雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

DVD『by Giulio Questi』短評

Giulio Questi - By Giulio Questi (2 Dvd)

 昨晩観た『by GIULIO QUESTI』。思っていた以上におもしろい。YouTube で観た『Arcana』に感動していたのだけれど、この2枚組DVDには、今のぼくに響くものがある。

 クエスティは「ある種の映画はその年齢にならないと撮れない」と言っていたけれど、この映画はまさにそれ。同じように、この映画は10年前の僕には理解できなかったと思う。両親を送り、近しい人たちの葬儀に立ち会った今だから、響くものがあるのだ。

 たしかに、ある種の映画はその年齢にならないと価値がわからないのかもしれない。それは人生の経験だけじゃない。イタリア語がある程度わかるようになり、イタリアの歴史が少し見えてきたこともある。そうでなければ、クエスティの価値なんて珍紛漢紛だったろうと思う。

 以下、備忘のためのメモ。 

 

Disc1-1:Doctor Schizo e Mister Phrenic(ドクター・スキゾとミスター・フレニック)15分、2002年。音楽:モーツァルトカール・オルフ

 スキゾとフレニックはあわせてスキゾフレニック。ジキルとハイドをもじっているのだけれど、秀逸なのはクエスティがひとりで作っていること。デジタルカメラのおかげで、撮影隊を組まなくても撮れる。ひとりでもペンを持てば文字が書けるように、デジタルならばひとりで「ペン=カメラ」を使えるというわけ。この道具によって、クエスティによる新たな映像詩の冒険が始まる。

 

Disc1-2:Lettera da Salamanca (サラマンカからの手紙)21分、2002年。音楽:ベートーベン。

 真夜中の読書。ドアのベルが鳴る。扉を開けると見知らぬ男が名刺を差し出す。カヴァリエーレ・ナーダ・デ・ナーダ・イ・ナーダ。サラマンカ大学の神学部の教授と名乗る男は手紙をもってきたという。サラマンカ大学からの名誉博士号の招待状と勘違いする主人公。ところが手紙に書かれていたのは主人公の死亡年月日。しかもそれは数日前の日付。そのことを指摘すると、遡って実行可能だと答える男。主人公は信じられない。男は主人公を寝室に案内する。そこには白い葬儀シーツに包まれた遺体。驚いた主人公はなんとか男をやり過ごそうとするが、家の中には逃げ場もない、最後に逃げ込むのはシーツに包まれた自分自身の亡骸だった。

 

Disc1-3:Tatatatango(タタタタンゴ)14分、2003年。音楽:カルロス・ガルデル

 これは好きな一本。3つの仮面は、カーニバルのときに店で見かけたお面が気に入り、何に使うかわからないままに購入したものだという。その3つの仮面が、3つペルソナと1つの実態という三位一体のタンゴ、ジェラシーのドラマへと結びついてゆくわけだ。

 それしても、お面がそれぞれまるで生きているかのように、艶かしく、嫌らしく、痛々しい。イタリアならばそれは仮面喜劇の伝統なのだろうけれど、ぼくらの近くにも能面の伝統がある。世界のあらゆるところにあるペルソナの神秘に触れながら、この物語は突然に刑事もののジャンルを纏い、すぐさま神学を召喚する。なるほど捉えどころがない。じつにじつにクエスティらしい展開。拍手。

*参考までにペルソナについては、かつてこんな記事を書いてました。

hgkmsn.hatenablog.com

 

Disc1-4:Mysterium Noctis(夜の神秘)35分、2004分。音楽:アルバン・ベルクアルノルト・シェーンベルク

 停電の夜。外の世界も停電。暗闇の中での日記。「闇」はイタリア語で「レ・テーネブレ」( le tenebre)。どういうわけか複数形。その複数形の闇のどこかで、カサカサという音が聞こえてくる。虫だ。その名も「テーネブリオーネ」(il tenebrione)。学名は「Tenebrio molitor」。「ミールワーム」として知られる麦などの穀物を食べる害虫なのだが、家の主人がそれを見つけるのは本の中。

 べつの音も聞こえてくる。ビデを流す音。誰かいるのだ。どうやら女がいるらしい。失っていた食欲を取り戻し、豆の缶詰を開けてワインをあおって酔っ払った男は、女を追うのだが、捕まえたと思った瞬間に消えた彼女はローレン・バコール。闇の中の錯乱。

 ふと部屋の外から音が聞こえる。馬のギャロップジェット機の爆音、ゾウの鳴き声。そしてその時が突然に訪れる。光が戻ったのだ。窓の外から差し込む光。ドアのベルが鳴る。男が扉を開けると掃除機のセールスマン。正常な日常が戻ってくる。悪くない掃除機をかけながら男がつぶやく。それにしても、どこまでが正常なのか。

 

Disc1-5:Repressione in città(都市の抑圧)26分、2005年。音楽:モーツァルトバルトーク

 アパートの主人がバスの湯に浸かっている時、ふたりの男が家に忍び込んでくる。ガス会社から派遣された特別チームのエージェントだと名乗ると、主人の不正を糾弾する。ガス会社から磁石の装置で分子を盗んでいるというのだ。

 不条理な糾弾にとまどう主人。しかしエージェントたちは家の中で発見した装置を示して、会社から分子を横取りして自分の魂を豊かにしてたのだろうと言う。その証拠だと言って指差すのは、主人の書棚にならぶ詩集。もしかすると、自分でも詩を書いているのじゃなかろうなと詰め寄るエージョントたち。主人はそんなことはないと否定する。するとエージョントのひとりが、胸のポケットから取り出して見せるのが、主人が昔かいた一編の詩。それは小さい頃に書いたもので、そのとき一回だけだと抗弁するのだが、エージェントたちは許さない。

 こうして主人はエージェントから非情な拷問を受けることになる。そしてついに魂のありかをつきとめられ、違法な分子がまじっていないか持ち帰って調べると告げられる。主人は魂は持っていかないでくれと懇願するのだが、エージェントたちは取り合わない。それどころか、立ち去り際にこう告げるのだ。「おまえが詩のなかに探そうとする真実はまがいものだ。かわいそうだから、絶対的な真実を提供してあげよう。そいつはガスの火で《なんどもなんどもフライにされた/うんざりするほど繰り返された/正真正銘の》真実なのさ」。えージョンとはそう言うと、主人の片目をスプーンで掻き出し、それを手渡して、こう言うのだ。「真実とは目の奥底にやどる。しかし鏡で見ることはできない。片方の目でもう片方の目を覗き込むときに初めて見えるものなのだ」... 

 まさにバタイユの『眼球譚』。『殺しを呼ぶ卵』もそうだったけれど、眼球・卵・睾丸の3つがクエスティのオブセッションであり、神聖にして涜神的なイコンというわけだ。ぼくが連想したのはテリー・ギリアムの『ブラジル』なのだけれど、強烈さではクエスティのほうが勝る。まさにあなどりがたいベルガモの人。

 

Disc2-1:Vacanze con Alice(アリスとのヴァカンス)18分、2005年。音楽:モーリス・ラベル。

 ここでは初めてクエスティのほかの人物が登場する。10代の少女なのだが、ゲストスターとしてクレジットされるのは ポーリーン・マンシーニ(Pauline Mancini)。ちょっとググるとそれらしいきミュージシャンがヒットする。ただし本人かどうか定かではない。

 それにしても、キャロルのアリスにひかれ、アリスらしき本物の女の子を追いかけて森にはいってゆくクエスティのペドーフィロぶりと、それゆえに罰をうけて呻き声を上げるその姿は、痛ましさを通り越し、ほとんど不条理の領域。その不条理を横切ってゆくのが、アリス/ポーリーンが縄跳びのギャロップ。なるほど『アリスの不思議な国』のあるべき姿は、こうであるべきなのかもしれない。

 

Disc2-2:Visitors(訪問者たち)22分、2006年。音楽:バルトーク

 主人の家に夜訪ねてくるものたちがいる。1944−45年の内戦で殺された死者たちだ。その姿は実にリアルなのだが、よくみればクエスティ本人が死者たちの顔写真をおめんにして被っているだけ。しかし、そうだとわかってもなお、その写真の仮面に写っている死者の相貌は、まるで生きているかのように、カメラの中で不気味な姿をして歩き回る。わかっていてもゾッとしてしまう。クエスティのカメラのフィクションなのだけれど、このフィクションにはクエスティ自身の経験が下敷きになっているのだから、その意味でノンフィクションでもある。

 クエスティはベルガモの山岳地帯でパルチザンとして2つの冬を越している。銃撃戦を経験し、敵の掃討作戦にあいながら、山の中を逃げ回ったのだ。クエスティの戦ったベルガもでは、敵はドイツ軍ではなく、サロ共和国の黒シャツのファシストたちだった。はやい話、相手も同じイタリア人だったのだ。当時19歳だったクエスティは、この内戦の経験をおおいなる学びの場として成長することになる。生と死がとなりあわせにある戦場が学校だったというわけだ。

 後年、クエスティはそんなレジスタンスの経験を映画化するチャンスがあったのだが、尻込みしてしまったと言う。それが記憶であるうちはよい。それについて書くこともあった。しかし映画にするのは話が違ったというのだ。映像にすることは、記憶を歪曲すること(tramutare)であり、それは記憶の破壊だと思ったらしい。

 そうはいっても、そのときの記憶は最初の長編映画『情け無用のジャンゴ(Se sei vivo spara)』(1967)に反映されている。クエスティが味わったレジスタンスの残忍さ、死の感覚、ときには死に向かい、戦いへと駆り立てられる冒険心、そいうものが反映されているからこそ、このウエスタンは、ジャンルを脱構築するようなウエスタンとして特異なのであり、だからこそカルトムービーとなったのではないだろうか。

 そんなクエスティは、この短編でレジスタンスの記憶を映像化してみせる。それは、映像にできる時が来たというよりも、あの記憶とどう折り合いをつけるか、カメラで考えることができるようになったということなのだろう。デジタルカメラが、クエスティのペンの代わりになるとき、ようやくあの記憶を映像で語ることができるようになったというわけだ。

 いや、語るのではない。折り合いをつけるというほうがよいのかもしれない。亡霊たちはかつてクエスティにころさらたファシストたちなのだが、彼らは言う。自分たちはすでに死んでいるのだが、こうして帰ってくるのは、自分たちのことを覚えている者が生きているからだ、と。家族は全て死んだのだが、残っているのは俺を殺したお前だけなのだ、と。お前が死ねば、俺たちもようやく旅立つことができる。土曜日の夜に飛び立つ宇宙船がある。死んだファシストだけでなく、死んだパルチザンたちも乗せて、宇宙船は銀河の果てのブラックホールに向かう。そこで自分たちはようやく消えることができるのだという。

 さらに死者は続ける。そこで頼みがある。そういって差し出すのがクエスティの拳銃。彼らは言う。頼みを聞いてくれたら、お前も宇宙船に乗せてやる。そうすれば死んだ後で誰かの記憶のために彷徨うように、あの地獄の日々を避けることができる。

 死者のそんな言葉に、クエスティは酒をあおっては銃を見つめ、銃を見つけては酒をあおる。やがて面を上げて「宇宙船が旅立つのはいつだって?」と問うのだが、そのときにはすでに、目の前にいたはずの死者の姿はない。カメラのショットはテーブルに座り、酒とコップと拳銃を前にして、虚空を見つめる男をとらえる。続いて廊下からのショット。そして、あの銀河の果てのブラックホールを覆わせながらのブラックアウト。

 う〜ん、すごい。鳥肌が立ってしまった。