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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

まだ読んでいないメルロ=ポンティと映画についての覚書

もろもろ 映画

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メルロ=ポンティはちゃんと読んでないのに気になる人です。その『知覚の哲学』は気になっているですが、まだちゃんと読んでません。このツイートをリツイートしたのは、そのうち読むための備忘ツイートです。

 

この知覚の哲学者が亡くなったのは1961年で、ぼくの生まれ年というのも、個人的には気になるところ。ポンティの生まれ年は1908年ということですが、だとすると、彼はヴィスコンティロッセリーニの2歳年下ということです。

 

ヴィスコンティロッセリーニのふたりは、イタリアネオレアリズモの代表的監督ですが、このふたりは映画がまだまだ見世物にすぎなかった時代に生まれ、やがて第7の芸術として認知されるころに映画を撮るようになり、その黄金時代に活躍しました。ロッセリーニは最後には映画に見切りつけ、あたらしい技術としてのテレビの世界に向かい、ヴィスコンティは最後まで映画にこだわり続け、失われた世界と時代を見つようとします。

 

このふたりの人生が、ある意味で映画史のドラマチックな世紀に対応しているのだとすれば、とうぜんながらメルロ=ポンティもその時代を生きて、知覚の哲学を考えていたわけです。そしてそこに、映画への言及があるというのは、当然のことように思えるのですが、それが上のツイートような内容だと、少々とまどってしまうわけです。

 

たとえば映画における「人気俳優に対する熱狂」とは、スターシステムのことなのでしょうが、これは今も続いていますよね。「ショットの変化によるセンセーショナルな効果、あるいは筋の急転、美しいシーンの挿入または気の利いた対話の挿入」なんて、今の映画ではあたりまえのように使われる技法ですが、それが「映画を惑わす」というのはどういうことなのか。さらに、これらの要素に惑わされた結果、映画は未だに完全な芸術作品を生み出せていないというのは、どういうことなのか。

 

ここで考えることはふたつ。ひとつは映画の技法の特質とは何か。もうひとつは、そもそも芸術とは何か。

 

ここは当然『知覚の現象学』を読むべきなのですが、手元にないので、一本補助線を引いておきます。

 

むかし少しかじったことのあるR.G.コリングウッドの芸術論です。

 

コリングウッドは『芸術の原理』において、芸術の歴史を魔術的芸術と擬似芸術の拮抗として構想しました。魔術的芸術とは、たとえば宗教のため、政治のために、感情を刺戟して、人々を動員するような働きを持つもの。擬似芸術とは、本格的な芸術を装いながらも、じつは人々を楽しませる娯楽として機能するものです。

 

このふたつの芸術の区分は、ルネッサンスの芸術を考えるとわかりやすいですね。カトリック教会をパトロンとして制作された芸術は、宗教に奉仕するかぎりで「魔術的芸術」にほかなりません。そして、ここで教会のために使えた同じ作家が、メディチ家のような世俗的なパトロンのために、ギリシャの神々を描いてみせるわけですが、これはたしかに「擬似芸術」となりますね。(あ、コリングウッドがこんなことを言っているのかどうか、確認してません。でも、たぶんそんなことを言っているのだと思います)。

 

この区分は、そのまま映画に当てはめることができます。魔術的芸術としての映画は、ロシア革命以降にソ連で発達した映画理論がそのまま当てはまりそうですし、ナチスドイツのリナ・リーフェンシュタールなんて、この系譜で考えられますよね。さらには、イタリアのネオネアリズモなんていうのも、実のところ魔術的芸術だったのかもしれません。なぜなら、明らかにそれは社会的な改革をめざす政治的理想のための芸術だったわけですから。

 

もちろん、ミケランジェロやレオナルドがそうであったように、エイゼンシュタインリーフェンシュタールも、たんなるプロパガンダ映画監督という枠組みを超える魅力があることはわすれてはなりません。同じことは、ヴィスコンティロッセリーニについても言えるでしょう。そのフィルモグラフィーは、とてもネオレアリズモ映画というレッテルがカバーできるものではないからです。

 

それでは擬似芸術としての映画はどうか。たんなる娯楽のための映画というのなら、これはもうハリウッド映画からはじまって星の数ほど上げらえるわけですが、イタリアではたとえばヴィットリオ・デ・シーカを考えてみればわかりやすいかもしれません。そもそも舞台の喜劇役者だったデ・シーカですから、2枚目半の映画俳優から映画監督に転身しても、基本的には娯楽映画を撮っていると自覚していたはずですが、その『自転車泥棒』や『ウンベルトD』などの作品は、あきらかに娯楽の枠をはみ出しているところがありますよね。

 

娯楽の枠をはみ出してしまうような映画は、もはや「擬似芸術」ではありません。あるいは、ロッセリーニの『十字架を持つ男 L’uomo dalla croce』(1943)やヴィスコンティの『妄執(郵便配達は2度ベルを鳴らす)』(1943)など、単なるプロパガンダ映画をはみ出してしまうような映画もまた「魔術芸術」ではありません。ここに姿をみせつつあるものは、ほかならぬ映画のための映画ですね。

 

そんな、映画のための映画をなんと呼べば良いのでしょうか。

 

そういえば、映画音楽で有名なエンニオ・モリコーネは、自分の作っている音楽はサントラではない。映画のための音楽と呼んでくれと言っていましたね。この「映画のための音楽」という表現でモリコーネが言いたかったのは、自分が書いているのはあくまでも音楽であり、それがたまたま、映画のためのもであったということなのです。さらに、音楽家としての彼が当初から目指しきたものが、ほかの何のためでもない音楽、つまりただ音楽のための音楽であるという自負もあるのです。

 

モリコーネは、この音楽のための音楽のことを「純粋音楽」と呼んでいます。それは、音楽という表現手段を極限まで極めてゆくような音楽です。どうでしょう。この「純粋音楽」とはまさに芸術としての音楽のことですね。

 

だとすれば、映画のための映画もまた「純粋映画」と呼ぶことができるのかもしれません。それは芸術としての映画ということです。

 

この芸術としての映画、あるいは「純粋映画」とは、映画という表現手段を極限まで極めてゆくような映画のことです。

 

R.G.コリングウッドもまた、魔術芸術でも擬似芸術でもない「芸術」を、やはり言語のような表現だと考えているわけです。コリングウッドの限界は、ある種の心的状況の「表出 expression」と捉えてしまったことなのかもしれません。

 

きっとこのあたりを B.クローチェは批判したのでしょうね。「表出、表現  espressione」とは、クローチェにとって、表出されたモノそれ自体であり、それ以前にあるものは無記のもの、あるいは未だ表現にならないものと考えるわけです。

 

クローチェにとって重要なのは、具体的な形をもった表現なのであって、それ以前にある心的状態は問題になりません。というか、問題にしてはならないと考えるわけです。考えるべきは、人間の精神的活動であり、その現れとしての表現になる。クローチェはそれをポエジア(制作、あるいは詩的活動)と呼ぶのですね。それは表出のための表出ですから、「純粋表出」ということになります。

 

話を戻しましょう。

 

メルロ=ポンティが「映画を惑わすもの」として批判しているのは、「人気俳優に対する熱狂や、ショットの変化によるセンセーショナルな効果、あるいは筋の急転、美しいシーンの挿入または気の利いた対話の挿入」ということでしたが、これは娯楽映画に特徴的なものであり、すると彼の批判の矛先は「擬似芸術」(あるいは場合によっては「魔術芸術」)に向けられているとことになるのではないでしょうか。そして、芸術としての映画を待望するメルロ=ポンティは、いったいどんな映画を「純粋映画」と考えているのか。彼の言う芸術としての映画とは、具体的にはどの作品なのでしょうか。

 

さあ、少しばかりドキドキしてきたかもしれないですね。

 

ともかくも、まずは、『知覚の哲学』を買わないと。

 

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)

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