ベルトルッチの訃報が入った。77歳。しばらく前から病気に苦しんでいたという。この訃報に触れたマルコ・ベロッキオの公開書簡の言葉が、イタリアのネット記事に載っていたので、紹介したいと思う。
ベロッキオは1939年生まれの79歳。ベルトルッチよりも2歳年上で、デビュー作の『ポケットのなかの握り拳』(1965)で一気に注目を集めた人だ。ベルトルッチのデビューは『殺し』(1962)〕だから、キャリアとしては先輩。しかしデビュー作はベロッキオの作品ほど評判にならなかったようだ。
だからベロッキオには、年下だが先にデビューしていた映画監督が、やがて自分を追い抜き、世界的な名声を獲得してゆくことに複雑な感情を抱いていたことが、この記事の彼の言葉から伝わってくる。それにしてもなんと明け透けな言葉だろう。ここにはベロッキオの、決しておざなりではない、じつに真摯な言葉が読み取れるのではないだろうか。
では、以下ざっと翻訳したものです。
ベロッキオ、さらばベルトルッチ:
「私たちの世代は彼といっしょに少しばかり死を迎える」
「ベルトルッチの訃報が今朝早くに届きました。テレビニュースの帯に一報が流されたのです。おどろきはありませんでした。ただ仕事で外にいるので葬儀にゆけないことは残念です。もし葬儀が行われるとすればの話ですが…」
「ベルナルドと最後に会ったのは『1900年』修復版の上映パーティのときでした。苦しそうでしたが、プロジェクや企画をたくさん抱えていました。その彼が死んだ今、何と言えばよいのでしょうか。彼に言葉を捧げるのは嘘くさいことです。まさか天から見守ってくれているとは思いませんし、そもそも、どこかに神秘的で、この世のものとも、この世を超えたものともわからないところがあるなんて、わたしは信じていません。ですからこの書簡には、まだこの世にあって、彼のことを知り、その死を心から悼む人々とともに、少しばかり思うところを記すことにします。自然のなりゆきとして、今消えつつあり、その生き残りがますます少なくなっている世代、それがわたしたちの世代です。ベルナルドの死は、そんなわたしたちの死でもあります。《ゲームの終わり》が近づきつつあるその人生は、おそらく誰にとっても、喜劇(コンメディア)であると同時に、ドラマでも、悲劇でも、笑劇(ファルサ)でもあったのではないでしょうか…」
「わたしとベルトルッチはひどく違っていました。たがいの運命が交差したのは、遠い昔のこと(それは1962年に映画実験センターでわたしの卒業論文を見て、彼が褒めてくれたときのことです。その時の彼は、イギリス風の着こなしで、赤いトライアンフのオープンカーに乗ってましたっけ)。1番だったわたしは2番になります。ベルナルドに追い越されたのです。まず『暗殺のオペラ』で並ばれ、やがて『暗殺の森』と『ラストタンゴ・イン・パリ』で、彼は手の届かない、世界的な存在になってしまいます。そうやって追い抜かれたとき、わたしは彼に対して強い嫉妬を感じました。それは、相手を否定しながらも、ものすごく遠くまで行ってしまったすごさを認めることでもありました。やがて、すべてはなにごともなく落ち着きます。歩む道が違い、目的が違えば、結果も異なるというわけです...」
「わたしたちは穏やかに何度も再会しました。喧嘩をしなかったというわけではありませんが、パルマの出身者や、ピアチェンツァの出身者ならわかってくれると思います。最後の思い出は、病気にもかからわず、彼が確固として意思を持っていたことであり、その仕事ぶり、そしてもちろんクレア(ペプロー:ベルトルッチの妻)の愛情です。彼女は最後のときまで彼を勇気づけ、仕事が続けられるようにしていました。彼にとっても、仕事を再開する必要があったのです。他に何ができるというのでしょうか。残る力を振り絞って生きる続けるほかないではありませんか」
追記1:
ぼくが見つけた記事とは、少し違う内容の書かれた記事がこちらにありました。こちらはインタビュー形式なのですが、上記の公開書簡とほぼ同じ内容。時間ができたら、こちらも全訳してみたいと思います。内容は、かなりの部分で上に訳出したものに重なりますが、少し訳語も直したいものがチラホラありますから...
上の il messaggiero 紙の記事はこちらに紹介されてました。全体としては、よくまとまっているのではないでしょうか。
追記2:
Facebook のほうには、ストラーロの追悼の言葉を載せたので、ここにリンクを貼っておきます。ここね ↓
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