雲の中の散歩のように

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ベロッキオ『夜のロケーション』短評

イタリア版のBDで鑑賞。23-55。字幕はなし。特典は短いバックステージ3本。

イタリア映画祭では「夜のロケーション」という邦題。わるくない。ただ原題の「Esterno notte」はシナリオの用語で「屋外、夜」の意。ここで意識される「夜」は、アルド・モーロの誘拐殺害事件がおきた1978年の時代のこと。テロの時代。政府や経済界の要人が誘拐されたり、銃で膝を打たれたりが日常茶飯事。学生たちは革命を叫び、人々はそうした状況に慣れっこになっていた。しかしアルド・モーロ元首相の誘拐殺害は雰囲気を一変させる。テロは過激化し、当局の容疑者を次々と逮捕。まさに夜の時代の到来。

ベロッキオには、20年前に『Buongorno, notte. (邦題:夜よ、こんにちは)』(2003)という作品があるのを思い出しておこう。エミリー・ディキンソンの詩「Buongiorno, mezzanotte(Good morning Midnight)」からタイトルを借用し、「鉛の時代」つまり「夜」がやってきたことを告げると、モーロの監禁されたアパートの一室と誘拐犯たちの姿にカメラを向ける。そんな作品はしたがって「interno notte」(屋内、夜)の映画であった。だとすれば今回の映画は、同じ「夜」でも「屋外」(esterno)を描く。それが「Esterno notte」というタイトルの所以なのだ。

冒頭のシーンに驚かせられる。誘拐されたモーロが生還しているのだ。実はこれ、誘拐当時「プラン・ヴィクター」(piano Victor)と呼ばれていたシナリオが実現したという設定。Victor とは「vivo」(生きている)の符牒。これに対して「プラン・マイク」(piano Mike)は「morto」(死んだ)の符牒となる。ふたつのプランは内務省のフランチェスコ・コシガが実際に使っていたもの。

そういえば『夜よこんにちは』のラストシーンもモーロの生還で終わる。もちろん史実ではない。いわば映画的な夢あるいは幻想のシーン。そもそも史実を知りたいのなら、自分の映画を見るべきではないと、ベロッキオは言っている。たしかにそうだ。史実は歴史書を読めば良い。では映画は何を描くのか。

じつのところベロッキオは『夜をこんにちは』を撮ったとき、2001年のアメリカの同時多発テロを考えていたのだという。最初は、モーロの遺族がニューヨークのテロの遺族と交わるようなストーリーを構想したというのだが、さすが規模が大きくなりすぎるので断念。けっきょくは事件を「屋内」(interno)劇として描くことに落ち着く。

それから20年。ベロッキオは「屋外」(esterno)から事件を振り返ろうとする。しかし、それには一本の映画ではとても収まらない。そこで6話からなるテレビシリーズの形式をとることにしたのだという。なるほど、第一話「アルド・モーロ」で事件の中心人物と時代を描き、第二話の「内務大臣」はフランチェスコ・コッシーガを中心におくと、彼をモーロの政治的な意味での息子のような存在として描き出す。この悩める息子は、電話の盗聴ができる知らせに喜び、はしゃぎながら、盗聴される言葉のなかで翻弄されてゆくことになる。

コシガが息子なら、父に相当するのが教皇パウロ6世。第三話の「教皇」では、トニー・セルヴィッロが見事な教皇依代となって、息子を思う父のような葛藤を体現、赤い旅団に向けてモーロ解放のメッセージを記すところは圧巻。

第4話の「テロリストたち」は『夜よこんにちは』の簡易拡大版。中心はやはり赤い旅団の女性メンバーのアドリアーナ・ファランダ。殺害に反対するアドリアーナの依代はダニエーラ・マッラ。20年前にアドリアーナを演じたマヤ・サンサにも負けず存在感あり。

第5話の「エレオノーラ」ではモーロ夫人をマリゲリータ・ブイが好演。ブイを中心にした家族の姿が見事に浮かび上がるだけではない。モーロ夫人のキリスト者としての落ち着き、妻としての葛藤、夫の仲間たちへの不信、そんな中で浮かび上がってくる夫への思い。

その思いを向けられた夫アルドは、最後の第6話「最後」に再び登場して、その政治家としての想い、家長としての想い、キリスト者としての想いを、告解の神父を通して、ぼくらに伝えてくれる。依代となるのはファブリツィオ・ジフーニ。父は政治家で妻は女優のソニア・ベルガマスコ。この映画の出演を打診されたころ、ちょうどアルド・モーロの書簡を元にした舞台『Con il vostro irridente silenzio(あなたがたの嘲り沈黙をもって)』を準備していたという。

 

追記 5/8:

個人的にはモーロ/ジフーニのおじいちゃんぶりに共感。夜遅く、ひとり卵焼きを焼いてパンで食べたり、その後でガスがしっかり止まっている確認する姿。嵐の夜に孫のベッドにゆき、夫婦のベッドに連れてきて眠るシーン。大切な投票がある前日、孫と眠りたいと娘に頼むところ。なんともよくわかる「おじいちゃん」ぶりなのだ。

それが実際のアルド・モーロだったのかどうかは歴史家に任せるとして、ひとりの「おじいちゃん」が誘拐されて殺害されるという物語には大いに深みを与える演出。そしてそんな生活のこまごまとした描写があるからこそ、妻のエレオノーラ/ブイの演技がひきたち、モーロ一家の苦悩がますますはっきりとした輪郭を持つようになる。ベロッキオおとくいの夢のシーンさえもが実にリアルに立ち上がるのは、そうした描写の積み重ねのおかげ。

さらには、キューブリックパゾリーニばりのシンメトリーのショットがポイント・ポイントに挟み込まれることで、ぼくたちは目をひきつけられ、引き込まれ、胸をつかまれ、ゆっくりとゆらされながら、短いセリフのひとつ、わずかな目配せひとつで、大きく激しく振り回される。

聞けばイタリア映画祭の上映終了後には拍手が沸き起こったという。ぜひぜひ、公開してもらいたい。5時間半と言われると怯むけれど、60分弱のエピソードを6つ連続してみると考えれば、たいしたことはないではないか。