Twitterにこんな記事が流れて来た。
「私はベア(トリーチェ)のために何だったてやった。」「まずは『新生』を書いた。」「それから『神曲』」「しまいには、天国にいれってやったんだ」「それで、彼女は何してくれたって?」「他人に挨拶しただけだ!」 https://t.co/ZHsolCTLEK
— Kosuke Kunishi 國司航佑 (@kosukekunishi) November 30, 2019
一瞬にしてダンテの時代と現代が結びつく。ベアトリーチェを通して愛を称揚するダンテの原像と、嫉妬深い愛しか知らない現代人の眼鏡を通した見えるダンテ。そのギャップこそが、このマンガを笑うための要諦なのだろう。國司さんのツイートは、その日本語訳とイタリア語を対比を通して、現代から古典への扉を開いてくれるのではないだろうか。
難しい話ではない。いわば落語の「千早振る」のように百人一首の珍解釈で笑ってもらおうというものであり、日本の受験生が古文を引用して作った4コマ漫画のようなものなのだ。それはそうなのだけれど、やはり肝心なのは本家の百人一首であり古文の原文であり、その解釈であることはいうまでもない。
ところがぼくは、このダンテの古典を素材にしたマンガの、その最後の部分「他人に挨拶しただけだ!」(Altrui saluta!)という部分が気になってしまった。
それが、ダンテの詩の引用であることは想像がつく。そして、その意味がおそらく、これだけのことをしてやったのに、あのベア(ベアトリーチェ)がしてくれたことといえば、「他人に挨拶しただけ」だという怒りであることは察しがつく。そもそも、ベアトリーチェをベアと呼んでいることからして、まるで自分の恋人のような言い方だから、その恋人が「他人に挨拶する」というのは、なんだか自分をないがしろにされ、まるで浮気でもされたかのようではないか。じっさい、上の漫画を最後のコマのダンテは、よく見れば目から涙を流しているではないか。
しかし、それは落語でいえば在原業平の有名な一首「ちはやふる」の意味をたずねられた御隠居さまが、知らないと言って沽券に関わるというので、即興で頓珍漢な解釈を披露して、「むかし、千早という花魁が、いいよって来た相撲取りの竜田川をふったことがあってな、だから、ちはやふる、つまり千早が振るというわけじゃ」などとやるのだけど、そのめちゃくちゃ解釈をわらうためには「ちはやふる」は枕詞だという知識が必要なわけなのだ。
うえのダンテとベアトリーチェの漫画も、似たような珍解釈であることにはかわりがない。問題はこの一節が本当はどういう意味なのかということだ。
恥ずかしながら、ぼくはこの一節の出典をさっと言えるほど教養がないのだけれど、こういうお笑いは大好きなのだ。なにしろあの在原業平の一首だって、恥ずかしながら、落語の「千早振る」を通して知ったぐらいなのだから、もうここは開き直るしかない。
というわけで、さっそく、どこからの引用なのか、ちょっとググってみると、すぐにヒットしたのが『新生』の26章のソネット。いやはや便利な時代になったものだ。このネットの注釈を読むと、このソネットは清新体の詩の代表的なものだと考えられてるようだ。
なるほど、これならイタリアの高校で古典を学んだものなら誰でも、ぼくらが「源氏」や「平家物語」の一節を覚えたように、きっと暗唱した経験があるはずだ。
そうおもいながら、上の注釈を読み進めてゆくと、例の現代語で「他人に挨拶する」という意味にとれる「altrui saluta」という表現にゆきあたる。注釈を読めば、現代語では「他人」という代名詞になる「altrui」は、どうやらダンテの用法では非人称的な意味になり、「他人」という意味ではなく、ただよ「誰か、人に」と解釈すべきものだというのだ。
だとすれば、ダンテのこの一節は、ベアトリーチェが道ゆく人に挨拶・会釈しながら歩いているという、ただそれだけの意味であって、けっして浮気への嫉妬のような感情に読んではならない。なにしろ、このソネットは全体として、ただひたすらベアトリーチェの優美さを通して、「愛 amore」を称揚しようとする内容。その「愛 amore 」はやがて、地獄から煉獄をへて、ついにはベアトリーチェの昇った天国へといたる『新曲』の世界に発展してゆくことになる。
なるほどね。たしかに清新体の中心的なテーマは「愛」だった。『神曲』の最後だって、星々を動かす力として、いわば世界の核心に働くものとして「愛」を描きだしていたではないか。
では、この清新体という文体の代表的なものといわれるソネットは、いったいどんなことが歌われているのだろうか。そんな好奇心にかられ、ほとんど個人的ななぐさめとして、以下にこのソネットを訳してみようと思う。
ただ、ダンテの『新生』の日本語訳が手元にない。イタリア語の原文とイタリア語の注釈を見ながら、高校生の古典の授業の予習をするような気分で日本語訳に挑戦だ。とんでもない間違いもあるだろう。そのあたりはご指導ご鞭撻のほどよろしく。
ところで、ネットをみるとこのソネットを、ちゃんと朗読してくれている動画もあるではないですか。たとえばこれなんか。いやあ、いい時代になったものだ。うれしいよね。
以下、拙訳です。ご笑覧。
あまりに高貴で、あまりに気品ある姿なものだから
わたしの心の女(ひと)に会釈を向けられた誰もが
舌を震わせて黙ってしまい
まともに目を向けられなくなる
Tanto gentile e tanto onesta pare*1
la donna mia*2 quand’ella altrui saluta,
ch’ogne lingua deven tremando muta,
e li occhi no l’ardiscon di guardare.
その女(ひと)が、まわりから称えられるのを聞きながら
優雅に慎ましさをまとって歩みゆけば
その姿は、まるで被造物のひとつが降臨し
天上から地上に奇跡を示すかのようだ
Ella si va, sentendosi laudare,
benignamente d’umiltà vestuta;
e par che sia una cosa venuta
da cielo in terra a miracol mostrare.
かくも優美な現れのゆえに、その前に立てば誰もが
目から心に甘美なものが届くのを感じるのだが
その感覚は味わった者にしか理解できないものだからまるで、その唇から発せられる
優しく愛に満ちた精霊が
そこやかしこの魂に、恋こがれよと告げ回るかのようなのだ
Mostrasi sì piacente a chi la mira,
che dà per li occhi una dolcezza al core,
che ‘ntender non la può chi no la prova;
e par che de la sua labbia si mova
uno spirito soave pien d’amore,
che va dicendo a l’anima: Sospira*3.
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