雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

13日の金曜日に『8½』を語る(1)

去る3月13日の金曜日イタリア文化会館フェリーニの『8½』の上映会があった。ぼくは上映前の15分ぐらいで作品の解説してきた。いくら13日の金曜日だったといえ、よくもまあそんな恐ろしい仕事を引き受けたものだと思う。

 

ぼくは、特段アカデミックな研鑽を積んだ映画研究者ではない。職業は何かと聞かれればイタリア語教師と答えるのことにしている。でも、じつのところ、自分自身が何者なのかさっぱりわからない。少しばかりイタリア語が読めて、話せて、教えることについては経験を重ねてきた。とくに資格があるわけじゃない。ときどき論文のようなものも書いている。けれど正直のところ、いまだ論文の書き方がよくわからないで、いつだって試行錯誤の繰り返しなのだ。

 

そんな何者だかよくわかからない輩が、どうして『8½』の解説に呼ばれたのか。それはフェリーニの評伝を一冊訳しているからだそうだ。たしかにぼくはトゥッリオ・ケジチの評伝を訳した。でも自分から訳しますと手を挙げたわけではない。別の翻訳を持ち込んだとき、こんな本あるんですけど訳しませんか、そう声をかけられたのだ。ぼくが持ち込んだ企画(たしかマストロヤンニが最後に出演した戯曲の翻訳だった)なんかよりずっと面白そうだ。フェリーニにも関心があった。好きというより、なんでフェリーニの映画を誰もが面白がるのか謎だったのだ。しかもケジチとえいば、イタリアでも有名な映画評論家。ならばそのケジチの評伝を訳せば、フェリーニの謎が少しは解けるかもしれない。たしかそんなふうに思ったのだと思う。

 

何年かかっただろうか。ともかく訳し終えてみた、さあフェリーニの謎は解けましたか、と聞かれたら、答えはイエスでありノーだ。いくつかの謎は解けた。いくつもの発見があった。けれども、フェリーニの謎は依然として謎のままだ。作品を観れば観るほど、シナリオを読めば読むほど、インタビューや評伝を読めば読むほどに、次々と新しい謎が立ち上がってくるのが、まあフェリーニフェリーニたる所以なのかもしれない。

 

そうなのだ。すべての固有名がそうであるように、フェデリコ・フェリーニもまた謎なのだ。普通名詞とちがって固有名は、いつだって謎を含みもっている。そもそも固有名が指し示すひとりの人間は、その人生を内包している。しかし、フェリーニとは、そうしたひとりの人間であるだけではない。彼は映画監督という表現者でもある。だからフェリーニとは、彼の映画表現を内包する固有名でもあるのだ。

 

そして、なによりも『8½』という映画こそは、フェリーニという固有名をめぐる作品なのかもしれないな。そう思った時、ぼくは15分の解説のポイントを見つけたのだと思う。そんなアイデアから、あの13日の金曜日にぼくは15分を語りきった。うまく語れたかどうかわからない。それを確認するためにも、あの日に話したノートを見ながら、以下にそのまとめなおしてみようと思う。

 

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『8½』、上映前の解説(イタリア文化会館アニェッリホールにて)

 

1)固有名「フェデリコ・フェリーニ

 

ひとつの名前、あるいは固有名を語るとき、しばしば、日付のような数字や、地名のような固有名が問題になる。フェリーニの場合は、1920年1月20日(山羊座の最後の日)にリミニに生まれ、1993年10月31日にローマに没す、享年73歳、生涯に長編映画を20本、短編を3本撮り、アカデミー賞の外国語映画賞のオスカーを4回、晩年には功労賞のオスカーが贈られた、ということになるのだろう。

たしかにこうやって記してみると、フェリーニという固有名に輪郭が与えられたような気にはなる。しかし、一方で、その影はまだぼやけたままで内実を欠いている。映画監督としての内実は、その映画のひとつひとつによって与えられる。そして、なによりもフェリーニという固有名と作品の中身が重なりあうのが、『8 1/2』という映画なのだ。

 

2)作品番号「8½」

 

『8½』はイタリア語では「オット・エ・メッツォ(Otto e mezzo)」、日本語では「はっかにぶんのいち」と読む。このタイトルは、これがフェリーニの8.5本目の作品という意味だ。ということは、それまでの監督作品は全部で7.5本ということになるが、実際にはどうなのか。

 

フェリーニがそれまで単独で長編映画を監督したのは6本(『白い酋長』『青春群像』『道』『崖』『カビリアの夜』『甘い生活』)。これに加えて、アルベルト・ラットゥワーダと共同監督した『寄席の脚光』と、短編の『結婚相談所』と『アントニオ博士の誘惑』の3本がある。共同監督作品と短編の3作品をそれぞれ 0.5本と数えてみよう。そうすると長編が6本、その他が1.5本となり、合計で7.5本。なるほど計算があう。

 

『8½』というタイトルはたしかに「8.5本目の作品」という意味なのだが、それにしても不思議なタイトルであることにかわりはない。ケジチの評伝をみれば、どうやらこれは、これから撮ろうとする作品の仮のタイトルであったようだ。フェリーニは、この仮のタイトルだけを決めて、様々な状況や登場人物の具体的なイメージを作り上げながら、肝心の主人公についてはその人物像をはっきりさせられないままに、ほとんど見切り発車してしまう。主人公が誰なのかわからないままに撮影準備に入ってしまったというのだ。もちろん主人公が決まらなければタイトルは決められない。それでも脚本のE.フライアーノは「見事なる混乱 Bella confusione 」と提案し、フェリーニ自身も「喜劇映画 Film comico」というタイトルを考えたらしいのだが、最終的にはこの仮タイトルがそのまま残ってしまったというのである。

 

しかし、である。たとえ仮のものであれ、それが正式な題名となるにはそれなりの理由がなければならない。そして、その理由の背後にはひとつの発見があった。そして、この発見によって、『8½』という作品はフェリーニフィルモグラフィーの特異な一本を示すことになる。なぜ特異な作品なのか。

 

3)『寄席の脚光』から『甘い生活』まで

 

』、あるいはフェリーニの8.5本目が、そのフィルモグラフィーの特異な点を示すとはどういうことか。まずは、それまでの作品で何が描かれていたか思い出しておこう。

 

1950年フェリーニアルベルト・ラットゥアーダと共同監督で『寄席の脚光』を発表。ここで描かれたのはヴァリエタと呼ばれる大衆演芸の世界だ。1952年ミケランジェロ・アントニオーニの代理として『白い酋長』を単独で監督。これが実質的な監督デビュー。取り上げたのは「フォトロマンツォ」と呼ばれる写真に吹き出しを添えたイタリア独自の読み物だ。1953年『青春群像』フェリーニ自身の生まれ故郷リミニを舞台にした青春群像であると同時に、故郷との決別を描いた映画でもある。1954年『道』フェリーニアカデミー外国語映画賞を獲得、その名声を世界的なものとする。描かれたのは、各地を放浪する大道芸人ザンパノとジェルソミーナたちの世界。1955年、興行的には失敗に終わった『崖』を発表。原題は Il bidone (ペテン師)。ここでは戦後に出没したペテン師たちの姿が描かれる。1957年カビリアの夜では、一転して大成功を収め、2度目のオスカーを受賞。描かれたのは売春宿廃止のメルリン法(1958年)が施工される直前の娼婦たちの姿だ。

 

こうして概観すると、『寄席の脚光』から『カビリアの夜』までの作品は-日本でもイタリアでもネオリアリズムの系譜に連なる作品と考えられてきたものだが-、イタリアの戦後復興期の「消えゆく現実」「忘れ去られようとしている現実」を取り上げていることがわかる。フェリーニの眼差しはリアリズムを装いながらも、常にリアルの背後にあるものに向けられているのだ。それは一見、現実に目を向けているように見える。しかし、よく見れば現実から逃れ去るものを追いかけている。実際、寄席の舞台は戦後次第に廃れつつあり、フォトロマンツォという戦後に生まれたメディアは映画と漫画の混交したものとして人々を空想の世界に誘い、故郷リミニの青春は過去のものであり、ジェルソミーナやザンパノのような大道芸人の姿は次第に見かけられなくなっており、あのペテン師たちが跋扈した混乱の時代は過ぎ去ろうとしていて、地方からローマにやって来たカビリアのような娼婦たちが住んでいたボルガータと呼ばれる貧民街(カビリアが住んでいた4角形の家を思い出そう)には、やがて立派な集合住宅が建てられてゆくのだ(それがまさに建てられようとするシーンが『甘い生活』の冒頭シーンに確認することができるだろう)。

 

確認しておこう。フェリーニは、ネオリアリズムの系譜に連なるように考えられてきた。しかし、同時に彼は、密かな反発を企ていたのだ。その反発が意識的なものとして表明されたのは、チェーザレ・ザヴァッティーニの企画した『街の恋 (Amore in città) 』(1958年)でのことだ。ここでフェリーニは『結婚相談所 (Agenzia matrimoniale) 』というエピソードを担当するのだが、この企画はもともとネオリアリズムの実験として考えられ、6人の映画監督(M.アントニオーニ、A.ラットゥアーダ、F.フェリーニ、C.リッツァーニ、F.ムセッリ、D.リージ)が、素人を起用し、彼らが実際に生活している現実を捉える試みだった。しかしフェリーニは、この実験に同調するようにみせかけながら、実際には「真実を装った」ストーリーを語ってみせる。実際、フェリーニとT.ピネッリが書き上げた脚本に「現実のできごとから取られた」ものはなにひとつなく、起用したのも素人ではなく若いプロの俳優だったし、その映像は現実からカフカ的な迷宮世界へと誘うものだったのだ。

 

こうして見てくると、ここまでのフェリーニはその眼差しをリアルな現在の向こう側に向けていたといえるだろう。それは現実の背後へと消えゆくものの気配をとらえ、ネオリアリズムが見つめようとした市井の人々よりも、さらに社会の周辺に潜んでいる存在を浮き上がらせてきた。そして、この眼差しを、高度経済成長のまっただなかにあるローマに向けたのが1960年の『甘い生活』なのだ。もちろんフェリーニが誰の目にも見える現実を描き出すことはない。むしろ、その背後に広がる闇の世界を点描しようする。実際、この作品に一貫したストーリーはない。全編を通してマストロヤンニの演じるジャーナリストを主人公=語り部としながらも、作品の冒頭とラストに空飛ぶキリスト像のプロローグと怪魚のエピローグが対照的に配置され、独立した7つのエピソード(1. ナイトクラブでのマッダレーナとの逢瀬、2. ハリウッド映画スターのシルヴィアとの危うい一夜、3.偽りの奇跡、4.シュタイナーとの関係〔これはさらに「再会」、「パーティ」、「殺戮」の3部からなる〕、5. 父の訪問、6.貴族のパーティ、7.乱痴気パーティ)が展開し、エピソードの幕間劇としてマルチェッロとその恋人エンマとの関係が挿入される。

 

そんな構成を持つ『甘い生活』の、ひとつひとつのエピソードを見てみれるならば、それぞれまだ日のあるうちに始まり、夜のうちに物語が展開し、明け方に終わることになる。そんなスタイルから『甘い生活』は「夜の日記」と呼ばれることになる。ぼくたち観客は(そしておそらくは当時の観客もまた)、そんな「夜の日記」を通して、昼間見ている現実からは思いがけない物語へと誘われてゆくのだ。夜とはある意味スキャンダラスなものだ。実際、当時のイタリアではこの作品は現代社会の裏側を描いたスキャンダラスな作品として評判となり(とりわけラストシーンの乱痴気パーティでストリップシーンが見られるという評判に多くの人々が劇場に殺到した様子が、後にP.ジェルミの『イタリア式離婚狂想曲』で取り上げられている)、イタリア国内でも大ヒットし、国外でもカンヌ映画祭パルムドールを受賞するなど、フェリーニの名前を不動のものとすることになる。そのキャリアは、『甘い生活』までの7.5本を通して、ひとつの頂点に達したのである。

 

4)『甘い生活』の成功と中年男の危機

 

ここでようやく、ぼくたちは『』という作品について語ることができる地平にたどり着いたことになる。というのもこの作品のテーマは、それまでの7.5本によって頂点に達した映画監督が、次の8.5本目の作品にいかにして立ち向かうかというものだからだ。『』という作品は、『甘い生活』によって国際的な名声を得たフェリーニという映画監督の状況そのものから生まれた作品なのである。では『甘い生活』の後の状況とはいかなるものだったのか。

 

それを考えるため、ひとつには、それまでフェリーニが撮ってきた作品の主題を考えなければならないだろう。見てきたように、それまでのフェリーニは、ネオリアリズムを装いながらも、リアルの背後に消えゆくものを追いかけてきた。それを消えゆく過去との決別と捉えてみよう。しかし、『甘い生活』に決別するべき過去はない。過去に向けられていたフェリーニの視線は、今、目の前の現実に向けられ、その眼差しは現実の背後にあるものを捉えようとしている。それが「夜の日記」ということだ。では、かくも見事に「夜の日記」を描き切った映画監督は、次の作品でいったい何を撮ればよいのだろうか。

 

もうひとつは、当時のフェリーニの身の回りに起こった変化を考えなければならない。『甘い生活』の成功は彼自身の予想を超えた。しかも同じ1960年には、アントニオーニが『情事』を、ヴィスコンティが『若者のすべて』を発表し、どちらも世界的な評価を受けている。フェリーニの成功は、アントニオーニやヴィスコンティと並んで、イタリア映画の再生が語られるなかでの成功でもあったのだ。当時は、世界的に作家主義の季節でもあった。フランスのヌーベルバーグの映画理論「カメラ=万年筆」が国際的に取り上げられ、娯楽作品を撮る職人という評価だった映画監督が、この理論によってカリスマ的な作家に祭り上げられ、ほとんど知識人のように扱われるようになっていたのだ。

 

そんな状況の変化のなか、フェリーニは40歳になっていた。もはや若くはないが、だからといってまだまだ老いぼれる歳でもない。かつてほどのエネルギーはないが、だからといって円熟の境地はまだまだ遠い。そんななかで『甘い生活』の国際的な成功は、彼をカリスマ映画作家として祭り上げられた。そこにあるのは賞賛だけではない。嫉妬もまたうずまいていたのである。こうした難しい時期にフェリーニは、プロデューサーのカルロ・リッツォーリとともに独自の映画制作会社フェデリッツ社を設立するのだが、この会社についてのインタビューのなかで、こんなふうに語るのである。

 

体力的な消耗、精神的な危機、そして想像力の枯渇。ようするに、未来がそんなふうに終末論的なものだと考えると、これほどまでに殺人的な生活をしないですむ方法を見つけなければならなかった。経済的にももちこたえることができ、自分の好きな仕事を続けられ、同時に、あまりにも重い責任を回避できる方法をね。

(トゥッリオ・ケジチ『フェリーニ、映画と人生』p.339 )

 

40歳を迎えたフェリーニの感じていた「体力的な消耗、精神的な危機、想像力の枯渇」。『甘い生活』の成功とともにやってきた中年の男の危機。実はこれこそが、その名の通り8.5本目の作品である次回作『』の出発点となるのだが、そうなる前に、フェリーニはある人物と出会わなければならない。ユング派の精神分析医エルネスト・ベルンハルトである。

 

5)ユング心理学と夢という寓話の発見

 

実のところ、フェリーニ精神分析医にかかるのはベルンハルトが初めてではない。『道』の撮影が終わろうとするころ、突如、激しい虚脱状態に襲われフロイト派の分析医が呼ばれたことがあったのだ。しかし、この時の治療は長く続かない。すぐに治療から逃げ出してしまったのだ(前掲書 p251)。

 

しかし、フェリーニユング派の分析医ベルンハルトから逃げ出すことはない。その関係は精神分析医が亡くなるまで続くのだ。それにもましてこの出会いが重要なのは、フェリーニユング心理学を通して夢やシンボルの意味を発見したという点にある。この分析医の勧めにしたがって、フェリーニは夜に見る夢をノートに描き留めるようになる。後に『夢の本』として出版されるそのノートは、その後のフェリーニの作品の着想の源泉となってゆくのだ。それにしても、われらが映画監督にとって、いったい夢とはなんなのか。あるインタビューでフェリーニ自身が語っている言葉を聞いてみよう。

 

夢とは、わたしたちが自分自身に語って聞かせる寓話です。それは小さくて大きな神話として、わたしたちの理解を助けてくれます。もちろん夢には昼間の自分の行いを、ただちに、そして総悟もずっと、変えてくれるような助けをもとめてはなりません。そして、夜のショーを見る快楽にすっかり身を任せるようなこともあってはならないのです。常習的な夢想家は、昼間はもろく、夢の移ろいやすさにかまけて、なにも成し遂げることなく過ごしてしまいます。ただ夢見るためによるを待つだけの生活にはまりこんでしまうかもしれないのです。そうなってしまうと、夢のイメージはなんの役にもたちません。

(ケジチ前掲書 p.355 )

 

ケジチは、この夢について言葉にプラグマティズムを読み取っている。たしかに、フェリーニは夢のイメージを、みずからの映画作りのなかに大いに役立てるからだ。しかし、ぼくが読み取りたいのは、むしろ夢を「わたしたちが自分自身に語って聞かせる寓話」であり、「小さくて大きな神話として、わたしたちの理解を助けてくれる」という部分だ。寓話にしても神話にしても、それはひとつの物語だ。そして、ぼくたちは現実や世界を、この物語を通してでないなら、どうやって理解することなどができるのだろうか。

 

そもそもフェリーニは、リアリズムやましてやドキュメンタリーのように、それによって現実を捉えることができると自負するような形式を信じてはいない。むしろ現実とは、寓話によってはじめて接近可能になるのだと思っていたはずだ。そうでなければ、どうして『道』や『甘い生活』のような作品を撮ることができたというのか。『カビリアの夜』の娼婦たちの悲しくも力強い生き様にしても、『結婚案内所』の迷宮にしても、『甘い生活』における「夜の日記」にしても、それが心に響くのだとすれば、そこにリアリズムがあるからでも、ドキュメンタリーだからでもなく、力強く、物悲し、悲劇できでありながら、美しい、さまざまな形容詞を混在させることが可能な寓話(あるいは神話)であるからにほかならない。だとすれば、フェリーニにとって夢とは、寓話や神話の延長において発見されたものであり、映画という物語にさらなる可能性を開くものだったのではないだろうか。

 

フェリーニにとっての夢見ることとは、映画作りのプラグマティズムなのではない。むしろ、映画という物語に新たな可能性を開くものであり、それはぼくたちの現実認識に、無意識的なものまでをも射程におさめることを可能にする深みをあたえてくれるものだったはずである。

 

(続く)

  

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