雲の中の散歩のように

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アン・ハサウェイの改宗と映画『ジョヴァンニ・エピスコポの罪』(1947)

 アン・ハサウェイの記事を読んでいて、「エピスコパリアン派」という言葉に出会う。エピスコパリアンって聞いたことあるけどなんだったっけ?

 記事からハサウェイの言葉を引いておこう。「私の兄がゲイであることをカミングアウトした後、家族全員がカトリックを離れ、エピスコパリアン派に改宗しました。家族全員が愛する兄を異質なものとして見るような宗派を、なぜ私が支持しなければならないのでしょうか?」

 アン・ハサウェイは大好きな女優さん。でも、もともとは熱心なカトリック信者だったことも、家族の問題でそこから離脱しエピスコパリアン派に移ったことも知らなかった。エピスコパリアン派とは、おそらく「米国聖公会」(アメリカ合衆国監督教会 Episcopal Church in the United States of America、略称:ECUSA)のこと。どういう教会なのか。その歴史を日本の聖公会のHPから引用してみる。

17世紀の英国の勢力圏の拡大、海外進出と植民地をベースに、イングランド国教会イングランド聖公会)も世界的な進出を遂げました。第1段階の広がりです。北アメリカでは、独立戦争に勝って英国の植民地でなくなった米国の地に、国家教会ではなく、英国から自立した「米国聖公会」(エピスコパル・チャーチ)が誕生しました。この時から、信仰と制度が英国風に画一的ではなく、それぞれの国や民族固有の言語や文化を通して表現される、「多様性の中の一致」を特質とする聖公会の新教会像が誕生しました。

https://www.nskk.org/osaka/Christianity/christ-3.html

 なるほど、「多様性のなかの一致」とはアメリカらしい。そのアメリカらしさをリベラルよりに徹底することで、1976年に米国聖公会は同性愛者が「神の子供」であると宣言し、世俗の法律によっても守られるように訴えたという。だからハサウェイ一家はカトリックからこの教会へ改宗したというわけだ。

 それにしても「エピスコパル」とは何か。キリスト教の文脈ではさまざまな訳語があるようなのだけど*1、イタリア語にひきつけると「episcopo」とは「vescovo」の古い表現だとある。

 Vescovo はカトリックでは「司教」と訳されることば。英語では「bishop」だけど、古期英語では「bisc(e)op」で、これは俗ラテン語「ebiscopus; episcopus」を経て、同じギリシャ語の「epískopos」へと遡る。ちなみに epískopos は「epi-(近くで)」+「skopós(見る)という構成で、古代アテネから派遣され従属都市を「監督する官吏」(epískopos)のことを指していたらしい。転じてキリスト教では各地の教会を「監督する人/見守る人」のことを「episcopo, vescovo, bishop」(日本語では「司教」「主教」「 監督」など)と呼ぶようになったわけだ。

 このエピスコポというのが、どうも聞き覚えがあると思ったら、イタリア人の姓にエピスコポがあり、ダンヌンツィオの小説に『Giovanni Episcopo(ジョヴァンニ・エピスコポ)』(1891)があって、それをアルベルト・ラットゥアーダが映画化した『ジョヴァンニ・エピスコポの罪』(1947)を観ていたからだ。

 この映画、ぼくはクリスタルディフィルム(CRISTALDI FILM)社のDVDを見たのだけれど、日本語版もあって、コスミック出版の廉価版シリーズ『殿方は嘘つき』のなかに『ジョヴァンニ・エピスコーポ(ママ)の殺人』として収録されている。

 見たからには、どこかにメモがあるはずなのに、それがみつからない。映画のメモは Filmaks のサイトにあげるのだけど、そっちにはまだこの作品がない。探してみると、FBの投稿に紛れ込んでいたので、備忘のためにこちらに再録しておく。

 それにしても、アルド・ファブリッツィの演じたダンヌンツィオの『エピスコポ』が、思わぬかたちでハリウッドのアン・ハサウェイと繋がってしまうとは。こういうことがあるから映画は楽しい。

 では以下に、この映画についてFBの投稿を再録。そうか、ぼくはロッロブリージダ祭りでこの映画を見直したんだったな...

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23-70。ロッロブリージダ祭り。彼女の出演シーンを探したのだけど、ほんの一瞬。シルヴァーナ・マンガノもでているけれで、それも一瞬。公開は1947年。マンガノとロッロブリージダがミスコンで注目を集めた年だけど、映画で注目されるのはこれからというわけだ。

 映画のほうは面白かった。監督はラットゥアーダ。インテリの彼が選んだ原作はダンヌンツィオの2作目の小説『Giovanni Episcopo』(1892)。ドストエフスキーのように罪を凝視し、ゾラのような自然主義、ヴェルガのようなヴェリズムから影響を受けた作風というから、なるほど、戦後イタリア映画のネオリアリズムの流れのなかで、微妙な距離感を醸し出している。

 だから時代を超えて面白い。原作もそうらしいが、映画の時代設定は19世紀末。「世紀が終わり、世界が終わるかもしれない」というセリフにあるように、ジョヴァンニ・エピスコポという真面目なだけが取り柄の文書館の記録係の職員が、イヴォンヌ・サンソンが依代となる美女ジネヴェラに惹かれ、身を滅ぼしてゆく様を描く。

  そこで登場する悪魔のような男ジュリオ・ヴァンゼル(ロルダーノ・ルーピ)が物語のエンジンというところか。いや、怖くていいんだよね、このヴァンゼルの笑いが。その闇を秘めた笑いに対置されるのが、彼のギャンブル仲間のアルベルト・ソルディの軽薄な笑い。

 みごとなのは、冒頭の公文書館の描写なんだけど、カメラは主人公のエピスコポ(アルド・ファブリッツィ)の視線を奪って、ぼくらはぐっと映画の世界にぐいっと引っ張っていってくれる。今でいうPOV なんだよね。みごと。

 日本語版はコスミック出版の10枚組「殿方の嘘吐き」のなかに収録されているけれど、DVDの画質はクリスタルディフィルムのほうが断然上。きちんと修復されたものが使われている。(2023年6月14日)

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