雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

亡き人を傍にして読む『一人称単数』

一人称単数 (文春e-book)

 

新しい村上春樹の短編集を買った。

 

「石のまくらに」

電車の中で最初の短編を読んだ。やっぱり「僕」は簡単に出会った女の子と寝ちゃうんだ。でも、その曖昧さのあわいに、なにか深みが記されてゆく。そして鋭さと、何か不吉なものがある。

たとえば、こんな短歌。「たち切るも/たち切られるも/石のまくら/うなじつければ/ほら塵となる」(ちほ)

なるほど、「石のまくら」に、というわけだ。

 

続くは「クリーム」

阪神電鉄で神戸の山のコンサート会場に向かう「ぼく」が、回想と想像の迷宮にハマってゆく話。じつは神戸、小学校の1年のころまでいた場所なので、少し馴染みがある。だからハルキの関西弁は、読めば頭の中で響き始める。

そんな具体的なイメージと音のなかを進む物語は、結局すっぽかしをくらったコンサート会場の近く、「人はみな死ぬ」というキリスト級の宣教車のアナウンスが聞こえてくる公園にたどり着く。中央に屋根のついた四阿のある公園のベンチで、過呼吸に苦しんでいた「ぼく」に、とつぜん老人が声をかける。「大丈夫か?」ではない。「中心がいくつもあり、しかも外周を持たない円」と言うのだ。

話はそれだけ。ところがそこに謎が開かれる。「世の中になにかしら価値のあることで、手に入れるのがむずかしうないことなんかひとつもあるもんかい。けどな、時間をかけて、手間を掛けて、そのむつかしいことをなしとげたときには、それがそのまま人生のクリームになるのや」。

老人のそんな言葉に、「ぼく」とぼくらは、なるほどそうかもしれないと思ってしまうのだが、それがなによりも、過去からの悪意のありそうな招待状にふりまわされるなかで起こったことだということは忘れてはならない。

人生で大切なのは「クレム・ド・ラ・クレム」。ささいなことは忘れればよい。それが教訓らしからぬ教訓なのだろうか。

 

第3話「チャーリーパーカー・プレイズ・ボサノヴァ

楽しく読んだ。似たような幽霊ものの短編がほかにもあったっけ。ともかくも、幽霊とは想像力の産物なのか、はたまた想像力が幽霊のおかげでもたらされるのかという、どっちつかずのあわいの世界なのだけど、「信じたほうがよい。実際に起こったことなのだから」という言葉を、たしかにぼくも信じたくなった。

こうした想像力、あるいは死者との対話を、ぼくはフェリーニの『カビリアの夜』や『サテリコン』や『ローマ』に見たし、最近では『シシリアン・ゴースト・ストーリー』にも、それを感じたばかり。

 

第4話「ウィズ・ザ・ビートルズ

同名のアルバムの出た1963年あたりの時代の空気を蘇らせながら、芥川龍之介が服毒自殺直前に書いた「歯車」(昭和2年/1927年)を通奏低音として響かせる。

「飛行機に乗っている人は高空の空気ばかりを吸っているものだから、だんだん地面の空気に耐えられなくなってくるのだって」。それを「飛行機病」というらしい。いつもの、なんだか、わかるようでわからない話だが、はっきりとしたメッセージがある。袖触れ合った人のたしかに存在していた肌触りが、「僕」の人生のかたわらにあり続けるというもの。その重みのない重さを感じる瞬間を、ハルキの「僕」は、ぼくらに思い起こさせてくれるというわけなのだ。

 

第5話「ヤクルトスワローズ詩集」

笑えるが、それだけじゃない。そんな詩集があったのか、知らなかったと大勢の読者が思ったらしい。ケムにまかれたのだ。どうやら空想の産物のようだ。それでもぼくらは、村上春樹が神宮の球場で作家として立つ決意をしたというエッセイを知っている。だから騙されたのだ。だからジョークにもなる。

けれどこの短編にぐっとくるのは、あまり話したことのない父親に連れられて球場に通った幼きハルキくんの姿を垣間見ることができるからだ。とりわけ、サイン入りのボール(とはいえ軟式テニスのボールですが)が自分の膝下に飛び込んできたときのエピソードは泣かせる。

「半ばあきれたみたいに、半ば感服したいみたいに」父親から「よかったな」と言われた記憶が、小説家としてデビューしたときにも反復される。ハルキ印はどこを切ってもハルキ印が出てくる。反復のうちに変奏するのに味わいがあるということなのだろう。

 

第6話「謝肉祭」

シューマンの同名ピアノ曲集のこと。この話、なかなかドロドロと危険な香りのする話。おそらく危険なことを承知で、あえて「醜い」という形容詞を使ったのだろう。この話の「僕」が出会う印象的な女性は、そんなふうに形容される。

そのどこか秘密めいたものを隠しているような彼女が、シューマンのカルナヴァル(謝肉祭)について語る言葉が圧巻。

「この謝肉祭はかなり初期の作品だから、ここではまだ彼の悪霊たちははっきりとは顔を出していいない。カルナヴァルのお祭りが舞台だから、いたるところに陽気な仮面をかぶったものたちも溢れている。でもそれはただの陽気なカルナヴァルにすぎない。この音楽には、やがて彼のなかで魑魅魍魎になってゆくはずのものが次々と顔を見せているの」。

この言葉には「僕」ではないけれど、ちょっとシューマンを聞いてみたくなるではないか。ハルキの「僕」のおすすめはルビンシュタインの演奏。ぼくはおもわず Apple Musici を検索してしまった。


第7話「品川猿の告白」

これもハルキ自身の反復だ。名前を盗む品川猿は不思議な話だったけれど、そのサルが年老いた姿に「僕」はとある温泉宿で出会うことになる。なるほど、あの素性のしれなかったサルが、じつは物理学を専門とする大学の先生のもとで言葉を学び、さらにはブルックナーの7番が大好きで、その第三楽章には勇気もらえるように感じていたことを知るのは驚きだ。

けれども何よりも驚くのは、どうして名前を盗むようになったかというその理由。人間として育ったそのサルはもはや猿には欲情しなくなる。ところが人間の女性には感じてしまうというのだ。しかし、その危うい話が、じつに感動的な愛の物語に転じるのが、こんな品川猿の告白。

「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けてゆくために欠かすことのできない燃料であります。その愛はいつか終わるもものかもしれません。あるいはうまく結実しないかもしれません。しかし、たとえ愛が消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かをこしたという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それままた我々にとっては貴重な熱源となるのです... 」

 

最後の「一人称単数」

ここまでは既出だが、これは短編集ために書き下ろしたもの。

悪夢の味がした。似たような苦々しさをハルキにはときどき感じていた。それは安全なところから描かれる苦々しさだった。

ところがここでは、ポールスミスのダークブルーのスーツに、エルメネジルド・ゼニアのネクタイを締め、ウォッカギムレットを頼み、探偵小説を読みはじめた「私」が、「ひどく嫌な感触のするもの」を口になかに感じることとなる。それはどうやら、「どこかの水辺」で「ある女性に対するおぞましい行為」に由来したものらしい。それがどんな行為であったか想起されることはない。ただそのおぞましさだけが表象されるような場所へと、やがて「私」と私たちは追い立てられることになる。そんな場所の記述だこれだ。

「すべての街路樹の幹には、ぬめぬめとした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかり巻きつき、蠢いていた。彼らの鱗が擦れる音がかさかさと聞こえた。歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いて行く男女は誰一人として顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。空気は凍てつくように冷え込んでおり、私はスーツの上着の襟を立てた」。

ぼくはこのイメージに、ジョセフ・ロージーの『エヴァの匂い』(1962)を思い出した。オープニングとエンディングで印象的に登場するヴェネツィアサン・マルコ広場ドゥカーレ宮の角の柱にあるアダムとイブのレリーフだ。そこには命の木があって、巻きついた蛇がアダムを唆しているのが見える。創世記の記述によれば、主なる神は、このふたりを楽園から追放すると、エデンの東にケルビムと回る炎のつるぎとを置き、命の木の道を守らせらたのだという。

ハルキの記述は、まるで「一人称単数」の目から見た楽園追放の場面のようにも見える。だからこそ「恥を知りなさい」という声が、どこからともなく聞こえてくる。ただ、それは神のものではなく、「その女」の声なのだけど。

 

* * * * * *

ずっと読み続けてきたハルキだけど、はっきり歳を感じる。自己言及的、自己反復的、そういう意味では年寄りの自慰行為にも見える。しかし、読んでいる最中は心地よく読む快楽にひたることができるのもまたハルキ節なのだ。

その意味ではちょっと80年代のフェリーニに似ているのかもしれない。もはや一緒にいてはくれないニーノ・ロータの亡霊とともに、それでも自らを反復してみせるのだけど、その反復のなかで、その都度その時代の精神を吸い込みながら若返っていったフェリーニの姿を。

この村上春樹の短編集は、加藤典洋さんに読んでもらいたかった。加藤さんならなんと言っただろう。『騎士団長殺し』にかすかに失望しながら、それでも新作をまちこがれていた。日本の戦後を深く深く、身体的に考え抜き、ぎこちなくたどたどしく、それでも何かを書かずにいられなかった不器用で真摯なムラカミ読みの評論家、加藤典洋なら、なんと言っただろうか。きっと最後の書き下ろし「一人称単数」には、村上の新境地を見たと言ったのではないだろうか。

ああ、ぼくもまた亡き人を傍において読書するような年になったのかもしれないな。

 

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