雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

6月22日朝カル、ソフィア・ローレンのこと(1)

 土曜日に横浜でソフィア・ローレンのことを話してきた。このところイタリアの女優さんたちを取りあげ、その人生と映画を振り返っている。ジーナ・ロッロブリージダから始まり、クラウディア・カルディナーレシルヴァーナ・マンガノ、そしてアンナ・マニャーニ。こうなると、この人のことを取り上げないわけにはゆかない。

 カルディナーレ(1938)もそうだが、ローレン(1934)もまだご存命。生きている人の話はしたくない。とはいえ、ふたりともキャリアと人生の黄昏時にありなお輝いていらっしゃる。その輝きはどこから来るのか。それをとらえたい。そんな思いがあった。

 ローレンは自伝を二度出版している。1度目は彼女が45歳のときの『ソフィア・ローレン、生きて愛して』(1979年、邦訳は講談社より坂口智彰訳)。2度目は80歳のときイタリア語で出版した『Ieri oggi domani (昨日・今日・明日)』(2014年)。

 最初の自伝は評伝作家のA.E.ホッチナーが英語でインタビューしたものだ。生い立ち、家族のこと、人生の岐路を出演作品と重ねながら、父の死(1976年)と『特別な1日』(1977)への出演をそのクライマックスに置く。2番目の自伝は、ほぼ同じ前半に、人生の後半におけるさまざまな喜びと苦しみが語られる。80歳のソフィアが「昨日」を振り返り、孫たちのいる今日を見つめ、さらには「明日」へ向かう内容だ。

 そんな2冊を参考に、ローレンのことを追いかけてみた。映画にはさまざまな人間が関わってゆくけれど、カメラの前に立つ俳優がいなければはじまらない。アニメーションでさえ、動く絵の背後には必ず人間のモデルがいる。実写映画はなおさらだ。背景が壁だけでもかまわない。その前に生きた人間が立つだけで映画になる。誰だってちょっとした映画になるけれど、けれども誰だってソフィア・ローレンになれるわけではない。

 けれども自伝を読んでみれば、ただ美人だからスターになったのではない。小さい頃は色黒で背が高く、痩せぎすで「ストゥッツィカデンテイ(爪楊枝)」とバカにさえていたという。決して自分のことを美人だと思っていたわけではない。それでも、ナポリの美人コンテストで入賞して演劇学校に通い、ローマに出てミス・イタリア(1950年)に出場することになったのは、母親ロミルダの影響がある。

 ナポリ近郊のポッツォーリに生まれたロミルダ・ヴィッラーニ(1910-1991)は美しい人だった。1932年に《グレタ・ガルボ》コンテストに優勝し、アメリカでの芸能活動の道が開かれるのだが、家族の反対にあって断念。その2年後、ローマで知り合ったリッカルド・シコローネ(1907-1976)との間にソフィアが生まれる。ところが父リッカルドは、ソフィアを認知こそしたものの、ロミルダと結婚しようとしない。だから母親の名前はヴィッラーニ、ソフィアは父の性をもらってシコローネという。

 赤子のソフィアは父の家では邪魔者扱いで体調をくずす。ロミルダに乳がでないこtもあったのだろう。やむえず故郷のポッツォーリに帰り、そこで育てられることになる。ポッツォーリはナポリ湾の西の端にある。ナポリはイタリアでも有数の港であり、ポッツォーリには軍事工場もある。

 第二次世界大戦が始まると、まだ6歳のソフィアは激しい空襲を経験することになる。ポッツォーリが危険になると、親戚をたよってナポリに移る。そこも激しい空爆におそわれ、食料は乏しく、飢えに苦しめられ、1943年9月末には、ドイツ占領軍に対する住民の反乱「ナポリの4日間」を目の当たりにする。

 そして連合軍がやってくる。母親は、連合軍の兵士を相手にしてお酒を出す店をひらく。ピアノを弾き、歌を歌い、若い兵士たちがそこでうさをはらすわけだ。ソフィアはそんな中で育ったのだ。

 1949年、ソフィアは母の勧めでナポリの美人コンテストに出場し入賞する。母親は自分の夢を娘に託す。演劇学校に通わせ、そこでローマでの『クォ・ヴァディス』(1951年、マーヴィン・ルロイ監督)の撮影の話を知る。こうして母と娘はローマに出る。テヴェレ川のハリウッドと呼ばれたチネチッタで、ふたりはエキストラとして出演。そこからソフィアの芸能活動が始まることになる。

 ソフィアはローマでモデルやフォトロマンツォ(写真に吹き出しをつける読み物)の仕事をはじめる。最初は本名のシコローネを名乗っていたが、フォト・ロマンツォに出るようになると、芸名としてソフィア・ラッザロと名乗るようになる。死者も蘇らせるほどの美人だというのは、このラッザロの名前にかこつけたものなのだろう。

 多くの映画に端役で出演するようにもなる。ネット映画データーベース(IMDb)をみれば、最初の映画は『Cuori sul mare』(1950)とある。ジャック・セルナスが主人公で、ヒロインに『苦い米』のドリス・ダウリング、そして若いマルチェッロ・マストロヤンニが準主役で登場する海軍士官学校もの。残念ながらソフィアの出演シーンは一瞬でほとんど誰だかわからない。おそらくこれだと思うシーンを貼り付けておく。

 ソフィアはまだローレンではなくシコローネだったころ。クレジットもされていない。端役も端役なのだけど、のちにゴールデンカップルと呼ばれるマルチェッロ・マストロヤンニと同じ映画に出演したのが、この映画なのだ。

 もうひとつ興味深いのは、フェデリコ・フェリーニアルベルト・ラットゥアーダの共同監督作品『寄席の脚光』(1950)年にもソフィアの姿が見えること。やはり端役なのだけど、こちらは顔がはっきり判別できる。

 このときはソフィア・ラッザロと名乗っていたころなのだけど、ソフィア・ローレンフェリーニの映画に出演したのはこれが唯一となる。じつをいえば『甘い生活』の前に『アニータとの旅(Viaggio con Anita)』という企画があり、ソフィア・ローレンがキャスティングされていたというのだけど、残念ながらフェリーニがこの映画をとることはない。のちにマリオ・モニチェッリが映画化するのだけど、主演はゴーディ・ホーンとジャンカルロ・ジャンニーニ。邦題は『アニタと子猫と...』(1979年)。

filmarks.com

 ソフィア・ラッザロ(Sofia Lazzaro) がソフィア・ローレンSophia Loren)となったのは1953年の『Africa sotto i mari (海の底のアフリカ)』。映画の冒頭からみごとな水着姿を披露して、水中を魚のように泳いで見せるのだが、じつは契約をしたときは泳げなかったという。ポッツォーリは港町だけど、だからといって誰もが泳げるわけではない。それでも母親が泳ぎはあと、契約が先と押し切り、泳げないままに撮影に臨んだのだという。それでも映画のなかではみごとな泳ぎを博して、ダイビングまでしてみせるのだから、努力する才能があったのだ。彼女はそうやって女優になってゆくのだ。 

 ここからローレンの本格的なキャリアが始まる。続く作品はオペラの映画化『アイーダ』。当初はジーナ・ロッロブジージダが予定されていたのだが、レナータ・テバルディによる吹き替えを嫌って降板、ローレンにおはちがまわってきたというわけだ。ローレンはもともと色黒であることを恥じていたのだけど、ここではさらに黒く化粧してアイーダを演じる。それだけではない。レナータ・テバルディのレコードをしっかり聴き込んで、口の動きを歌に合わせたという。ただ美しいだけではないのがローレンだということなのだろう。


www.youtube.com

1953年にはローレンがクレジットされた映画が、さらに3本公開されている。そのなかのひとつがマウロ・ボロンニーニの監督デビュー作『Ci troviamo in Galleria』。未公開作品なのが残念なくらいおもしろい。YouTube で観たのだが、少し意地悪だけど根の優しい踊り子を演じるローレン、主役でこそないものの魅力たっぷりだ。

hgkmsn.hatenablog.com

その翌年の1954年には、アレッサンドロ・ブラゼッティの『Paccato che sia una canaglia』でマルチェッロ・マストロヤンニヴィットリオ・デ・シーカと共演。デ・シーカ演じる泥棒教授の娘を好演し、マストロヤンニ・デ=シーカ・ローレンの黄金のトリオが生まれることになる。なにしろ三人ともナポリ的な心性の持ち主。息がぴったりというわけだ。

hgkmsn.hatenablog.com

この続きも書きたいのだけど、また今度。『特別な1日』のことなど書いておきたいのだけれど、いろいろありすぎて今日は時間切れ。

 

それでも以下、備忘のためにローレン映画のメモを貼っておくことにする。

filmarks.com

filmarks.com

filmarks.com

filmarks.com

filmarks.com

hgkmsn.hatenablog.com

filmarks.com

filmarks.com

filmarks.com

filmarks.com