雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

『Roma città libera』(1946)短評

 YT. 23-146。 

 日本語にすれば『自由都市ローマ』。1946年のマルチェッロ・パッリェーロの監督作品。パッリェーロといえば、ロッセリーニの『無防備都市ローマ』でドン・ピエトロ神父(アルド・ファブリーツィ)とともに逮捕されるレジスタンスのマンフレーディ役を思い出す。そのパッリョエーロが本格的な監督デビューを果たしたのがこの作品*1。タイトルから見ても、明らかにロッセリーニを意識しているのがわかる。

 そんな映画にたどりついたのはニーノ・ロータを探っていたから。こんどのセミナーでロータ&フェリーニの2回目を話すのだけど、『青春群像(I vitelloni)』(1953)のテーマ曲は3つの主題からできているという話を読んでいたのだけれど、冒頭のグランドテルの「ミス・シレーネ」のシーンで、リッカルドフェリーニが歌う歌詞が気になって調べているうちに、この映画に辿り着く。じつは同じ音楽がこの映画にも使われており、ダンスのシーンでは登場人物がステージでそのテーマを歌って見せているのだ。

 それがこのシーン。ドラマーが曲を紹介する。「シルヴァーナ嬢が新しい曲をご披露くださいます。タイトルは『Vola nella notte』」。舞台にあがったシルヴァーナ嬢が歌う曲のタイトルの意味は「夜を飛ぶ」という。その最初の節はこうだ。「夜を飛ぶ/愛の歌は/心に響く/どこから来るか知らぬとて」(Vola nella notte una canzon d’amor /  l’ode il cuor / donde viene non lo sa...)*2

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 音楽はもちろんニーノ・ロータ。歌詞を書いたのは、おそらくエンニオ・フライアーノ(1910-1972)。映画の原案と脚本を担当しているが、映画の翌年にストレーガ賞を受賞。その後、『寄席の脚光』(1950)のころよりフェリーニとの協力を開始。『白い酋長』(1952)もそうだが、この『青春群像』(1953)はフライヤーノの影響が大きい。

 その映画の内容はまさに「愛の歌が夜を飛ぶ」(Vola nella notte una canzone d'amore)というもの。時は1945年、ローマはすでに連合軍によって解放されているが、まだまだ生活は苦しい。カメラがとらえるのはひとりの泥棒(ナンド・ブルーノ)。屋根からひとつの窓を覗き込めば、今にも拳銃で自殺しようとする若者(アンドレア・チェッキ)がいる。おもわず引き止めて理由を聞けば、ある女(マリーサ・メルリーニ)に振られたと言う。しかも、ふたりのめに稼いだ大金を持ち逃げされたというのだ。泥棒が言う。金ならなんとかなる。でも、ここではダメだ。外に出ないと。こうして意気投合したふたりは夜のローマに出てゆく。

 この若者の部屋には、隣の部屋からタイプライターの音が響いてくる。夜から朝方まで、ずっとタイプ打ちしている若い女性(ヴァレンティーナ・コルテーゼ)のところに、大家が部屋の支払いの催促にくる。働いたお金は家賃に消えてゆく。耐えきれず、彼女もまた女友だちの服を借りて夜の街に出てゆくことになる。

 その同じアパートには、偽物の宝石を扱う商売人がいる。ちょうど同じ頃、値のついた真珠を賭博場のボス(フランチェスコグランジャッケ)のもとに届けるために外に出る。実は、そのボスのもとには、若者から大金を奪って逃げた女がいるのだ。

 カメラはニーノ・ロータの音楽に導かれながら、そんな登場人物を追って解放されたローマの夜に出てゆく。夜の街にいるのは泥棒だけではない。連合軍の兵士たちを相手にする酒場やダンスーホール。娼婦たちと、彼女たちを検挙する機動警察隊(Celere)。巡回するMP。記憶をなくした紳士(ヴィットリオ・デ・シーカ)が自分を知っているものはいないかと尋ねて回る。

壁には「共和国万歳 W REPUBBLICA」と「鎌と槌」のマークに「犯罪者万歳 [W] IL REO」の文字*3。そんな自由都市ローマの夜に果たして「愛」なんてあるのだろうか。

 エンニオ・フライヤーノは、希望を取り戻したはずのローマで、誰もが色と欲に走り、すさんでゆく人間模様をたどりながら、そこに小さな偶然を書き込み、ささやかな出会いから小さな愛情が育ってゆく様を描きだそうとする。なんといっても、ナンド・ブルーノの演じる泥棒がよい。たとえばこんなセリフ。

この世はまったく醜いものだというけれど、そんなことはない。いや、たしかに醜いけれど、その気になれば、天国の隅くらいには修復できるものさ。天国に行くのに死ぬ必要なんてないのさ。天国ってのは、ポケットに入れて持ちあることだってできるんだからな。

(E poi non è vero che il mondo sia tanto brutto...sì , è brutto, ma, volendo, un angoletto di paradiso lo puoi sempre rimediare, non è vero che bisogna morire per andare in paradiso, il paradiso lo puoi portare pure in saccoccia. )

 セリフを書いたのは、もちろんエンニオ・フライヤーノ。そのフライヤーノは私服警官の役で映画に登場するのだが、その眼差しが見つめているのは、解放されたたものの、目先の利益には走る人々にあふれ、あらゆる醜いものが吹き出しきたかのようなローマの夜。けれど、それだけではない。世が明けた時に、もしかしたらまた愛が訪れるかもしれないではないか。世が明けたときには、何かが変わっているはずだ。

 そんな、ありそうもないところから生まれる希望を、フライヤーノはフェリーニとともに描き続ける。『白い酋長』も『青春群像』も『道』もそうだ。『崖』にも『カビリアの夜』にもそれがある。そして『甘い生活』から『8½』にも、そんな眼差しが貫いている。それはフェリーニだけのものではない。フライヤーノがいたからこそ、ぼくらはその希望のイメージを目撃することができたのだと思う。

無防備都市 (字幕版)

無防備都市 (字幕版)

  • アルド・ファブリーツィ
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*1:『Desiderio』(1945)ではロッセリーニから監督を引き継いで共同監督を経験している。

*2:

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*3:イタリアが王政を廃止して共和制になるのは1946年だから、この映画が描く1945年の翌年のことになる