雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

堀江敏幸「熊の敷石」

村上春樹の文体に似ていると娘がいう。冒頭の「熊の絨毯」のくだりに、昔読んだ、いしいしんじ、の『四とそれ以上の国』を思い出した。いしいしんじの場合は「俺」、そして堀江敏幸ならば「私」が、あっという間に動き出す文体となる。

ところが次の瞬間、堀江の「私」は、外にある言語との間にある運動そのものとなって、第二言語とのコンタクトゾーンに流れ込む。それはしばしば読書体験と呼ばれるものだけれど、異なる言語とのコンタクトゾーンでの経験であるのが、異質といえば異質。むしろそこに、読書の本質があるといえば、それが本質なのかもしれない。

コンタクトする相手との距離は、近ければ近いからわかることがある一方で、近いから見逃してしまうこともある。同じ言語のなかでは取れない距離があるのだ。これに対して、第二言語を読んでいるときは距離がある。距離とはわからないことであり、わからないからわかりたいという衝動となり、辞書を手にして、辞書を読む。ここでは、エミール・リトレという名前は、辞書を読むという距離を含意しているのだろう。それからヤンというユダヤ系のフランス語話者は、ヨーロッパを歴史をその身体によって伝える近さと、近いがゆえの危うさを表しているのかもしれない。

それだけではない。「熊の敷石」というタイトルは、実のところ、第二言語学習のなかでしばしば起こる脱線の話なのだけれど、その脱線こそが、逸脱した点をさらに逸脱した点へと結びつける。敷石はカマンベールと重なって宙を舞い、そこに金属製のボール投げ遊びのペタンンクという、老人と暇と忙しくない日本人の姿が重なってゆくなかで、突然の虫歯の痛みが、全体をさっと縫い上げる。

そんな読書体験のなかで、ぼくらが出会うのは、遠いところにある文章や話者のなかに見え隠れするリテラチュールの煌く星々。辞書編纂者で科学記者でもあるエミール・リトレ(1801-1881)であり、寓話詩のジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(1621 - 1695)であり、スペインのホルヘ・センプルン・マウラ(1923 - 2011)を通して見たふたつの文学的自殺〔ウィーンのブルーノ・ベッテルハイム(1903 – 1990)とトリノプリーモ・レーヴィ(1919 - 1987)〕であり、その背後にある収容所の記憶であり、その記憶とのいかんともしがたい距離と肌触りであり、甘さのなかに突然に襲ってくる虫歯の痛覚なのだ。

いはやは、これはたしかに極上の読書体験の読書でありました。

 

熊の敷石 (講談社文庫)

熊の敷石 (講談社文庫)

  • 作者:堀江 敏幸
  • 発売日: 2004/02/13
  • メディア: 文庫
 

 

四とそれ以上の国 (文春文庫)

四とそれ以上の国 (文春文庫)