雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

13日の金曜日に『8½』を語る(3)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/it/3/3c/Otto_e_mezzo_titolo.jpg

7)「それはわたしだ」

 

こうして「8.5本目」の作品のために、スタッフと俳優が集められ、映画の断片的で混乱したイメージが形成されてゆく。頭のなかでは明確な作品をつかんだつもりのフェリーニは、そのアイデアを聞いた盟友トゥッリオ・ピネッリや、『甘い生活』のときには乗り気だったエンニオ・フライアーノに話して聞かせる。しかし、ふたりともその内容に懐疑的だった。フライアーノはこう言ったという。

 

いったいどうやったら、一人の男の思考や、彼が空想するイメージや、彼の見る夢をフィルムで捉えることができるっていうんだ!(8½ - Wikipedia

 

しかし、フェリーニがやろうとしているのはまさに、フライアーノのが「どうやったらできるのか」と問うたことを映像化することだった。まさに主人公の頭のなかにある「思考」や「イメージ」や「夢」をフィルムに捉えようとしていたのである。『8½』の構想中に、フェリーニはオムニバス映画のなかの一編を撮らないかと誘われる。1962年に公開された『ボッカチオ ’70』の「アントニオ博士の誘惑」というエピソードだ。『甘い生活』でシルヴィアを演じたアニタ・エクバーグが、巨大な広告のなかから外に出て、ローマの街を歩き回り、その巨大な美女に道徳家のアントニオ氏が翻弄されるというストーリー。ここに、「思考」「イメージ」「夢」をフィルムに捉えようとするフェリーニの意欲を垣間見ることができるだろう。しかし作品の評判はかんばしくない。カリスマ映画作家に訪れた「創造力の枯渇」が取り沙汰されることになる。『8½』 の撮影が始まったのは、そんな中のことであった。

 

スタッフやキャストが集められ、セットが建てられ、衣装の選定が始まる。しかし、フェリーニはあいかわらず、主人公が誰なのか、わからないままだ。とうぜんながら現場は混乱する。「今回のフェリーニは、本当になにをしたいのかわからない」という状況だったというのだ。フェリーニに撮影の準備を進めながら、なんどもこう繰り返したという。

 

わたしは、自分がまるで切符を売ってしまった鉄道員のように感じているのです。旅行者たちを整列させ、カバンを荷物棚にしまったところで、こう自問します。「それにしても列車の車輪はどこにあるのだろうか?」

(前掲書 p.380) 

 

『8½』という映画は、まさに車輪のない列車のようなものだったのだ。そんな撮影所で、ある時フェリーニは自分のオフィスに閉じこもると、プロデューサーに撮影を断念することを伝える手紙を書き始めた。しかしちょうどその時、ドアがノックされスタッフのひとりの誕生パーティに呼び出される。拍手に迎えられたフェリーニは、じぶんがスタッフの生活を支えていることを痛感すると、中止を考えていたことを恥じ入ると、なんとか撮影を続けることを決意する。そんななか、誰かがこんな言葉を口にしたという。「主人公の職業は映画監督でもよくはないだろうか」。

 

40歳のチャップリンとは自分のことだったか。フェリーニが、誰の目にも自明になりつつあったこのことに気がついたとき、「8½」という列車はようやくその車輪を見いだすことになる。マストロヤンニの演じる主人公は映画監督となり、その名をもはやマルチェッロではなく、グイードと呼ばれることになる(イタリア語の Guidoが 動詞 guidare 〔導く〕の一人称単数形で「わたしは導く io guido」の意になるのは偶然ではないかもしれない)。それはほかならぬフェリーニ自身のことなのだ。彼の評伝を書いたケジチは言う。この映画が示してくれるのは、「それはわたしだ sono io 」と言う勇気なのだと。

 

8)失われたラストシーン

 

それにしても、フェリーニはなぜ、主人公が自分と同じ状況と置かれた映画監督だと気がつかなかったのだろうか。「それはわたしだ」と言うために、なぜ勇気が必要だったのだろうか。それを知るためには、『8½』という作品が、もともとはどのような作品として構想されていたかを考える必要があるだろう。

 

しばしばフェリーニは、『甘い生活』や『8½』をシナリオなしで撮影したと伝えられるが、それは間違いだ。実際には、『甘い生活』も『8½』も、トゥッリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネッロ・ロンディらと「鉄壁の脚本 iron-clad screenplay」を仕上げていたのだ。たしかに撮影中に設定やセリフを変更することはあったにしても、フェリーニは万全の準備をしていたのである(Peter Bondanella, The cinema of Federico Fellini, p.142)。

 

この「鉄壁の脚本」は、エイナウディ社から出版されている『四つの映画:青春群像、甘い生活、8½、魂のジュリエッタ』 (Quattro film : I vitelloni, La dolce vita, Otto e mezzo, Giulietta degli spiriti)で確認することができる。オリジナル脚本において『8½』のラストシーンは、実際の映画とは異なり、「列車の食堂車:屋内、夜」となっている。DVD『8½』の特典映像の「ザ・ロスト・エンディング L’ultima sequenza (The lost ending) 」には、このシーンが実際には撮影されながらも結局は使われることなく、そのフィルムは残念ながら失われてしまった経緯が、残されたスチルや撮影風景の写真と関係者へのインタビューを通して描かれているのだが、では、このラストシーンとはいったいどのようなものだったのか。

 

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『8½』のラストシーン、オリジナル脚本から再現すれば、おおよそ次のようなものになる。そこでは映画を断念した主人公のグイードが妻のルイーザと列車で撮影所を後にする場面が描かれている。夜の闇を走る列車。人影もまばらな食堂車で、ふたりが食事がサーブされるのを待っているとき、グイードがふと目をあげる。するとまわりには、自分が断念した映画の登場人物たちが座っているではないか。しかも、その誰もが静かに彼にむかって微笑みかけているのだ。その非現実的な光景にグイードは、なにかよくわからない深い感動を覚える。何かを口にしようとするのだが、うまく言葉にすることができない。次の瞬間、登場人物の亡霊は消え、食堂車はもとの姿に戻っている。しかしグイードは、混乱の中でなお、深く心を動かされたままでいる。そしてなんとか観客に向かって「なにか」を伝えようとするのだが、その何かはすでに遠ざかっており、忘れ去られ、もはやつかむことができない。スクリーンはゆっくりと暗くなり、夜の闇を進む列車の音だけが聞こえて来る(Quattro film, p.373) 。

 

どうだろうか。このラストシーンは、どこか禍々しいイメージにあふれている。それがたとえ、深い感動のうちに、遠ざかり、忘れ去られ、もはやつかむことができない「なにか」を伝えようとするものであれ、ここに語られるのはついに生まれることのなかった作品の亡霊なのだ。この、どこか宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思わせるようなイメージこそは、もしかするとフェリーニに、映画の主人公は「わたしだ」と言わせることを躊躇させたものではないのだろうか。

 

よく考えてみれば、フェリーニのそれまでの作品もまた、「遠ざかり、忘れ去られ、もはやつかむことができない《なにか》」を伝えようとしていた。『道』のジェルソミーナには、姉のローザの死の影がつきまとっていた。『崖』では経済復興が進む時代に生きるために犯罪に走らなければならない世界を思い返そうとする。その後、精神病院の女性患者を描く作品を構想するが断念、あの『カビリアの夜』を撮る。そのストーリーは、当時実際に起こった若い家政婦の殺人事件(「カステル・ガンドルフォの首なし殺人事件」p.279)から構想されたものなのだ。くわえて、妻のジュリエッタとの間には、生まれて一ヶ月たらずで亡くなった子供がいることも忘れてはなるまい(そんな亡霊たちは『魂のジュリエッタ』のなかでよりはっきりとしたイメージを与えられることになる)。フェリーニのまなざしは、いつもどこかで、そうした人生の影の部分へと注がれていたのだ。

 

『8½』という作品は、そうしたまなざしを持つ監督が生み出そうとする映画そのものへと向けられている。映画とは、撮影され、編集され、劇場で公開されてはじめてその生を持つことになる。しかし、すべての作品が生を持つとはかぎらない。企画の段階で潰れるものもあれば、ついには公開されることのないものもある。ひとつの作品が生まれる一方で、何本もの作品がついに生まれることなく消えてゆく。それは、ぼくたちのひとりひとりの背後に、生まれることなく消えていった存在があることに似ている。生というものは、その背後にいくつもの死をともなっているのだ。それが「遠ざかり、忘れ去られ、もはやつかむことができない」ものなのではなかったのか。

 

おそらくフェリーニが、『8½』の主人公を映画監督とすることを躊躇したのは、どこかに自分が追いかけているものに死の影があることを感じていたからなのだろう。だからこそ、「それはわたしだ」と決意するために、自分を追い詰め、最後の最後まですでにわかっている答えを求め続けるふりをしなければならなかったのかもしれない。それは、崖の上から遠くの地面を見下ろしながら、命がけの跳躍をするようなものだったのだ。しかし、一度決意すれば、あとは飛ぶだけだ。こうして『8½』という列車は、あの不吉なラストの食堂車のシーンへ向けて走り出す。しかし、動き始めたらこの列車は、フェリーニをまったく別の祝祭的な地平へと導くことになる。

 

) 固有名としてのフェデリコ・フェリーニ

 

この映画の時点で、フェリーニはまだ後期の作品を撮っていない。後期のみごとな作品群は、8½本目の跳躍によって生まれることになる。そしてその跳躍こそは、この作品自体において描かれているのだ。

その有名なラストシーンは、すべてのシーンを撮りあげた後で生まれたという。それはフェリーニは映画のための予告編から生まれる。サーカスの舞台のようなセットにすべての登場人物が現れ、手をつないで踊るこの予告編を撮ったとき(以下にYouTube 映像を置いておく。またこの予告編はDVDの特典映像でも見ることができる)、フェリーニはあのラストシーンを差し替えることを決意する。

 

人生は祝祭だ。いっしょに生きようじゃないか!

È una festa la vita: viviamola insieme! 

 

このセリフはオリジナル脚本には見られない。オリジナル脚本では、フェリーニ/グイードが撮ろうとする作品はついに生まれることなく、登場人物たちはあの不吉な列車に乗り込むことになる。それは、人生というものがその唯一の目的地として死に向かうことの暗示だ。しかし、主人公フェリーニ/グイードは、その死出の旅にある人々の沈黙の笑顔に、ある種の幸福を感じさせられる。そんなラストシーンまで撮りきったからこそ、フェリーニは、あの予告編を撮ったときに、もうひとつの可能性に気がついたのだ。だからこそ、不吉な死の淵を暗示するラストシーンを切り捨て、もうひとつのラストシーンを撮り直したのだろう。思い切って不吉な跳躍を試みたからこそ、フェリーニは、そこからふたたび祝祭的な生へと跳躍することができたのだ。『8½』のラストシーンは、自殺への跳躍のその瞬間に誕生した新たな跳躍だ。ここから彼の映画は「人生 la vita 」であり「なにか祝祭のようなもの una festa 」となる。それはフェデリコ・フェリーニの映画に新たな可能性を開くこと2重の跳躍だ。そして、そんな離れ業ができたのは、フェリーニがあのユング/ベルンハルトの夢のレッスンを通して、現実をただ見えるものだけでできたものではなく、夢やイメージをも含み持つような、なにか開かれた可能性の世界として捉えられるようになったからなのではないだろうか。

 

おそらくフェリーニの現実とは、来るべきものとついに来ることのないものの間に広がる地平なのだ。それは映画が撮れるか撮れないかという可能性にとどまる地平なのだが、だから創造の地平でもある。だから創造の現場はつねに混乱に満ちている。じっさいフライアーノはこの映画に「みごとなる混乱」というタイトルを考えたという。しかし、この混乱こそは、じつに人間的ではないか。それでもなんとか前に進もうとしたり、すべてを投げ出して諦めたくもなる。それが人間だ。そして、そんな混乱のなかでこそ、ぼくたちは夢を見る。そこでは可能性と不可能生のボーダーは消え、喜劇的で、寓話的で、象徴的な物語が展開する。フェリーニが描き出そうとしてのは、まさにそんな現実にほかならない。そして、それはフェリーニ自身の現実でもあるというわけだ。

 

だからこそ、映画冒頭のタイトルクレジットに「8½ di Federico Fellini」(フェデリコ・フェリーニの8½)とあるのは象徴的だ。それはフェリーニという固有名が、それまでの成功や失敗に閉じられることなく、この8½本目の作品を通してなおも、その名前の示す内実を展開させようとしていることを暗示している。そして実際この作品を、あの差し替えられたラストシーンまで見通すとき、そこにははっきりとこんなフェリーニのメッセージを感じ取れるのだと思う。

 

たとえどこに向かうかわからなくても

今を生きてあることを言祝ぎ

生命という祝祭を

ともに生き直そう

 

少なくとも、ぼくはそう受け取った。

みなさんにも、ぜひ、そんなメッセージを感じ取ってほしい。

 

では、Buona visione!

 


Fellini's 8 1/2 Original Italian Trailer - YouTube

 

 

8 1/2 愛蔵版 [DVD]

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フェリーニ 映画と人生

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The Cinema of Federico Fellini

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