雲の中の散歩のように

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イタリア語スピーチコンテストをめぐって:動物とレプリカントの間で

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1 スピーチコンテスト

 土曜日は日伊協会主催のイタリア語スピーチコンテストに行ってきました。

 今年優勝したのは斎藤紀子さん。スピーチのタイトルは『La Roma che ho ritrovato a Damasco』。

 ダマスカスといえばシリアの有名な都市です。けれども、シリアは今や戦乱ですっかり荒れはててしまっていますよね。そんなシリアの歴史の街ダマスカスを、斎藤さんがかつて訪れたのは、イタリア語を学んでいたのがきっかけだったといいます。

 実際、イタリアに行ってイタリア語の学校に通うと、同じようにイタリア語を学びにやってきた、イタリア人以外の学生さんたちに出会うもの。斎藤さんは、そんなイタリアの学校でシリアからきた友人と出会い、その出会いから、ダマスカスを訪ねることになったというのです。そして、そこで出会った小さな優しさが、彼女の心を動かします。小さな男の子が、夜道を歩く彼女を、何も求めずに黙ってついてきてくれたのは、きっと自分を守ってくれたのだというという、そのイタリア語のスピーチは、言葉の向こう側にある確かな何ものかを、他ならぬその出会いのきっかけとなった言葉そのものの力によって、伝えてくれたのです。

 2位は福田桜子さんの「Che hai mangiato oggi?」。3位は芹澤なみきさんの「I colori della vita 」。おふたりとも、イタリアでの日常の経験を語ってくれたのですが、その切り口が独特でしたね。おふたりともイタリア語を身体的に生きているのがよく伝わってくる話ぶりでした。声の抑揚、表情、そして体全体の動きが、まるでイタリア語に憑依されているかのようなものになっているのが印象的でした。イタリアの響きが血となり肉となっているようでありながら、それでも日本語を母語とする者ならでは視点、しかもじつにパーソナルな感覚が、はっきりと伝わってきました。

 もちろん、ほかの出場者の方々も、それぞれに素晴らしい発表だったと思います。お世辞ではありません。もちろん、イタリア語のネイティブのようにはゆきませんし、聞き取りにくい部分だってなかったわけではない。アクセントの間違いもあったし、日本語のそれと似ているようでかなり違う母音《 U 》は、やはり難しいんだなと思ったりもしました。けれどもそれは些細なことで、それをあげつらうのは「揚げ足取り」であり、イタリア語を教える者の職業病。

 ぼくがすばらしいと思うのは、むしろ、それぞれのスピーチのなかに、「イタリア語を学ぶこと」の意義がはっきりと見出せたということ。それぞれのイタリア語のなかに、それぞれのイタリア的なものとの出会いが、しっかりと形をもって立ち上がってきたたことに、ぼくは今年も感動したのです。

2 スピーチとはなにか

 

 それにしてもこの「スピーチ」という言葉、なんとか他にうまい日本語にできないものでしょうか。「演説」というと政治家が街頭で通り過ぎる人々を前に話している感じだし、「説法」というと「説教」くさい。式典やパーティなどで、大勢を前にちょっといい話をするのは、やっぱりスピーチかもしれません。

 言語教育では、スピーチのように大勢を前にして話すことをモノローグと呼びます。誰か相手と言葉をやりとりをするのがダイアローグです。ダイアローグでは、「やあ元気?/元気、そっちは?/ぼちぼちね」のように、特的の言葉・コードを交換しながら、やりとりを継続させてゆくわけですが、簡単なやりとりも、イタリア語で5分のあいだ続けなければならないとなると、それなりに難しい。相手が友だちならまだしも、初めて会ったイタリア人を相手に5分間話すとなると、そこにはやはり、ある種の経験と言語技能が必要とされてくるわけです。

 一方のモノローグでは、やりとりをするのはではなく、1人だけで、ある程度まとまった内容を話さなければならなくなります。ダイアローグのように相手に助けてもらうわにはゆきません。しかも、ただ話し続けるだけではだめ。だって、みんな寝てしまいますからね。それなりに、きちんと話を聞いてもらえるように話さなければ、スピーチができとはいえないわけです。

 こうしたモノローグの技能のことを、おそらく日本では「弁論」と呼んだのだと思います。けれど、結婚式やパーティで、気の利いたことを話すことは「弁論」とは呼びません。あまりにも政治的で、論争的で、お祝いの場所では、ちょっと野暮にすぎるますよね。それでも、たとえば5分間にわたり、相手に関心を持ってもらいながら、それなりの内容を話す技術となると、やはりひとつの弁論術でしょうし、野暮を避けるのなら、話術と呼んでもよいのかもしれません。もちろん「話術」となると、誰かとやりとりをするときのようなダイアローグにも使えますから、ちょっとした内容を人前で話すようなモノローグは、英語から拝借した「スピーチ」という言葉が一番ぴたりとくるようです。

 そんなスピーチのポイントは、ひとりで、まとまった内容を、できるだけ関心を持ってもらえるように、わかりやすく話すことですね。ふつうは時間も限られています。イタリア語のスピーチコンテストの場合ですと5分、結婚式のスピーチを考えても、せいぜい10分ぐらい。それを超えるとコンテストの場合はベルがなり、結婚式だと顰蹙を買います。かつての学校では、朝礼や入学式、卒業式などで、いつまでもダラダラと話すえらい先生とか来賓の方とかおられましたが、あれはおそらく、かつての日本ではえらい人は長く話さなければならない(話してもかまわない)というコンセンサスがあったからなのでしょうね。今ではあんなことは許されません(そのはずですよね?)。

 

3 イタリア語を学ぶ目標

 

 うまくスピーチをすること。コンテストに出場して良い成績をとること。そうした目標に到達するには、じつは言葉の力を総合的に伸ばす必要があります。

 ちょっと考えればわかることですが、スピーチにはスピーチ原稿がつきものです。もちろん、原稿を見ずにスピーチするほうがよいのですが、見ないにしても原稿を書かなければ始まりません。妙な話ですが、スピーチするには、まずは書く力が必要になるわけです。実際、スピーチコンテストの一次審査は、書かれた原稿に基づいて行われます。きちんと書けていなければ、人前で話せないからです。

 この「書く」力というのは、言語教育において重視される4技能(「聞く」「話す」「読む」「書く」)のなかで、技術的にもっとも複雑なものです。そもそも言語の発達は、まずは「聞く」ことから始まり、やがて「話す」ことと「聞く」ことのやりとりに至ります。そんなやりとりの「声」を、文字にして記述するようになるには、おそらく文明的な飛躍があったはずです。この飛躍をやし遂げた文明から、文字の技術が伝播してゆき、やがてそれぞれの場所で、それぞれの文字にもとづく、それぞれの文化なるものが育ってゆくことになります。しかし、文字の文化を持った文明のなかでも、文字を「読む」ことができるのは限られた階層だったはずです。ましてやそれを「書く」ことができるのは、非常に特殊な少数の人々だったのではないでしょうか。

おっと、少し話がそれました。言いたかったのは、「書く」ことがいかに複雑で高度な技術かということです。この「書く」という技術がなければ、じつのところ、人前でうまくスピーチすることはできません。「話す」技術あるいはモノローグは、「書く」技術あるいはコンポジション(作文・構成)の力に、その多くを負っているのです。

 スピーチ原稿ができたら、それを実際のスピーチにしなければなりません。ただ言葉を声に出して読み上げればよいというわけではありません。声の強弱、抑揚、緩急をコントロールして、言いたいことが効果的に伝わるようにしなければならないわけです。語彙や文型や文章でしか過ぎないもの、つまり書かれたものを、声に出して、つまりスピーチとして、聴衆に聞いてもらうためには、「読む」ことを前提するのではなく、「聞く」ことを前提とする文や文章を作りことが求められますよね。そのためにも、書いては声に出して読み、読んでは書き直すという作業が必要になってきます。

 ようするにスピーチとはパフォーマンスなわけです。声のコントロールだけではなく、表情にも変化をもたせ、ときには身振りのような演劇的な要素さえ取り入れてゆく、身体的なパフォーマンス。それを古代の人々は雄弁の術(oratoria )と呼んだのですが、たしかにアントニウスのシーザー追悼演説のように、その術の政治的な効力は、一国の運命さえ左右することがあるわけですから、古の人々がこの術に秀でたひとに敬意を払ったのもうなづけます。もちろん歴史において、この雄弁の術を悪用する者もまた後を絶たなかったわけです。立て板に水のごとくベラベラ話をするやつを、おしゃべりとか「お風呂屋さん」(湯ばっかり、言うばっかり)とかよんで軽蔑したり、かつてのソフィストデマゴーグのように、雄弁の否定的な側面には、注意を払わなくてはなりません。

 いずれにしても、聞いてもらえるようなスピーチを目指すことは、少なくても言語教育の分野では、モノローグの能力を伸ばすことだと考えます。とりわけ「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つの言語技能のうちの、「話す」という技能の新しい側面として、いまとても注目されているのがスピーチなのです。というのも、これまで「話す」技能は、もっぱらダイアローグにおける「話す」技術(会話)が注目されてきたのです。会話ができることがコミュニケーション能力だというわけです。もちろんそれはそうなのですが、あるていでレベルが上がってきたら、あるていど量と質をともなった内容を伝えることが重要になってきます。それは広い意味でのコミュニケーションであり、ダイアローグになってゆくものだとしても、その前にモノローグとしての「話す」技術(スピーチ)がなければ、なにもはじまりません。高度のレベルのコミュニケーションでは、どうしてもモノローグが重要になってくるわけです。

 

4 ダイアローグとモノローグの間で

 こうして「話す」技能を、ダイアローグとモノローグのふたつに領域にわけてみるとき、スピーチの「話す」という技能の性質が明らかになってきます。たしかにスピーチはモノローグであり、会話のようなダイアローグとはちがいます。ちがうのですが、どんなスピーチだって相手があるという意味ではダイアローグです。そして、僕たちが生きる日常世界には、人間同士のやりとり、ダイアローグがあふれています。生活世界がダイアローグを前提にするなら、モノローグとは、その世界から離れてゆく運動です。どういうことか。生活世界の経験や、何らかのモノや、誰がしかのヒトとの出会いを記述するということは、それはダイアローグ的なやりとりから、モノローグ的な内容を析出し、それをひとつのまとまりのある文章へと立ち上げてゆくということにほかなりません。いわゆるスピーチ原稿です。

 この段階のスピーチとは、ダイアローグ的な世界からの分離です。なにしろ音声による「話のやりとり」の世界が、文字による「書かれたもの」という別の形に転換されて、取り出されたのですから。しかし、そんなスピーチ原稿は、じっさいのスピーチとして発声されることになります。このとき、分離された「書かれたもの」は、聴衆に向けて「話されるもの」へと再転換されてゆきます。ダイアローグから分離されたものを、ふたたびダイアローグの世界へと還元してやること。それがスピーチなのです。

 雄弁術、弁論術、あるいはスピーチとは、そういう意味で総合的な言語能力を必要とします。聴衆の前に立つのはたった1人、誰も助けてはくれません。だからこそ、経験と事前の準備がすべてです。原稿を「書き」、「書く」ために他の情報を「読み」、そうやって「書いた」ものを「読み」あげて、誰かに「聞いて」もらったなら、その意見を「聞いて」、直すべきところはまた「書き」なおさなければなりません。聴衆にうまく「聞いて」もらうため、問われるのは、語彙の選択、構文の構成、適切な表現、効果的な発音と発声、表情、身振り、立ち振る舞いなのですが、さらにその背後に、人間としての経験と経験に向かう真摯さと、それらを可能にしてくれた日常世界での生き方などがなければ、ぼくたちはそのスピーチを聞く気にはならないはずです。どんなに見事のスピーチだとしても、それが『ブレードランナー』のレプリカントの言葉だとしたら、ぼくたちはとても普通の意味での共感はできなくなってしまうのではないでしょうか。だとすれば、ダイアローグとモノローグの往復運動であるスピーチとは、言葉を知らない動物の叫びと、レプリカントの完璧な言語のはざままにあって、ぼくたちがぼくたちであることを、つまり人間が人間であることを、これまでも、これからも、すでに、つねに、ずっと、確認させてくれるもののひとつなのかもしれません。

 

5 いま、ここに、ふみとどまるために

 

 それにしても、いつのまにか弁論術が死語になってしまったどこかの列島とは違って、イタリア半島にはなお、あらゆるところでスピーチが競われているように思います。たとえばそれは、高等教育における口頭試験。そもそも筆記試験でさえ、正しい答えを書いたり選ぶ択一式ではなく、論述式のものが多いわけですから、ある程度まとまった内容を書くのはあたりまえであり、用意したものを、しっかりと口頭で伝える能力が、最終的には試験すべき力だという認識があるのだと思います。

 そうだとすれば、ぼくもまたこのスピーチの能力を、なんとか自分の授業に取り入れてみたいと思うわけです。思えばこれまで初級の授業では、つねに誰かとの「やりとり」を目標にしてきました。イタリア語のダイアローグの世界を目指してきたわけです。けれども今、ぼくらはそこから一歩でも先に踏み出すべき時に来ているのかもしれません。それもできるだけ早く踏み出さなければ、あの稚拙な隠蔽や、絶え難い開き直りという言語的な貧困が蔓延する国で、どんどん病みながら闇の奥へと落ちてゆく坂道を、それこそ不可逆的に、その底まで叩き落とされてしまうような気がしてならないのです。

 そう、今、ここに、ふみとどまるためには、少しでもまとまった内容を「伝える」力を目指さなければだめなのだと思います。そもそも、そっちのほうがずっと面白いし、時に感動的ですらある。問題は、どうやって弁論やスピーチを授業に取り込れるか、ということなのです。