどこかフェリーニに似ている。そうは見えなくても政治的であり、そうはみえなくて深くカトリックであるフェリーニ。ではアリーチェ・ロルヴァケルはどうなのか。そんなことを思いながらも、彼女の映画からはしばらく離れていた。

 ところが先日、イタリアの「聖と俗」という大きなテーマで映画について考えてみないかと言われたとき、彼女のことを思い出した。そこで急いで、『夏をゆく人々』と見て、公開中の『墓泥棒と失われた女神』と続けてみることにした。結論から言えば、ロルヴァケルもまた政治的であり、宗教的なのだ。

 政治的というのは、現代社会に対する批判的な視座を持っているということ。たとえばテロリズムと政治の混乱の寓話である『オーケストラ・リハーサル』や、ベルルスコーニ的なテレビの時代を批判する『ジンジャーとフレッド』を考えてみれば良い。

 そして宗教的である(spirituale)こと。それは権威となった教会にこびへつらうことではなく、むしろそれを笑い飛ばしながら、目に見えず、触ることができない、霊的なもの(spirituale)を捉えようとする『道』から『カビリアの夜』、『甘い生活』と『8½』、そして『魂のジュリエッタ』へのフェリーニであり、もしかすると『サテリコン』のようなキリスト教以前の世界への眼差しを持つフェリーニまで射程にはいるかもしれない。

 『夏をゆく人々』と『墓泥棒と失われた女神』を続けてみた感想は、まさに政治と宗教がアリーチェの核にあるということだ。この人は、それがまるでひとつの問題であるかのように取り上げると、それをひとつの映画として提示し、ぼくたちの眼差しを乗っ取り、見たことのないものを見せてくれる。自分一体何を見たのか、そこに何を読み取るべきか。2時間に満たないくつろぎの時間を、小さな冒険と迷宮巡りに変化させると、気がつけば世界の見え方がすこしだけずれている。それが、彼女の映画なのだ。

 もう少し知りたくなって調べてみると、アリーチェが映画についての考え方や自分の作品について語った問答形式の本が出ている。『Dopo il cinema. Le domande di una regista(映画の後、ある女性映画監督の問い)』(2023)。E-Book版も出ていたので早速購入して読み始めたら、これがなかなか面白い。そしていろいろわかってきた。

 ひとつは彼女が映画監督のなったのは、ある種の偶然の積み重ねだったこと。文学を学びながら、アルバイトでドキュメンタリーフィルムの編集をやっていたということ。そして、あるとき友人に頼まれて、ハンガリーから来た小さなサーカス団に密着し、彼らがイタリアを離れて故郷に帰る旅に同行することになる。それが彼女が参加した最初のドキュメンタリー『Un piccolo spettacolo(ちいさなサーカス)』。監督はピエルパオロ・ジャローロ(Pier Paolo Giarolo)。彼女はカメラを持って旅に同行し、編集を担当する。

 

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 このカメラを持った旅のなかで、彼女は自分が場違いであると感じていた。このサーカスの家族にカメラを向けることが恥ずかしかったという。彼らは見事に仕事している。ところが自分はその姿をカメラに映しているだけ。利用しているだけ。だからカメラを持った姿を見られると、思わずカメラを下げて隠れてしまう。罪の意識が働いていたのだという。

 しかしやがて飛躍のときがおとずれる。とくに撮影した映像を編集しているとき、 自分の撮ったイメージの中に、なにかが自分を通して実現されているのを見出して興奮を覚えたのだという。彼女はそれをこんなふうに語る。

編集で何度も見直しているうちに、イメージたちがなにかの秘密を呟いているのが聞こえたのです。それはもしかすると、どこか深いところでの和解だったのかもしれません。とても何かを為せたように思えなくて、ただ自分がなされることの道具であると思えるとき、そんな和解が訪れるものなのですね。そんなに起こることではありません。けれど、ときに出来上がったイメージが、自分のものではないのに、自分を通して存在しているように思えることがある。現実のほうから、証言してほしい、語ってほしいと望まれているように思えるときがあるのです。

[ Nel vederle e rivederle durante il montaggio, ho sentito che mormoravano un segreto. O forse: ho sentito la profonda riconciliazione che si ha quando il nostro fare non sembra neanche fatto, sembra solo che siamo strumento di un farsi. Non succede spesso, ma ci sono dei momenti in cui l'immagine che si crea non è la tua ma sembra esistere attraverso di te, sembra che la realtà voglia essere testimoniata e raccontata. ] 

Alice Rohrwacher & Goffredo Fofi,

Dopo il cinema., Roma, edizione E/O, 2023, p.6/47 E-book

 

「自分のものではないのに、自分を通して存在している」映像という表現は、どこかフェリーニを思い出す。チネチッタの第五撮影所の主として、そこを我が家のように使いながら映画を撮ったマエストロは、少なくとも『8½』の前までは自分が監督であり、自分が映画を撮るのだと考えていたはずだ。ところが映画というのは、自分だけで撮るものではない。大勢の協力者がいて、あの霊たち(spiriti)の囁きを聞きながら、映像が実現してゆくのを助けるのが監督のしごとだという自覚が、その8本と二分の一本目の作品『8½』において表現されていたではないか。

 アリーチェの感覚はフェリーニのそれに近い。映画は初めてでも、それまでフィルムの編集に携わり、大学では文学を学び、ホールデン校では創造性についての薫陶を受け、自分でも文章を書き、絵を描いてきたような人なのだ。それまでのそんな蓄積があったからこそ、『un piccolo spettacolo (小さなサーカス)』の撮影中に、ある種のブレークスルーが起こったというわけなのだろう。

 もうひとつ印象的な話がある。『夏をゆく人々』のプロデューサーでもあり、映画の完成前に亡くなったカール・バウムガルトナーから送られた言葉だ。脚本が書けずに悩んでいる彼女はこう言われたという。

アリーチェ、きみな特別な人間じゃない。だから自分の好きな映画を目指せ。きっと、同じことを愛してくれる人が何百人もいる。戦略も技術もトリックもいらないんだよ。

Alice, tu non sei un essere speciale, quindi cerca di fare un film che piaccia a te, ci sono milioni di persone come te che possono amare quella stessa cosa. Senza strategie, tecniche, trucchi».

Op.cit., p.19/47 

 この感覚。平凡な自分が好きなものなら、多くの平凡な人に届く。できるだけ多くの人に届けたいと思うなら、自分が読みたい物語を書き、自分が見たい映像を撮ればよい。自分が、自分がという個人のクリエイティヴィティなんていうのは幻想なのだ。そういえば、ギタリストのロバート・フリップは自分はラジオ受信機だと言っていた。それは、音楽の電波をキャッチして再現するのが仕事だということだ。おそらく映画監督も同じなのだろう。

 こうなると、見逃していたこのドキュメンタリーも見たくなる。なにしろ、アリーチェは、ピエトロ・マルチェッロとフランチェスコ・ムンツィという同世代の監督と一緒になって、パンデミックによるロックダウンの前後のイタリアを周り、若者たちにインタビューして回ったのだ。

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 印象的なのは、アリーチェがジェノヴァの若者にたずねたのは2001年に G7 が開かれた時のこと。アンチグローバルの静かな運動が G7 に抗議する集会が広かれたのだが、これが警察との激しいぶつかり合いになってしまう。ジェノヴァの学生たちの高校に立てこもった学生たちも、警察に踏み込まれ、血だらけになって排除されていた。あのときのことについて、どう思うかと尋ねられたとき、彼らは知らないという。二十歳に満たない彼らは、まだ生まれていなかったのだ。そして、極端に暴力的なことはやらないほうがよいと穏健な意見を述べるのだが、カメラの向こう側にいるアリーチェはこれをどう思ったのか。

 このドキュメンタリーが否応なく思い出させるのは、かつてパゾリーニがイタリア中を回ってインタビューをした『愛の集会』(1964)だ。今その映像を見るときに感じるようなことを、将来の彼らもアリーチェたちの映像を前に感じるのだろうか。

 少なくとも僕は、同時代のイタリアの若者たちの生きた姿と、生きた言葉に、ただただ引き込まれていた。おそらくこのプロジェクトは空間だけではなく、時代も超えて、ひとつの歴史の証言として残るのだろう。これもまた映画であるわけだ。

 

 アリーチェの本、まだ半分しか読んでいないけれど、続きはまたこんど。

 

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