雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

金とアノレクシア:ガッローネ『Primo amore』(2004)をめぐって

 イタリア版DVDにて鑑賞。Filmaks に作品がなく、こちらにメモ。23-34。

 ようやくキャッチアップ。見るのを少し躊躇していたのだ。原作は、痩せた女性が好きで、恋人に痩せることを求め、自分が見守るなかで痩せてゆく恋人に恋する男の自伝小説。でもガッローネを語る上では外せない。あるインタビューで彼は、代表作を列挙しながらこの作品を飛ばしたインタビュアーに「『Primo amore』も忘れないでください」と告げている。

 結論から言う。すごい映画だ。語りに無駄がない。動くイメージがエッセンスだけを捉えている。まさに動く絵画。ひとつひとつのショット/構図が、次のショット/構図へとトラヴェリングし、パースペクティヴが深まる。その深まりのなかで、ぼくらの眼差しが追うのは、独自の美を求める男と、その男に答えようとする女。その言葉、その表情、その行動が、文字通り贅肉を削ぎ落とすような物語を紡いでゆく。


 映画の背後には自伝小説があると言った。マルコ・マリオリーニの『Il cacciatore di anoressiche 』(1997年)。タイトルの意味は「痩身症(アノレクシア)の女の狩人」。こんな内容だ。イタリア版のウィキペデイアから引用しておこう。

 マリオリーニはピソーニュ(ブレッシャ)出身の39歳。拒食症(アノレクシア)で骨格が見えるほどに痩せた女性への性的な倒錯を描く。彼は体重が33キロのルチーアと結婚し2人の子供の父親だったが、家族と別居後してから、広告を通じて新しい女性を求める。そのうちの1人がドモドッソラから来た29歳のバルバラ(実際にはモニカ・カローと名前だった)だった。こうして始まった彼女との関係は歪んだものだった。主人公は食べ物だけでなく、すべてにわたって何を選ぶべきか命じたのだ。「私はバルバラを完全にコントロールしたかったのです。彼女は私の一部であり、私の身体の延長のようでした。そのままだったら、彼女を栄養不足から確実に死へと導いていたでしょう。自分の命さえもうでもよいと思っていたのです。彼女によってわたしは、身体的な意味でも、精神的な意味でも、完璧なものがあるという幻想をいだけたのです。なぜならわたしは、彼女と溶け合っていいるように感じていましたし、じぶんがそんな状況を完全にコントールできる万能の監督だと感じていたのです」。

 著者は、1997年5月12日、ミラノのラス保険会社での記者会見でこの本を発表したが、このとき「私は潜在的なモンスターであり、あやまって誰かを殺す前に誰かに止めてもらわなければならない」と公言していた。象徴的なのは作家がガールフレンドに送った「憎しみと愛をこめて」という献辞だった。1998年7月14日、マリオリーニはヴェルバニア(ピエモンテ州)でモニカを22箇所を刺して殺害した。逮捕された彼は、ノヴァーラの裁判所の短縮裁判で30年の懲役刑が言い渡され、現在はパヴィーア刑務所に服役している。 *1

 マッテオ・ガッローネはこの事件に関心を持ち、脚本の執筆を始める。決定的だったのが作家ヴィタリアーノ・トレヴィサン(1960-1922)との出会いだ。トレヴィサンがその小説『I quindicimila passi』で「ロ・ストラニエーロ賞」を受賞したとき、会場にいたガッローネはその会場で自分の小説を朗読するその姿に惹かれ、すぐに映画の脚本を依頼して、映画に巻き込んだと言う。相手が小説家だから脚本を依頼するのが自然だったのだろう。けれども、ガッローネはその風貌と話し方に惹かれたのだ。だから、トレヴィザンの故郷であるヴィチェンツァに暮らして、この作家と話し合いながら、映画の内容を膨らませてゆく。

 映画の舞台はヴィチェンツァヴェネト州)となり、主人公ヴィットーリオはトレヴィザンが演じることになる。事件を起こしたマリオーニはロンバルディア州のブレッシャ出身だが、同じ北部の街であり、それほど離れてはいない。さらにヴィチェンツァは宝石細工の都市としても有名で、ぐうぜんにトレヴィザンの当時の恋人は金細工師だった。金細工の話を聞くうちに、ガッローネはその話も映画に取り込むことにする。

 トレヴィザンの演じる主人公は金細工師となった。実際の事件の犯人は古物商だったが、金細工の工房のほうが絵になる。暗い工房に真っ赤な溶鉱炉。実に映画的ではないか。そして、主人公の金細工の特殊なフォルム(ジャコメッティのようなフォルム)への執着が、そのアノレクシア(痩身症)への偏愛へと重ねられる。

 冒頭のシーンが謎めいている。ぼくはヴィスコンティの『家族の肖像』の冒頭の心電図を思い出した。そこが語りの現在であり、そこからフラッシュバックとも考えられるし、冒頭に挿入されたフラッシュフォワード(未来の予告)とも言えるもの。クローズアップで映し出される暗い色の生地。なめてゆくと男の顔らしきもの。寝ているのか。そこにオフでこんなセリフが聞こえてくる。

Ci sono ancora, perché so che ci sei anche tu. Non devi avere paura,non è successo niente di irreparabile. 

 なにしろ冒頭だから文脈がない。それだけでは意味不明だが、最後まで見ればわかる。こう言っているのだ。「(僕は)まだここにいる、だってきみがいるのがわかるから。こわがらなくていい、修復不可能なことなんて何も起きちゃいない」。

 否定されている「修復不可能な」こととは、小説の最後に起こった事件のことだ。ガッローネが語ってくれるところによれば、男の恋人となってすべてをコントロールされた女は、最後に男をなぐって怪我を負わせてしまう。男は入院し、女は逮捕され1年間の自宅軟禁に置かれる。やがて自由になった女のものとに男が戻ってくる。ヨリを戻そうとするのだが、女に拒否されて殺してしまう。それが現実に起こったことだという。*2

 これに対してガッローネは、女が男を殴ったとろで映画を止める。そこで男の声で「修復不可能なことは何も起こっていない」と言わせるのだが、生きているのか死んでいるのかわからない。現実には死んでいない。しかし、映画ではわからない。むしろ男は殺されて、殺された男の怨念の声のようでもある。それは冒頭のセリフ「Non devi avere paura, non è successo niente di irreparabile. (こわがらなくていい、修復不可能なことなんて何も起きちゃいない)」を繰り返すと、こんなふうに続ける。

1. Potevo morire, ma non è colpa tua. 

2. Abbiamo sbagliato tutto. Ci siamo illusi di potercela fare. 

3. La testa sempre insieme col corpo, e io non dovevo lasciarti da sola. Era il tuo corpo che voleva mangiare, non la tua testa. 

4. Il peso…, il peso non conta, qualcosa di più specifico. Lo stesso volume, ma l’oro pesa di più. 

5. Me l’ha insegnato mio padre: “se riesci ad alzare il lingotto senza spostarlo, è tuo.” E io non ci riuscivo, non capivo. Una cosa così piccola, così pesante. 

6. Togliere tutto, Sonia, bruciare tutto, fondere le ceneri. 

7. Alla fine resta solo quello che conta veramente. 

1. 冒頭の「potevo morire」が半過去なのに注意しておきたい。過去のその時点では「(僕は)死んでいたかもしれない」が、現在においては生きているというニュアンスがある。ただし、主語の「僕」が生きているかどうかわからない。結論は宙吊りにされたままだ。

2. 主語が「僕たち」となっている。「ぼくらは全部間違えた」というのだが、ここに主人公ヴィットリオと恋人のソニアとの関係が示唆されている。ヴィットリオはソニアも巻き込んで二人で「間違えた」というのであり、「やりとげられるという幻想をいだいた」のはふたりともだというのだ。しかし、このラストシーンでソニアは、ヴィットリオに背を向けている。現実には救急車を呼ぶのだが、映画のソニアがどうするか、宙吊りにされている。

3. 「頭はつねに身体とある」というセリフは、映画のなかで繰り返されるものだ。これはヴィットリオの偏愛がまずは痩せた身体(il corpo)に向かうものの、生きた女性が対象であるかぎり頭(la testa)がなければならないということ。自分を気に入ってくれたソニアとの関係では、まずは「頭」と関係を結び、自分と一緒に「身体」を管理することで、理想の痩せたフォルムに至ろうと考えていた。これに続けて「君ひとりにすべきじゃなかった」というのは、自分にも責任があるということ。ひとりにしたから隠れて食事をとり、クライマックス直前のあのレストランのシーンで激しい発作に見舞われ、フンギのフェットゥチーネを貪り食ってしまったのだが、「僕が一緒にいれば」そんなことは起こらなかった。なぜなら「食べたがったのは君の身体であり、君の頭じゃない」からだ。

4. ここからは金細工の話とダブってくる。「重さ(il peso)... 重さが大切なのじゃない、もっとはっきりした何かだ」というのだ。彼女の体重(il peso)にあれほどこだわっていたのに、「重さ(il peso)」が問題ではないというのは、少しわかりにくい。ヒントになるのが「同じ量でも金のほうが重い」の部分。金(Au)の比重は19.32で、鉄 (Fe)の7.87の倍以上になる。たとえば 500ml の牛乳パックなら500gだが、同じヴォリュームの金の延べ棒だと10kgになる。

5. ヴィットリオはそれを父から教わったという。「延べ棒を動かさずに持ち上げられたら、お前にやろう」と言われたのだという。「動かさずに senza spostarlo」というのは、おそらく掴んだ状態で「真っ直ぐ上方に」ということなのだろう。10キロの延べ棒なんて持ったことがないから想像するしかないが、おそらく子供の握力ではかなり難しいはず。なぜ持ち上がらないのか。そして不思議に思ったに違いない。だから「持ち上がらなかったし、理解できなかった」という。金とは「こんなに小さいのに、こんなに重い」と驚いたのだ。

6. ヴィットリオにとっては、そこに金の価値がある。混じり気のない純金の19.32という比重。価値があるのは金の重さではない。比重がもたらす驚きなのだ。そんな金を精錬するには、余計なものをすべて取り去る必要がある。だからヴィットリオは言う。「ソニア、すべてを取り去るんだ。すべてを燃やし、灰を溶解するんだ」。語られているのは、金の精錬の方法なのだが、それは同時に、ソニアの身体をジャコメッティの彫刻のようにするための方法でもある。

7. ヴィットリオは金細工の工房を運営していた。しかし、ジャコメッティの彫刻のような細工にこだわり、市場からそっぽをむかれ、職人に逃げられてしまう。工房をたたみ、道具も二束三文で売り払ってしまうのだが、彼には目論みがあった。余分なものを片付け(すべてを取り去れ)、工房の壁をこすり落とし、落としたものを袋に詰め、小さな炉で燃やし(すべてを燃やせ)、でてきた灰を溶してゆく(灰を溶解せよ)。彼は、工房のかべに金粉がこびりついていることを知っていたのだ。こうしてヴィットリオは灰のなかから金を精錬する。なるほど「最後には大切なものだけが残る」のだが、それはソニアに向けられた言葉なのだ。

 こうして金の精錬とアノレクシアが重ねられるとき、ガッローネのカメラはゆっくりとヴィットリオの倒れた工房から抜け出し、工房に背を向けて座り込む蒼白なソニアを見下ろしながら、ゆっくり夜空を舞うと、ほのかに輝くヴィチェンツァの街を映し出す。

 

追記

この映画、残念ながら未公開で日本語で鑑賞できるメディアはない。日本のアマゾンには英語版DVDが出品されていた。

Primo Amore/

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バンダ・オシリス(Banda Osiris)の音楽がよい。ガッローネとは『Ospiti』 (1998)、『Estate romana』 (2000)、『剥製師(L'imbalsamatore )』(2002)に続く仕事となり、本作『Primo amore』 (2004)ではベルリン映画祭の金熊賞など、数々の賞を受賞。

Primo amore

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これ書いたのはもう7年前なんだな。このころより理解が進んで、おもしろさがわかるようになってきた。

hgkmsn.hatenablog.com

 

なお、filmarks にもいろいろメモをとったので、ここにまとめておきますね。

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