まずはこんなツイートから。
先週「andare(仏語allerでもよい)を活用するとなんでvが入るんですか?」今週「動詞の不規則活用は、1,2,3人称単数(io, tu, lui/lei)と3人称複数(loro)に多いのはなんでですか?」
— Kosuke Kunishi 國司航佑 (@kosukekunishi) May 30, 2019
初級文法ゆえの難題をぶつけられた。
ツイッターで知り合った方の投稿だけど、たぶん多くのイタリア語講師が同じような経験をしているのだろう。ぼくにも経験がある。でも今はそうでもない。イタリア語を教え始めの頃、ぼくはいわゆる「文法訳読法」の授業をしていた。イタリア語を読んで日本語に訳し、文法を解説するという伝統的な方法だ。じつはそのころ、「andare(行く)」のような動詞の活用を教えると、上のツイートにあるような疑問をぶつけられた。
ちなみに、「andare 」活用変化はこうなる。
人称 |
動詞 andare(行く)の活用変化 |
|||
1 |
io |
andiamo |
||
2 |
tu |
vai |
voi |
andate |
3 |
lui/lei |
va |
loro |
vanno |
ご覧のように、不定詞 andare は活用変化すると vado, vai, va, vanno と「V」の音が入ってくる。ところが1、2人称の複数形は andiamo, andate と不定詞の規則変化をしているわけだ。
「行く」というのは基本中の基本の動詞。覚なければだめだ。そんなふうに教師に言われると、普通の学生なら頭を抱えてしまう。ぼくだってそうだ。「行く」がこの有様なら「来る venire 」「する fare 」「言う dire 」「持つ avere 」、そして「ある essere 」などの動詞もとんでもないことになっているに違いない。そう思う。そしてじっさい、とんでもないことになっている。こうなると、単位を取らなければならない学生としては、つい反発したくなる。「どうして、そんなややこしいことになってしまうのか?」。
この「どうして?」という問いを額面通りに受け取ってはならない。それは、ややこしいことはやりたくないから、正当な理由を示せというもでもあるからだ。
* * *
もちろん、純粋に言語的な興味関心からそういう疑問を持つことだってあるだろうから、そういう場合には次のように説明すればよい。
動詞 andare の不規則変化については、ラテン語の ambulare (歩く)とvadere (行く)の二つの語源が合成されたと説明すればよい。不規則活用とは、そもそも使用頻度が多い。使えば使うほど崩れてゆくのが世の常。むかしある先生が、不規則動詞は「使い古した靴」みたいのものとおっしゃっていた。そのこころは「使えば使うほど形が崩れる」というもの。
おなじように、1・2・3人称単数(vado, vai, va) と3人称複数(vanno) に不規則が多いのもの説明できる。君と僕の間のやりとりを基本とする動詞の活用変化は、どうしたって1人称(vado)と2人称(vai)の使用頻度が高い。頻度が高いと崩れてしまう。3人称(va) は、その頻度の高い活用から区別するもののために、1人称と2人称の崩れを引きずってしまう。その3人称単数(va) の変化と分別される3人称の複数(vanno)もまた、そのくずれが引き継がれてしまう。そういうことだ。
一方で1・2人称の複数形(andiamo, andate)は、不定詞(andare)からの規則変化となっている。想像するに、1・2人称複数形は、その使用が演説などの公的な場所であり、不定詞(andare)という動詞の原義をもっとも伝える形が選択されたのだろう。
* * *
しかしながら、「ややこしいことはやりたくないぞ!やらせるんならその理由を示せ」という意味の「なぜ?」に対しては、上の回答はあまり意味をもたない。おそらく説明を始めた途端に、学生たちはこれ幸いと寝てしまう、なんてことになりかねない。すくなくとも、そんな説明をしている間は授業の進行が止まり、試験に出る範囲が広がらないからだ。
「なぜ?」というのは、しばしば無意識の拒絶の表明だ。小さい子に「〜なさい」というと「どうして?」と返されるのと変わらない。そこには小さな拒絶があるだけではない。拒絶に対する親の反応を伺う眼差しがこちらに向けられているのだ。いやはや、親も教師も大変だ。
しかし、親が大変ではないときがある。それは子どもたちが夢中で遊んでいるときだ。「遊び giocare 」の最中に「どうして?」という問いが立つことはない。子どもたちは遊びのなかで、遊びを創造し、理解し、実践する。おそらく教師が大変でないときは、学習者が「学び imparare 」を想像し、理解し、実践するときなのだ。
ぼくが「文法訳読法」で授業をしていたとき、幸いにも多くのが社会人の学習者だった。ある程度大人になると「文法訳読法」が「遊び」のような「学び」に近づくのだけれど、それも程度があって、みんながみんな、遊ぶように学べるわけではない。だからこそ、文法や訳読の授業は、教師にとって「どうして?」という問いとの戦いになる。つまり、あらゆる「どうして?」に対して、へえーと思わせる返答で武装すること。これをやりすぎると人格がおかしくなる。イタリア語ではたしか「 demofrazione professionale 」とか言ったっけ。日本語にすれば「職業病」かな。
* * *
でも僕は最近、初級の授業で「文法訳読法」を用いることがなくなった。今ではもっぱら「CA (comunicative approach)」と呼ばれる方法で、授業の導入部分を展開しようとしている。
CAの場合、たとえば動詞 andare の活用表を与え暗記させるという方法をとらない。学習者が最初に触れ、理解し、使用を試みる文型は「Vado a ~(〜に行くんだけど)/ Vieni anche tu?(君もくる?」「Sì, vengo volentieri(よろこんで行くよ」のようなものだからだ。
これはいわゆる「勧誘」という言語的な機能を伸ばす授業。教室では、まずはこの文型が出てくる状況を理解し(コンテクスト化:contestualizzazione)、個々の動詞や単語を解析し(analisi delle frasi)、その使用を試みる(pair work, role play)。ようするに学習者のなかで、状況を想像しながら理解し、つぎに似たような状況を創造し参加するようにしてもらう。こういうのを今は「アクティブラーニング」とか呼ぶのだろうけど、ぼくらはすくなくとも、こうしたやり方(CA)を1990年代の半ばから続けている。そして、このやり方がうまくゆくとき、すくなくとも「動詞 andare の活用にどうして《V》があるのか」とか、なぜイタリア語の名詞には男女の区別があるのかなどの問いは、すぐには出てこない。なぜなら、男女があると教えるのではなく、un cappuccino / una birra という使い方を学んでももらうのが、CAの目的だからだ。
もちろん、CA (Comunicative approach) だって万能ではない。「できた」というところで終わってしまっては、今の日本語を母語とする大学のL2の教育では定着しない。「できる」ことに意味を見いだせなければ、やろうとは思わないからだ。「できる」というのは、たとえば日本でなら、イタリアに旅行や留学を考えているという文脈を前提するのだろうし、EUのヨーロッパ参照枠組みの場合は、ヨーロッパ市民の人的交流を考えているわけだが、そうした文脈がなければ、CAというのは機能しない。
ではどうするか。ぼくの場合はCAによってL2のある程度の使用ができた時点で、日本語との比較という視点を持ち込むことにしている。なにしろ相手は日本語を母語とする学習者が大半なのだ。この母語との比較という観点によって、ふたたびあの「文法訳読法」の可能性が開かれることになる。ぐるりとまわって、最初の入り口にたどり着くというわけなのだ。
CAを考えて作った教科書 Quaderno d'italiano だけど、今年で絶版の予定。近々新しい教科書を出版する予定です。