雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ジョヴァノッティのアモーレ、ダンテのアモーレ

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 ジョヴァノッティを知ったのはたぶんこの曲だったと思う。NHKのテレビイタリア語が始まったのは1990年だけど、この曲はその4年後に発表されている。たしか、ちょうどそのころ出演しはじめたダニオ・ポニッシさんが番組のなかで紹介してくれたのだろう。イタリアのラップなんて珍しいなと思いながらも、言葉のリズムがヒップホップのビートに実にみごとに乗っているのに驚いた記憶がある。

 「セレナータ・ラップ」は片思いの曲。「いとしの人よ、窓から顔を出しておくれ Affacciati dalla finestra, amore mio 」というサビからもわかるように、大好きな相手にどうしても告白できない切なさから、せめて顔だけでも見せて欲しいという気持ちをラップにしたもの。多くの人が誤解しているけれど、イタリア人だってシャイなやつはいるわけで、大好きな女性に告白するのはそんなに簡単なことではない。東京だってローマだって、大都会で好き相手と出会うのは、あるいみ奇跡みたいなものなのだ。

 そんな曲を思い出したのは、歌詞のなかの次の一節を思い出したから。YouTube の映像では 3.05 あたり。そこにはこうある。

Amor che a nullo amato amar perdona porco cane
lo scriverò sui muri e sulle metropolitane
di questa città milioni di abitanti
che giorno dopo giorno ignorandosi vanno avanti

最初に聞いたとき、 この"Amor che a nullo amato amar perdona"については、深く考えた記憶がない。その他の部分を訳してみると、こんな感じになるだろうか。

Amor che a nullo amato amar perdona 」すげえなこん畜生

この言葉はあちこちの壁やあちこちの地下鉄に書いておかなきゃ

何しろこの街に住んでる何百万もの人々ときたら

来る日も来る日もお互い知らんぷりで通り過ぎてゆくのだから

ようするに、なにか標語のようなものなのだ。それをジョヴァノッティは、「すげえなこん畜生(porco cane; "汚れた犬" の意) 」と罵るように称揚すると、町中の孤独な人々に読んでもらいたいと願うのだが、そのどこがすごいのか、当時のぼくにはよくわからなかった。ネットでさっと調べられるような便利な時代でもなかったのだ。

それが今朝のことだ。ある友人のツイートで、その一節がダンテの『神曲』(地獄篇第5歌103)からのものだと知ったのである。

 そうだったんだ、と思いながらネットで調べてみると(便利な時代になったものだ)、詩聖ヴェルギリウスと地獄に入ったダンテが、肉欲の罪を犯したものたちが落とされる谷で、死んでのちも二人離れずにいるパオロとフランチェスカ*1の魂に出会うくだり。ダンテに頼まれ、フランチェスカは身の上を語りはじめる。夫ある身でありながら、どうして夫の弟であるパオロと関係を結んでしまったのか。アモーレのためだというのである。

最初のスタンツァから見てみよう。

Amor, ch'al cor gentil ratto s'apprende,

prese costui de la bella persona

che mi fu tolta; e 'l modo ancor m'offende.


アモーレ(愛)は 優しい心をすぐに占めてしまいます
だからあの人は わたしの美しい身体がゆえ 愛に捉えられたのです
身は奪われた私ですが、その時のことを思うと今なお心乱れるのです

  このスタンツァで語られるのはパオロのアモーレだ。そもそも「アモーレはいつも優しい心に住まう」(Al cor gentil rempaira sempre amore)と言われる。パオロがそうなのだ。だからアモーレが彼を捉える。姿形のないアモーレは、具体的には「美しい身体 la bella persona 」を通して働くわけなのだが、それはまさに現世のフランチェスカの肉体にほかならない。地獄に落ちた彼女からその肉体は「奪われてしまった」のだが、それでもなお、アモーレに捉えられたパオロに愛される「その愛され方('l modo)」を思えば、「いまなお心乱れる amcor m'offende」というわけだ。

 第一のスタンツァがパオロに「恋心が生まれる」ところを歌ったとすれば、次のスタンツァではそれがフランチェスカにおいてどう展開するかが記されるのだが、その冒頭の1行こそは、ジョバノッティの引用した一節だ。

Amor, ch’a nullo amato amar perdona,

mi prese del costui piacer sì forte,

che, come vedi, ancor non m’abbandona.


アモーレ(愛)は 愛された者が愛し返さなければ許しません
だから私も あの人のかくも大きな喜びがゆえ 愛に捉えられたのです
その人は ご覧のように、今なお私を離してはくれないのです

 最初のスタンツァでもそうだが、ここでもアモーレ(愛)はなにか独立した人格のように表現されていることに注意しておこう。ふつうアモーレといえば「愛する人」のことなのだが、ここでアモーレはパオロでもフランチェスカでもない、なにか第3の人格として振舞っている。それは、人が誰かに「愛された amato」ならば、愛してくれた人をこちらからも「愛する amare」ことを求め、そうしなければ許さない。

 調べてみると*2、ここで動詞 perdonare は「免除する condonare 」の意であり、「どんな人であれ、愛されたなら、愛し返すことを免れさせるようなことはしない」ということ。

 アモーレから「ちゃんと愛し返さないと許さんぞ」と言われたわけだから、目の前で恋心に火がついたパオロの「かくも大きな喜び」を感じて、フランチェスカもまた恋に落ちる。「愛に捉えられた (amor) mi prese 」のだ。

そんなパオロの強い恋心たるや、地獄に落ちても「私を離してはくれない」ほどだというのだが、それはたとえばギュスターヴ・ドレの挿絵に、こんなふうに描かれているというわけだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/Dore_Gustave_Francesca_and_Paolo_da_Rimini_Canto_5_73-75.jpg

最初のスタンツァがパオロにおける恋の芽生え、次のスタンツァがそれに応じてしまうフランチェスカの恋だっとすれば、最後のスタンツァはふたりの行く末を語ることになる。見てみよう。

Amor condusse noi ad una morte.
Caina attende chi a vita ci spense".

愛によってわたしたちはこのような死に至りました。
カインの国へは、わたしたちの命を奪った者が落ちることでしょう。

 注意すべきは「このような死 una morte」という表現。普通の死は「La morte 」と定冠詞で記されるものだが、ご覧のようにここでの死は不定冠詞の「死 una morte 」だ。つまり、パオロとフランチェスコの死は、よく知られているような唯一つの死ではなく、いくつもの形が考えられるなかでの「ひとつの死 una morte 」と考えればよいのではないだろうか。
 *追記:イタリア人の講師と話してたら、この una morte はパオラとフランチェスカが死んでも別れることがなかったという意味じゃないかと指摘された。なるほど、それぞれ別々の死ではなく、文字通り「ひとつの死」に導かれたというわけだ。

 このあたりはダンテの研究者にご教授たまわりたいところだが、あえて私見を述べれば、第2行には、ほかの死のかたちが記されてるように思える。伝説によれば愛するふたりは、パオロの兄でありフランチェスカの夫であるジョヴァンニの手で殺されるのだが、そのジョヴァンニが死ぬときの死は、そこで「カインの国が待つ Caina attende 」ような死なのである。もちろんカインとは、旧約聖書に登場するアダムとイブの息子のひとりであり、神に愛された弟アベルに嫉妬して殺してしまう者のこと。殺人の罪で地獄に落ちるものは、地獄の別の場所、すなわち「カインの国」(Caina)*3 に落ちるということなのだろう。

 話をジョヴァノッティに戻そう。その「セレナータ・ラップ」に引用された『神曲』の一節はこうだった。

Amor, ch’a nullo amato amar perdona

アモーレ(愛)は 愛された者が愛し返さなければ許しません

 恋するジョヴァノッティは、さしずめ第一のスタンツァに描かれたパオロなのだ。ところが大好きなフランチェスカを見つけはしたものの、彼女との距離は遠く、ただ窓越しに眺めるのが精一杯のところ。なんとか近づいて、その恋心を触発するほどに愛してみたい。そうすれば、アモーレが起動する。愛された者は、かならずや愛し返してくれるはずなのだ。

 ダンテを知るものにとって、アモーレこそが宇宙を根本のところで動かす力だというのは明白なのだ。しかし、今そのアモーレは起動しない。加えて、もし起動したとしても、パオロやフランチェスカのような悲劇が待っていないとは言い切れない。人を地獄に落とすことさえあるのがアモーレなのである。

 だからこそ、ジョヴァノッティは宙吊りになって歌うしかない。その優しい心にアモーレは起動し、愛する準備を整えたままで、宙吊りになって、ぼくらに愛を届けようとして歌う。恐れないこと。逃げないこと…

 

その喜びに触発されるとき、

ぼくらは地獄に落ちようが、

愛し返すほかない。

なぜならアモーレは、

そうしないことを許さないものだから。

 

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ダンテの日本語訳については、手元にあったこの平川訳を参考にしたけれど、ぼくなりの言葉にしておいたので、文責はぼくにある。まあ、みんなが様々な日本語の訳文を作るのがよいと思うので、みなさんもぜひ訳してみてくださいな。

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

 

 山川訳は定評があるみたいだけど、訳文が古いとも聞く。いずれにせよ、今回は参照できていない。 

神曲 上 (岩波文庫 赤 701-1)

神曲 上 (岩波文庫 赤 701-1)

 

 一番新しい訳はこれ。読みやすいと評判みたいだけど、まだ買えていない。そのうち書います。

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

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 ギュスターヴ・ドレの挿絵はいいよね。これも手元にほしいところだな。

ドレの神曲

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*1:フランチェスカ・ダ・リミニ - Wikipedia

*2:Amor, ch'a nullo amato amar perdona - Wikipedia

*3:カイーナ Caina とは、カインの弟殺しにちなむ名称で、「肉親を裏切った者たちが堕ちる」場所う。ダンテの地獄では一番下層にある第9圏谷を構成する四つの円のなかで最初のもののこと。