雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

クエスティ『Arcana』(1972)短評

 備忘のため、以下に『Arcana』についてツイートしたものをまとめておく。

 

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 ジュリオ・クエスティ(Giulio Questi, 1924 – 2014)の最後の長編映画。ひさしぶりに映画を見ながら興奮した。個人的には近年見た作品のトップクラス。ルチア・ボゼーとティーナ・オーモンがハッとさせるような魅力を放つ。それだけでも見る価値ありだけど、それ以上のものがある。

 タイトル『Arcana』は「秘密」あるいは「謎」。形容詞 arcano の女性形。una cosa arcana ぐらいの意味。あるいは「謎の女」かもしれない。イタリア初の「パラノーマル映画」として売り出したかったそうなのだけど興行成績は散々で、すぐにお蔵入り。でもパラノーマルとエロスだけの映画じゃない。

 ジュリオ・クエスティは長編を三本しか撮ってない。その各々が新しいジャンル映画の誕生と死を告げるようだと言われるのだけれど、なるほど納得する。その最後の作品は、都会のウエスタンであり、パラノーマルを描くリアリズムであり、理性と神秘のあわいを体感させてくれるユニークな作品。

 ルチア・ボゼーが依代となるのはバジリカータからミラノに移り住んできた未亡人のマリア。夫をミラノの地下鉄工事の作業中の事故で亡くしたのだが、生活のために始めた占いが成功。人気の秘密は息子(マウリツィオ・デッリ・エスポジティ)との危うい絆。 

 そんなマリア/ボゼーのところに通ってくる美しい顧客マリーザ(ティーナ・オーモン)が、母と息子の関係に楔を打ち込んでゆけば、ぼくらが目撃するのはパラノーマルなオカルト、エロス、そしてインセスト。けれどもそれだけじゃない。そこに1970年代という時代の影が映り込んでくる。

 『フェリーニのローマ』がローマの地下鉄の話を描いたとすれば、こちらはミラノの地下鉄の労働者を描く。それもヴィスコンティの『若者のすべて』のような社会問題を背景に、地下鉄労働者をまるでネイティブ・インディアンのように描き出してみせるだから、まさに都会のウエスタン。

 ヴィスコンティの『若者のすべて』(1960)がヴェルガ的でテストーリ的な王道のリアリズムだとすれば、こちらはデマルティーノ的な民俗学カフカ的な迷宮のスパイスをたっぷり振りかけられたシンボリズム。それも、どこかホドロフスキーのようでもありながら、もっと知的で、実験的で、しかも繊細。

 エロスもあるし血も流れる。それよりも空を飛ぶロバや、人を罪に導く蛇、そして口から飛び出してくるカエルが、それぞろ不可能なユートピアブルジョワ的な家族に潜む禁断の欲望、そしてトラウマ的に吐き出される農村的な記憶と呼応する。そのすべてを夢のように体感させてくれるのがこの映画!

 いやはや、イタリア語やっててよかったと思う。さもなきゃこんなすごい映画には出会えなかった。

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 さらにアンドレア・スキャヴォーネの『L'occhio ribelle di Giulio Questi(ジュリオ・クエスティの反逆の眼差し)』から、この映画について、クエスティが語っている部分を訳しておこう。

魔術と占い(la magia e la divinazione)が入り混じりながら南部の田舎暮らしの記憶から救い出されてくるのは、それがマリア・デッレ・ローゼにとって彼女なりに巨大な産業都市のなかで生き延びる方法であり、自分と20代の息子の生活手段だからなのです。そして、その息子との本能的な関係において、すなわち激しい愛情において、この母親は自分の強さを見出すと同時に、己の錯誤をも知ることになります。息子のほうは、母親の助手にして魔術師の見習いとしての日々を生きながら、それだけに飽き足らず、あるとき本物の呪術(la formula vera)を欲します。彼が求めるのは現実を蹂躙できるような呪術、愛を生み出し、死を呼び寄せる呪文を含むものなのです。

原文はこちら。

La magia e la divinazione confusamente ricuperate nella memoria della campagna meridionale sono il suo modo di sopravvivere nella grande città industriale, il mezzo per mantenere se stessa e il figlio ventenne. È proprio nel rapporto istintuale col figlio, nel suo amore violento, che essa trova la forza dei suoi poteri e dei suoi inganni. Il figlio le vive accanto quale assistente e apprendista stregone […], ma non si accontenta di questo e a un certo punto vuole la formula vera, la formula che possa fare violenza sulla realtà,  la formula che contenga i termini della nascita dell’amore e della morte.