雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

宗教となった医療、あるいは、恐怖から逃れるために希望を捨てること

日本の医療の不都合な真実 コロナ禍で見えた「世界最高レベルの医療」の裏側 (幻冬舎新書)

 

あらら、帯に問題になっている歴史学者さんの名前が... でも、内容は面白かったです。

 体長100メートルのゴジラと、1メートルのジャガーという比喩はなんだかピンときました。アジアにやってきたのはもちろんジャガーのほうです。それでも街中で野放しになっていると思うと怖いことは怖いですけど。

 ただ、この本が面白いのはコロナの問題というよりは、病院経営の問題なんですね。イタリアには「家庭医」というのがあるというのは知っていたのですが、この本ではプライマリ・ケア医と呼ばれるものです。ヨーロッパでは、病気かなと思ったらまずはこの「家庭医」あるいはプライマリ・ケア医に相談してから、専門医に行くという順番なっているわけですが、日本ではそうではない。ともかく総合病院に行って、すぐに専門医に診てもらうのが当たり前。ヨーロッパの人からすると、どうしてそんなことができるのかわからない。だって、最初から専門医に行くなんて、自分で病気を診断しているようなものですからね。

 日本の医療はすごく優秀はなずなのですが、どういうわけか、いつの間にか、逆立ちした医療になってしまっていることを、この本は読みやすく指摘してくれます。簡単にいうと、病院を経営することが、医療をダメにしているという指摘であり、それが日本では特殊に歪んだ形であらわになってきている。とくにコヴィッド19による重傷者に対する病床不足。ヨーロッパやアメリカに比べたらそれほど患者数が多いわけではないのに不足しているという事態の背後には、この「病院経営」という問題があるわけです。

 この問題に著者の森田さんが気づいたのは、夕張での医療崩壊(=病院閉鎖)の前後の比較だったといいます。端的に言って、じつは病院経営が病人を作り出していたのかもしれないというのです。ぼくが驚いたのは、病院の閉鎖後、「老衰」という死亡理由が増えたという記述です。森田さんによると、医師にとって「老衰」と死亡診断書に書くことは敗北なんだそうです。

 医者にとって、死亡の原因となった病名を特定できなかったのは敗北だということです。けれども、人は年をとるといつかは死にます。そのときは複合的な理由で死んでゆくのであって、ひとつの病名に原因をしぼることなんて、そもそも不可能ですよね。しかし、大きな病院に入院し、身体中にチューブを差し込まれ、生命反応をモニターしているような状態のなかだと、最終的な死因を特定しやすくなります。まあ、最後は心不全と書けばよいのですが、それはモニターでチェックしているから言えること。

 実際に人が老いて死ぬときは、複合的に死ぬのであり、それも自宅で、家族に見守られながら、息を引き取ったのなら、「老衰」という診断も出てくるはず。ところが、夕張では、医療崩壊=病院閉鎖の前には「老衰」はほとんど0%だったのが、崩壊=閉鎖の後には大きくその割合を増やしたというのです。言い換えるならば、医療が経営しているとき何らかの死因がついていた。極端に言えば、病名や死因をつけることが経営だった。ところが、医療の経営が破綻した後では、「老衰」が増えてゆく。老いて、衰えて、自宅で、誰かに看取られて死ぬことができるようになった。死は経営の対象ではなく、生の営みのなかに取り戻されたともいえるのかもしれません。

 森田さんは、誰もがそれなしには不安でしかたがなくなった医療を「宗教になった医療」と呼んでいます。これは医療が経営になったことと関係します。経営の背後にはたらく理念は資本の理念ですよね。じつは資本主義は、商品をそれなしには人々が不安になるようなものとして売りに出すようなシステムです。いらないものを買わせるわけにはゆかないのですが、それなしには不安になるように仕向ければ、誰だってその商品を買ってくれるからです。その意味で、資本主義もまた宗教になっている。

 こう考えてくると、アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』(青土社)での指摘を思い出します。このイタリアの哲学者もまた、医療などの科学を宗教と呼んでいます。そしてその宗教が、バイオ・セクリティーを振りかざして人々に不安と恐怖を与えることで、その解消をうたいながら、希望をかかげるものだというのです。だから「希望を捨てたものだけに希望がある」という逆説的なフレーズを記すわけです。

 注意すべきは、「希望を捨てる」という意味を取り違えないことです。「希望」とは「恐怖」や「不安」に対する護符なのです。宗教は「希望」という護符を売ることで、宗教としてなりたつものなのです。ならば、護符を買わなければどうなるのか。バチがあたるぞと言われます。「恐怖」「不安」があおられるのです。「希望を捨てる」ためには、そそのかされないことです。「不安」「恐怖」というものは、どこにでもあるものであり、むしろぼくらはそんな「不安」や「恐怖」に開かれている、そう思い起こさなければなりません。

 「《不安》や《恐怖》に開かれている」というのは、簡単にいえば、どうせ「死ぬ」のが運命であり、そこから逃れることは誰にもできない、そう覚悟することです。この覚悟のなかにあることが、「希望すてることによって希望がある」状態なのではないでしょうか。

 森田さんの本は、そのあたりをきちんと見つめていると思います。「希望を捨てる」ための知恵が散りばめられています。そのひとつひとつに触れることで、売買される希望がボロボロと落ちてゆきます。そこに残されるものこそが、ぼくらの生きる身体なのかもしれません。

 

私たちはどこにいるのか?

私たちはどこにいるのか?