イタリア版DVD。イタリア語字幕あり。24-98。
タイトルは「わたしたちの時代、雑記帳その2」。これは1952年の『懐かしの日々』の続編。このときのぼくのメモにこうある。
1950年台のイタリア映画では、ロッセリーニやデシーカらのネオレアリズムのインパクトも薄れてきており、いわゆる危機がとりざたされたいた(ただし、どの本をみても、イタリア映画はいつも危機にある)。つまり、もはやリアリズムだけの重たい社会映画や告発映画だけでは興行的にも、先が見えない状態だったわけ。
そこでベテランのブラゼッティが打ち出したのがこの「雑記帳 Zibaldone」というスタイル。プロデューサから『Altri tempi (今とは別の時代)』をメインタイトルにされたとはいえ、この映画はまさに「雑記帳」。あれやこれやのアイデアを19世紀後半アラ20世紀の初めにかけての作家たちの、それぞれに特徴的な作品を9つ集めてくると、それを2時間の映画のなかに放り込んでみせてくれたわけだ。
そんな『懐かしの日々』(Altri tempi)の続編が本作。タイトルは、「かつての時代」(altri tempi)に対して「わたしたちの時代」(tempi nostri)。公開された1954年にイタリアではテレビ放送が始まるけれど、冒頭のシークエンスはテレビ時代を告げるような演出。男性三人と女性一人の歌い手が歌いながら最初の短いエピソード(「キス(il bacio)」「恋人たち(gli innamorati)」「失礼ですが... (Scusi ma...)」を紹介してゆく。
ウィキペディアのイタリア版によれば映画に2つのヴァージョンがあって、これら3つの軽いエピソードが入ったものは131分版、縮尺版が92分だという。僕が持っているCLISTALDIFILM のDVDは131分版のようだ。
1)「キス」
ショートコントのような作品。キスをする恋人が幽体離脱して自分の姿を眺めながら男が「いつまでキスしてるんだよ俺は、あと20秒で終わりにしよう」と思えば、女が「あらわたしのハイヒールがよごれちゃってるわ、これじゃだいなしじゃないの」などと心配しているというもの。
2)「恋人たち」
これもショートコント。愛しているのに、ちょっとした言葉の綾で誤解が生まれ、口喧嘩がエスカレート、「命をかけるなら電車に飛び込んでよ」「ああ、いいとも」というところまでゆくのだけど、最後は車の中で唇を合わせ、のぞきこんだ通行人を驚かせるというオチ。
3)「失礼ですが...」
『雲の中の散歩』のマリア・デニスの引退直前の作品。デニスはドイツ占領下のローマで、逮捕されたルキーノ・ヴィスコンティが銃殺されないように助けた主張していたことでも知られている。ローマのファシストの警察特別部隊のピエトロ・コック(Pietro Koch, 1918 – 1945)が彼女の大ファンだったことから、コックの関心を惹き、ヴィスコンティを除名するように口添えしたというのだ。
そんなデニスが、夫(エンリーコ・ヴィアリースィオ)の目の前で、まいにち愛人のアルベルト・ソルディといちゃついてみせるというコメディ。ソルディの軽やかでユーモアに溢れ厚かましくも嫌味のない愛人ぶりがみごと。さすがの夫も小言はいうものの、ソルディの出入りを認めざるをえない。家政婦までがぞっこんで、彼が来なくなったら困ってしまうという始末。ソルディは帰りがけに、そんな家政婦の唇を奪うと軽やかに立ち去ってゆく。
4)「マーラ」(Mara)
ここまでは少し古臭い。それでもつづく「マーラ」のエピソードは、「わたしたちの時代」というタイトルにふさわしい物語。
原作と脚本はヴァスコ・プラトリーニ(Vasco Pratolini, Firenze 1913 – Roma 1991)は、ヴィスコンティも映画化を試みた『Cronache di poveri amanti(貧しい恋人たちの記録)』(1954)やボロンニーニの『わが青春のフロレンス』(1970)に原作を提供、脚本ではヴィスコンティの『若者のすべて』(1960)やナンニ・ロイの『祖国は誰ものぞ』(1962)などに協力している、まさに「わたしたちの時代」の作家。
主演はイタリア系のイヴ・モンタン(ヴァスコ)とダニエル・ドロルム(マーラ)。戦後の荒廃が残るフィレンツェのトラットリアで2人は出会う。混み合った店内。ヴァスコと相席することになったマーラ。ヴァスコは学校の教師。やさしくされたマーラは気持ちをほだされるのだが、暗い影をひきずっている。生きるために娼婦をしていたことを告白して、立ち去るのだが、彼は追いかけてくる。ふたりでやり直そうと。
5)「赤ん坊」(Il pupo)
これも戦後の「わたしたちの時代」を描く。ローマのボルガータでクラス貧しい夫婦が主人公。妻を演じるレア・パドヴァーニ(Lea Padovani)の歯切れの良いローマ弁がここちよい。優しそうだが頼りなさげな夫にマルチェッロ・マストロヤンニ。このころのハマり役。物語は、すでに何人も子供がいる妻がさずかった「赤子」をどうするか、ソーシャルワーカーがふたりを引き取ると告げにきたところからはじまる。赤子と母親を保護してくれるというのだが、残された子供たちを夫にまかせておけないと、申し出を拒絶する妻。
しかし、このままでは赤子は育てることができない。しかたがない。教会に行って捨て子にしよう。きっと育ててもらえる。そう決めたふたりはサン・ピエトロ大聖堂で、その大きさに怖気付き、次の教会はあまりに近代的で諦め、古風で美しい教会に捨てると子供が泣き出したので、おもわず戻ってお乳をやろうとするのだが、それを見て司祭に咎められてげんなりしてしまう。最後にオットが、駐車してあった豪華な車の扉が空いているのをみて、そこに子供を置き去りにするのだが、妻はあきらめきれず、ひとめ見たいと戻ったところを運転手に咎められ、大喧嘩をして子供を取り戻すと、やっぱり育てようということになる。
原作はアルベルト・モラヴィア。脚本はスーゾ・チェッキ・ダミーコ。
6)「屋外撮影」(Scena d'aperto)
舞台はローマのチネチッタ撮影所。エキストラを募集しているところに、熟年の男がやってくる。ほかの男性たちが服装をチェックされ、衣装あわせをさせられているのに、着ているものは完璧だ。なにあろう彼は、元は貴族だが今はエキストラに身をやつしている。演じるのはヴィットリオ・デーシーカ。
そしてもうひとり女性のエキストラにも衣装の完璧なものがいる。彼女も没落貴族。かつては華麗な生活を送っていたのだが、いまではかつての召使の家にやっかいになっているというありさま。こちらを演じるのはエリーサ・チェガーニ。戦前の大スターだ。
ふたりは、エキストラとして背景で馬車に乗る熟年夫婦の役。馬車はあやつれるのかという助監督の問いに、デ・シーカは「想像するにたぶん Immagino」と気取った答えで嫌な顔をされてしまう。若い主役の俳優たちの薄っぺらい演技の背後で、チェエガーニとデ・シーカは過ぎ去った日々を思い出し、旧交を温める。なんども撮り直されるなか、ふたりの関係はぐっと近づいてゆき、どうせならな一緒になろうと、馬車でそのまま撮影所の外に出ていってしまうのだった。
原作は詩人・作家・戯曲作家のマリーノ・モレッティ。脚本はエンニオ・フライアーノ。
7)「他人の家」(Casa d'altri)
早逝の作家 シルヴィオ・ダルツォ の同名の説話が原作。山のうえの小さな村の神父シルヴィオ(ミシェル・シモン)は、老婆ゼリンダ(シルヴィー)がこのところずっと何やら話した気な様子であることに気づく。隣に座って話を聞こうとするのだが、なかなか話そうとはしない。あるときついに、彼女が打ち明ける。これまでずっと山で真面目な人生を送ってきたが、それを少し早めに終わらせることはできないものか、というのだ。驚いた神父、懸命にそんな考えは捨てなければならないと説く。ところが勢い余って崖から落ちそうになる。けんめいに欄干にしがみつく神父。ゼリンダはロープを手にすると、手慣れた手つきで神父の体に巻きつけると、崖からひきあげるのだった。
脚本にはブラゼッティとジョルジョ・バッサーニ。カトリックにとって自殺はもちろん罪なのだが、それでも考えてしまうことがある。なぜ自殺を考えてしまうのか。生きることの深く問いかける短編。森鴎外の『高瀬舟』を思わせる。
8)「ドン・コッラディーノ」(Don Corradino)
舞台はナポリ。バス運転手のコッラディーノ(デ・シーカ)は女性をみるとすぐに口説きにかかる。今日も1日の勤めを終えて夜の湾岸線を走っていると、一台の高級車が故障していて、中には美しい貴婦人がいる。さっそく口説きにかかるコッラディーノ。家に帰りたがっている車掌のラッファエーレ(ヴィットリオ・カプリオーリ)をおろすと、一晩中貴婦人につきあうことになる。
翌日、停車場にコッラディーノのバスがない。バールには心配する上司のアメデーオ(エドアルド・デ・フィリッポ)と車掌ラッファエーレと、コッラディーノを慕うナンニーナ(マリア・フィオーレ)。ところがコッラディーニは、定刻の少し前に平然とバスを運転してやってくる。今日もアメリカ人の女性観光客に大いに愛想を振り撒いてご満悦。
バスにはナンニーナも乗っている。相談があるという。恋人と別れたというのだ。お前の父親と俺との仲だから、娘のように思っているのだ。おれが恋人とのなかを修復してやるとコッラディーノ。ところがナンニーナと実のところ、こっらディーノを慕っているのだ。わかってもらえなくてバスから降りて、もうあなたとは二度と会わないと言ってタクシーに乗る。ナンニーナ。びっくりしたコラディーノは、バスのルートをはずれてタクシーのあとを追う。そんなバスの後を、上司のアメデーオがサイドカーに乗っておいかかる。ナポリの路地、タクシーを追いかけ、洗濯物をひっかけながら疾走するバス。あとを追うサイドカー。アメリカ映画のロサンゼルスのカーチェイスよりもいかしていると思うのは僕だけか。
話は、ナンニーナがコッラディーノに告白してめでたしめでたし。ダイアローグはデ・フィリッポのものだから生かしている。たとえば上司アメデーオにコッラディーノが人生観を語ったこんなセリフ。
ボス、いつになったら最良の時は失われる時だってことがわかってくれるんですか。いったい、どのぐらい長生きすればいいっていうのですかね、ボス、200年ですか?目を開けてください。どうせいつかは、その目を永遠に閉じなきゃならない日が来る。義務とか仕事で失った時は、もう誰も取り返してはくれないのですからね。
( Capo, ma quando vi persuaderete che il tempo migliore è quello che si perde? Ma quanto volete campa', capo, duencent'anni? Aprite gli occhi capo! Perché prima o poi arriva il giorno che li dobbiamo chiudere definitivamente e allora quello che abbiamo perso con il dovere ed il servizio non ce lo darà chiù nisciun! )
9)「写真機」(Macchina fotografica)
最後のエピソードはトトとソフィア・ローレン。トトのお笑いとローレンのお色気だけで成立させたエピソード。写真週刊誌が時代を象徴するようになったころ、美しい女性たちがモデルのように街に繰り出していた頃、あるバールでは当時は高価だった写真機がくじ引きの景品となっていた。美女たちのひとり(ローレン)が景品の写真機がほしくてたまらなそうな様子に、色男トトがやってきて、ぼくが取ってあげようと、次から次へとくじをひき、ついには写真機を射止めるのだが、クジの料金を払う前に(たぶん踏み倒すつもりだったのだろう)、数枚写真を撮ってくるよとばかり、ローレンを外に連れ出してポーズを取らせる。最後は自分も移りたいからと、自動巻きでの撮影に挑むのだけど、タイミングがあわない。ドタバタしているところに、通りがかりの男が助けにあらわれ、写真を撮るふりをして、写真機を持ち去ってしまうというオチ。
ローレンは1953年にソフィア・ラッザロ(Sofia Lazzaro)から英語風の綴りでソフィア・ローレン(Sophia Loren)と響きよく改名。モデルと映画の端役だったころからステップアップして準主役級のセクシースターとなり、1954年の彼女の出演作日はなんと10本に登る勢い。なかでもナポリの喜劇王トトとの共演は「ついに映画だわ」と言わせるくらい印象的だったようだ。
注意しておくべきは、ローレンがただのセクシー女優ではないこと。現場でアドリブを次々と繰り出してくるトトに対して、ナポリ育ちの彼女は負けずと応じていたという。だからこそブラゼッティに認められ、すぐに次の映画『Peccato che sia una canaglia 』で、別のエピソードに出演していたマストロヤンニとデ・シーカと共演することになるわけだ。