雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

13日の金曜日に『8½』を語る(2)

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6)40歳のチャップリン

 

それは1961年のある日のことだったという。次回作の構想を練っていたフェリーニは、シエナ近郊の温泉地キャンチャーノ・テルメにて『』となる作品のヒントを得る。そのとき彼の脳裏に浮かんだあらすじを、ケジチは次のように伝えている。

 

どこにでもいそうな40歳の男が、仕事を中断し、湯治に来ている。泥と蒸気の煉獄のような場所で、自分の問題を考え直し、他人の意見を考慮し、妻と愛人から次々と訪問されるなか、結局のところ仕事の問題から離れることができない。この男はいったい誰なのか、どんな教育を受けてきたのか、人生の半ばを終え、残りの半分を生きる覚悟をしなければならないとき、何を考えているのか。少しは幸せになる希望があるのか。自分の運命を変えることができるのか。自分を取り巻く世界を変えることができるのか。そしてなによりも、自分自身を変えることができるのか。

(ケジチ前掲書 p368 )

 

そんなフェリーニの発想の背後にあるのは、ケジチによれば、サイレントの短編チャップリンの霊泉 (The cure)』(1917)だ。ここで28歳のチャップリンが演じる主人公は、いつもの浮浪者ではなくちょっとしたブルジョワだこざっぱりした服装ながら、いつもの道化でいられるのは、アル中という設定だからだ。

 

この短編は YouTube に映像があるのでここに挙げておこう。


Charlie Chaplin "The Cure" (Charlot fait une cure ...

 

どうだろう。チャップリンはいつものような道化ぶり。足をもたつかせながら登場すると、やってきた湯治場でドタバタを繰り返し、美しいエドナ(エドナ・パーヴァイアンス)に一目惚れ、さて恋の顛末やいかに。それが『霊泉』のストーリーラインだ。この湯治場の設定そのままに、主人公を40歳のチャップリンに演じさせるとどうなるか。それがフェリーニの『』の出発点だったという。

 

しかし、さすがにチャップリン本人には頼めない。当時は72歳だったということもあり、40歳の主人公を演じるには無理がある。そこで候補にあがったのが当時54歳のローレンス・オリヴィエだ。しかしフェリーニは、この名優に気後れしてしまう。結局のところ、『甘い生活』ですっかり気心が通じ合っていたマストロヤンニが採用される。40歳に3年ばかり足りないものの、ほとんど設定通りだったのだ。それでもフェリーニが満足していたわけではない。自分が求めるのは、もっと痩せていて、風変わりで、ほとんど悪人のような人物なのだと、マストロヤンニの髪を白く染められ、生え際を後退させ、メガネをかけさせる。実のところフェリーニは主人公について、まだ明確なイメージをつかんではいなかったのだ。

 

一方、そのほかのキャストは次第に固まってゆく。『霊泉』のマドンナを演じたのは、チャップリンと公私ともに深い関係にあったエドナ・パーヴァイアンスだった。『』にもエドナに相当するマドンナが登場する。当時キャリアの絶頂期を迎えていたクラウディア・カルディナーレだ。なにしろ『』の撮影と並行して、ヴィスコンティの『山猫』を撮っていたというのだから、その人気ぶりがうかがえる。そして『霊泉』でパーヴァイスの演じるマドンナが実名でエドナと呼ばれたように、カルディナーレの役名もクラウディアと呼ばれることになる。このことは一見、チャップリンの作品にならったように見えるが、時代が違うことはおさえておこう。サイレント時代のマドンナは、その容姿だけを映画に貸し与えるが、トーキーになると声も必要になるわけだ。じつはカルディナーレはチュニジア生まれで、イタリア語は母国語ではない。そのため、それまでの作品ではその声は吹き替えられてきた。しかし、『』では初めてそのハスキーヴォイスを披露することになる。

 

クラウディア以外にも、『』では俳優の実名がそのまま役名として用いられている。霊媒師ロッセッラを演じたのは舞台女優のロッセッラ・フォークだし、老いを隠せないフランス人女優マデリーンを演じたのもマデリーン・ルボー(『カサブランカ』でダークボガードのリックに振られるイヴォンヌ役が有名)だ。けれども、おそらくここにフェリーニの特別な意図を読み取る必要はない。むしろ、クラウディアを初めとする何人かの登場人物が、演じる俳優の実名で呼ばれた理由は、映画のタイトルが「」と呼ばれたのと同じなのではないだろうか。これから撮る作品は、まだ内容が決まらないときにはただ次回作と呼ばれる。フェリーニはそれを「8.5本目」と呼んでいたわけだが、登場人物の名前も同じなのだろう。映画の内容がまだはっきりと決まらないうちに俳優たちが呼び集められたと考えると、しっくりくるのではないだろうか。実際、『』という映画はやがて映画が未だ到来していない内容を求める映画となり、その登場人物も未だ与えられない役柄を求め続けることになるのだ。

 

考えてみれば、固有名詞や数字というものは、言語のなかでも特権的な機能が与えられている。ほかの名詞が、ある種の内容を示すものであるのに対して、名前や数は、はっきりと何かを指し示すながら、示すものの内容を明確にすることはない。ただ数字を挙げてみても、それが何の数字がわからなければ意味を持たなない(もちろん日常言語を離れた数学の世界は別だ)。人の名前も同じで、その名を呼んでみても返事をする相手がいなければ虚しく響くだけではないか。じっさいぼくは、大学のイタリア語の教室でフェリーニという名前を口にしときの虚しさを味わったことがある。それは、「あのフェリーニ」と言ったとき「フェラーリなら知ってますよ」と返されてしまう虚しさだ。もちろんフェラーリも固有名詞だが、人が違うし、作ったものが違う。だが、重要なのはひとたび数字や固有名詞が発せられた時、ぼくたちは自然にそれが示すはずの内容を見つけようとしてしまうことなのだ。

 

あるいは、逆の事態も起こる。内容のほうがやって来て、はじめてその名前を知るということだってある。それが『甘い生活』で起こったことだ。その出発点には『都会のモラルド』という企画があった。モラルドとは、『青春群像 (I vitelloni )』の「のらくらものたち(i vitelloni) 」のなかで、ただひとり故郷を離れて都会へ向かった若者の名前だ。この映画の続編を構想していたフェリーニは、やがて、かつてモラルドを演じたフランコインテルレンギではなく、マルチェッロ・マストロヤンニを起用することになる。このマストロヤンニという俳優こそが、『甘い生活』にその内実を与えたと言ってもよいだろう。だから主人公はモラルドではなく、マルチェッロと呼ばれたのだ。少なくともそう考えると合点がゆく。『甘い生活』という作品は、マルチェッロ・マストロヤンニがあってはじめて成立した映画でもあるというわけだ。

 

しかし、『』では、すでにマストロヤンニが選ばれている。ところが彼が演じるべき主人公が誰なのか、いったいどういう人物なのかがまだ決まっていない。40歳のチャップリンが演じるような人物だということはわかっている。仕事から離れ、温泉地に湯治に来ているのだが、その仕事とはいったい何の仕事なのか。彼はなぜ、なにを悩んでいるのか。舞台や他の登場人物の細かなイメージだけはできているのだが、フェリーニは肝心の主人公をまだつかめていなかったのである。

 

(続く)

  

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