雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

カンニングとゲイ・サイエンス

 こんな記事を読んだ。少しイラっとしてしまった。そんなのはわかっている。問題はそこじゃない。そう思ったのだ。


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 Web テスト代行が問題なのではない。教育機関はこれからも DX (digital transformation)を進めてゆくだろうし、ICT(Information and Communication Technology) を利用し続けるだろうし、さらには CBT(Computer Based Testing)の機会も増えるはずだ。そんなのはわかっているし、問題はそこにはない。

  ぼくが問題だと思ったのは、テストの不正に注意喚起をすることにある。替え玉受験やカンニングのような不正を注意する前に、なぜ不正が起きるのか考える必要はないのだろうか。不正がどこから来るのか考えることなく、ただ不正に注意喚起をするのはただのルーティンであり、習慣であり、身体と精神の反射であり、知性の貧困にほかならないではないか。

 そもそも、不正のどこが悪いのか。それはむしろ、英雄的な行為ではなかったのか。うまくカンニングをやりとげたときの達成感は、ほんとに否定されるべきものなのだろうか。造反有理という言葉は、ほんとうに過去の遺物になってしまったのだろうか。

 考えてみれば、初等教育から高等教育にかけて、学校での高い評価とは、効率的にテストで正解を叩き出し、点数を稼ぐことではなかったのだろうか。

 要領よくクイズで勝利したものが、そのまま社会でも勝利をつかみ、成功を収めることができるという幻想を振り撒いてきたのが教育だとすれば、その幻想によってカンニングは見つからなければ善なのだと思うものが現れてきても不思議ではない。

 ふつうは悩む。点数だけが人生ではない。就職だけが成功ではない。お金だけが幸福をもたらすものではない。そんなことは誰だってわかっている。わかっているから悩むのだ。

 けれども、まじめに教育を受けた者のなかには、教育の振り撒く歪んだメッセージをそのまま飲み込むものだっている。学歴で自分を評価し、他人を評価し、自らを卑下し、弱いものに対して優越感を感じる。無力なものは無価値であり、消えてもらってかまわない。この優生思想こそが、学校が密かに教えてきたことではなかったのか。

 そんなことはない。ほとんどの教師がそう答えるのだろう。けれども、子供を点数で評価することを拒否したことのある教師は名乗り出よ。そんな教師はどこにもいない。ぼくだってそうだ。評価をしなければ給料がもらえない。給料のために評価する。点数をつける。ならば教師は採点マシーンではないか。

 ところが、そんな採点マシーンからでも、ありがたいことに子どもたちの多くは、人生が点数だけではないと学んでくれている。それが「教育の奇跡」と呼ばれるものだ。けれど、それはあくまでも奇跡であり、起こることがめずらしい。だから多くの子どもたちが、点数がとれないことを頭の悪さと思い込む。学歴コンプレックスを抱えこみ、自分が不幸なのは自分のせいだと思い込む。こういうのをニーチェなら奴隷根性と呼ぶのだろう。

 それでもなんとかしたいなら、カンニングをすればよい。チャンスがあれば、チートすればよい。採点マシーンの教師の目を盗み、採点マシーンのシステムのバグをつき、苦労してとる点数を、苦労せずにとってみせばよい。親の金をつかって、テクノロジーを駆使して、仲間や友人をたぶらかし、受験ゴロにたぶらかされながら、みんなで不正をやらかせばよい。

 国政を見てみよ。オリンピックを見てみよ。不正は、バレなければ不正ではないし、たとえバレてもシラを切れば切り通せるかもしれない。だから不正すればよい。不正、万歳。ぼくらの社会は、一方でそんなふうに呼びかけている。きみは奴隷でいなくてもよいのだ。だからうまくやってくれたまえ...

 とはいいながら、建前としては不正はよろしくない。とうぜん不正には「注意喚起...」をすることになる。ちゃんちゃらおかしい。そんなのは、ただのアリバイにすぎない。おそらく、この茶番は永遠に繰り返すのだ。

 しかし、心ある教師なら、みんな知っているはずだ。カンニングのような不正は恐れるほどのことはない。不正に注意喚起するよりも、喚起すべきはむしろ「学びの歓喜」「ゲイサイエンス」なのだと。

 学びは喜びだ。喜びの陽光のなかで、雲も霧も消えてゆく。不正はルサンチマンの雲であり霧なのだ。それを文字通り雲散霧消させるのは、学びの喜びにほかならない。だから喜びよ来れ。不正を告発せよ。真理を暴け。謎を解き明かせ。道の世界への扉を開け。そして飛び込め。冒険せよ。歓喜せよ。生きよ。

 そう、ただ生きる喜びを感じるとき、ぼくらは不正なんて雲や霧の出どころを知りつつ、それを受け入れて乗り越え、その向こう側に立ち上がる虹を見ることだってできるわけだ。

 あちこちの大学をサスライながら採点マシーンを続けているぼくだけど、ときどき、そんな虹をみんなと見てみたいと思いながら、話を続けている。だって、そのほうが楽しいからね。