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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

すべてが変わるなかで変わらないもの…

映画 もろもろ


Mercedes Sosa - Todo Cambia (Videoclip) - YouTube

 

ぼくは今、なんだかうっとうしい空気を吸っている。学者たちはいつになく声をあげているし、学生たちさえ緊急のアクションを組織しているし、まわりの誰に聞いても何かがおかしいと答えてはくれるのだけれど、空気はますますよどんでゆくようだ。それは忌野清志郎の「地震のあとには戦争がやって来る」という予言よりもさらに切迫している。まさに宮尾節子の「明日戦争が始まる」という空気ではないか。

 

ぼくたちが乗っている船は、資本という名の欲望の旗を掲げた者たちが舵を握っている。彼らは平和を叫びながら、平和とは似ても似つかないものへと大きく舵を切っている。船が進路を変えつつあることは、もはや誰の目にも明らかになりつつある。けれども船が巨大であればあるほどに、変わりつつある航路をもとに戻すことは、ますます容易でなくなりつつある。

 

考えてみれば世の中が変わるのは当たり前だ。むしろ変わらないでいることのほうが難しいのかもしれない。もしかしたらそんな諦めが支配的になりつつあるのだろうかと、暗い気分になりかけていた朝、FBから聞こえてきた歌声がある。

 

メルセデス・ソーサの「すべては変わる Todo cambia 」である。

 

この曲を知ったのはナンニ・モレッティの映画だったよななんて思いながら、少し前に書いたコラムのファイルを探して出してみた。音楽雑誌『ムジカヴィータ・イタリア』5号(2014年)のための「イタリア映画の忘備録(5)」だ。

 

書店で目に触れる雑誌ではないので、若干の加筆訂正の上、ここに再録しておくことにする。

 

 

* * * 

 

 映画には予言的といわれる作品がある。世の中を驚かせる事件が起きたとき、記憶から呼び戻される作品のことだ。たとえば1969年に人類が月面に降り立ったとき、フランスで半世紀以上も前にメリエスが撮った『月世界旅行』(1902年)が思い起こされただろう。2001年のニューヨークでの同時多発テロには、その数年前に公開されたデンゼル・ワシントン主演の『マーシャル・ロー』(1998年)が、その恐ろしい出来事を予言した映画として想起された。さらに日本でも、いまだ記憶に鮮明な2011年3月11日に続く原子力発電所の事故が、すでに忘れかけられていた黒澤明の『夢』(1990年)を呼び起こした。そのなかのエピソードのひとつで富士山が噴火し、それに続いて原発が爆発すると、人々は毒々しく着色された放射性物質の霧のなかを逃げまどうシーンが描かれていたからだ(「赤富士」のエピソード)。

 2013年のはじめには、イタリアでも予言的な映画が話題となる。2月11日にベネディクト16世ローマ教皇を辞任すると発表されたとき、誰もがナンニ・モレッティの『ローマ法王の休日』(2011年)を思い出したのだ。原題は Habemus Papam 。これは、新しい教皇が選ばれたことを表明するラテン語の文句で「われわれには教皇がいる」の意で、映画の冒頭のシーンに聞かれる言葉だ。カメラは、教皇の葬儀とつづくシスティーナ礼拝堂でのコンクラーヴェ教皇選挙)を丹念に追うと、サンピエトロ大聖堂のバルコニーからひとりの枢機卿から「Habemus Papam (新しい教皇が決まりました)」と宣告されるまでを映し出す。その直後だ。奇矯な叫び声が響き渡るではないか。声の主は、なんと厳かな装束に身を包んだ新教皇メルヴィル(ミッシェル・ピコリ)。彼は就任演説に立つ直前に突然のパニックに襲われると、なんと広場に集まった群衆を残して、その場から逃げ出してしまうのだ。

公開当時は、教皇がその地位を放棄することなど現実にはありえないと一笑されたのこの作品だが、その2年後、実際にベネディクト16世が辞任を表明すると、イタリアのメディアは大騒ぎとなる。ナンニ・モレッティが「またしても」予言を的中させたというのだ。たしかにモレッティの予言は「またしても」なのである。その最初の予言は1989年の『赤いシュート Palombella rossa 』。当時まだ存続していたイタリア共産党の指導者を主人公に、事故で失った記憶を取り戻そうとするその姿を通して共産主義の行き詰まりを描いた作品なのだが、公開の2ヶ月後にはベルリンの壁が崩壊し、やがて共産党も消滅することになる。さらに2006年の『カイマーノ Il caimano 』の予言も的中する。ここではモレッティ自らが当時のイタリア首相シルヴィオ・ベルルスコーニ役で登場すると、映画のラストシーンで身の毛もよだつような法廷での演説を披露するのだが、その数年後、実際の法廷においてベルルスコーニ本人がそのセリフをほとんどそのままに繰り返すことになるのだ(2013年の末にはこの元首相の公職追放が決定している)。そんなふたつの作品に続いて、『ローマ法王の休日』は、「またしても」予言を的中させたというわけだ。

 しかし、映画は未来を予言しようと作られるものではない。それはあくまでも、過去や現在に触発されながら、そこに若干の想像力を働かせて、「あり得るかもしれない現実」を物語るものなのだ。メリエスの『月世界旅行』を考えれば、その背後にはH.G.ウェルズジュール・ベルヌSF小説があり、19世紀から続く科学技術信奉やその進歩史観が働いていることが見出せるだろう(そもそもあそこで人間を月に到達させるのは15世紀に技術が確立した大砲だ)。同時多発テロを予言していたという『マーシャル・ロー』にしても、実際にはその数年前に起きたオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件(1995年)に触発されたものだし、黒澤明の『夢』で描かれた放射能の恐怖は、『八月の狂想曲』(1991)で想起された長崎への原爆投下の記憶や、『生きものの記録』(1955年)の直接のきっかけとなったビキニ環礁の水爆実験(1954年)の延長上に出てきた物語だと考えらるのが妥当なところではないだろうか。

 同じことが、モレッティの『ローマ法王の休日』にもいえるであろう。一見それは教皇の辞任を予言したようにもみえるが、それは結果論にすぎない。なにしろ、あの歴史的な教皇辞任劇の当日に行われたラ・レプッブリカ紙によるインタビューを読めばわかるように、予言を的中させた言われるモレッティ本人が、大いに困惑しているではないか。そのインタビューのなかでモレッティは、作品の意図についてこう語っている。

 

それに、わたしは自分の映画を現実に押し付けることには関心がありませんでした。わたしがやろうしたのは、大文字の歴史のなかで、ひとりの人間の精神的な危機が突然に起ることを描きたかったのです。その男はじぶんが果たすべき役割を拒絶します。それが、いかに神聖で権力のある役目であろうと、自分の人間的本性よりも優先させようとはしないのです。そんな映画が現実に即していなく本当らしくないなら、仕方ないと思いました。けれども、わたしがかたり語ったのはそういうことなのです。今ある現実ではなく、ありうるかもしれない現実ですね。それが、実現してしまったわけです。*1

 

 「自らの人間的な本性 la propria natura umana 」という表現に注目しておこう。それこそは、デビュー作『青春のくずや~おはらい Ecce bombo 』(1978年)に始まり、『赤いシュート』や『カイマーノ』、そしてカンヌ映画祭パルムドールに輝いた『息子の部屋』(2001年)がそうであるように、モレッティ作品のすべてに一貫してきたテーマではないか。そして『ローマ法王の休日』もまた、教皇という重大な役割を前にしてパニックに襲われたメルヴィルが、いかにして「自らの人間的な本性」を取り戻すかに焦点がしぼられているというわけだ。

 そのために登場するのが、精神分析医のブレッツィ(ナンニ・モレッティ)と同じ分析医のその妻(マルゲリータ・ブイ)である。とはいえ、そこはモレッティだ。「自らの人間的な本性」を見失なった宗教的指導者が、精神分析のおかげで回復するというような物語にすることはない。『息子の部屋』の分析医だって、息子を亡くして自ら精神的危機に陥ってしまったではないか。モレッティは、精神分析に対してもまた懐疑的であり、それが万能だなどとは決して考えていないのだ。だからこの作品に登場する分析医たちもまた、パニックに陥ったメルヴィルのまわりで狼狽える枢機卿たちと同じように、あまりにも人間的で、ほとんど喜劇的であり、ほとんど物語の狂言回し的な役割を演じることになる。なにしろ、神に仕えるはずの宗教的指導者が、神を信じない世俗の学たる精神分析の助けを借りるという設定そのものが、まったくもって喜劇的ではないか。

 こうして発作に見舞われた新教皇メルヴィルは、そんな狂言回しの精神分析医ブレッツィ=モレッティの「不能」を通じて、ヴァティカンという檻の外へと連れ出されることになる。ローマの市井の人々のあいだを彷徨い、その漂泊のなかで自らの過去に、つまりは自らの「人間的な本性」の在り処へと接近してゆく。

 自身の無力さにたじろぎ、広大な世界を前にして悲鳴をあげてしまうような危機からの救済の道は、結局のところ、自らのなかで変わることのなく存続する何かを再発見することなのかもしれない。だからこそモレッティは、メルセデス・ソーサ(1935-2009)の歌う『すべては変わる Todo cambia 』(1982)を聞かせてくれたのだろう。アルゼンチンの「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」を代表するメルセデス・ソーサが歌う『すべては変わる』は、あの「人間的な本性」への道を開く大切な鍵だ。

 


Habemus Papam - Cambia todo cambia - YouTube

 

Cambia lo superficial
Cambia también lo profundo
Cambia el modo de pensar
Cambia todo en este mundo

上辺にあるものが変わり
奥底にあるものも変わる
考え方は変わり
この世ではすべてが変わりゆく

Cambia el clima con los años
Cambia el pastor su rebaño
Y así como todo cambia
Que yo cambie no es extraño

気候は年とともに変わり
羊飼いは羊の群れを変えてゆく
すべてが変わるように
わたしが変わるのも不思議ではない

Cambia el más fino brillante
De mano en mano, su brillo
Cambia el nido el pajarillo
Cambia el sentir un amante

最高のブリリアントカット
手から手へ渡るうちにその輝きを変えてゆく
小鳥はその巣を変え
愛する人の気持ちも変わってゆく

Cambia el rumbo el caminante
Aunque esto le cause daño
Y así como todo cambia
Que yo cambie no extraño

旅人は道を変える
たとえそれが危険なのことでも
こうしてすべてが変わるのなら
わたしが変わるのも不思議ではない

Cambia, todo cambia (x4)

変わりゆく すべては変わりゆく

 

Pero no cambia mi amor
Por más lejos que me encuentre
Ni el recuerdo ni el dolor
De mi pueblo y de mi gente


けれどもわたしの愛は変わらない
どれほど遠くにいようとも
わたしの故郷と故郷の人々の
思い出も苦しみも変わることがない

 

この曲は、軍事政権下で国外への亡命を余儀なくされた彼女が、遠い異国の地から故郷への愛と、そこでなおも苦しみ続ける同郷人への想い込めて歌ったもの。そんな歌声を背景に、スクリーンに映し出されるのは、新教皇の容態を心配する枢機卿たちの姿。教皇の部屋のラジオから流れて来たその調べに魅了された枢機卿たちは、それが教皇の回復の兆しだと信じて踊りだす。しかしその教皇たるメルヴィルは、実のところローマを彷徨っているという設定だ。しかし、そのメルヴィルもまた、同じ曲を歌う女性歌手の一団と出合うことになる。そして映画の2年前に亡くなったソーサの若い頃の姿を思わせるポンチョをまとった娘の、「わたしの故郷と故郷の人々の思い出も苦しみも変わることがない」と歌い上げるその歌声に聞き入ることになるのである。

 そんな歌声に込められた想いこそは、モレッティが悩めるメルヴィルに思い出してもらいたかった「人間的な本性」に通じるものにちがいない。精神分析医を演じるマルゲリータ・ブイとの会話を思い出しておこう。「職業はなんですか」という問いに、お忍びで診察に来ていたメルヴィルは自分の素性を明かすことができず、おもわず「わたしは男優」と答えてしまう場面である。実はこれ、「わたしはかもめ… いえ、女優」というニーナのセリフで知られるロシア演劇の傑作『かもめ』からの引用なのだ。その後、彷徨のなかで一夜の宿を求めたホテルでチェーホフの芝居を稽古する劇団と出会ったとき、メルヴィルは『かもめ』のセリフをほとんど暗記していることを示してみせたではないか。

 こうして、少しずつメルヴィルの演劇への情熱が明らかになるなかで、その背後には彼の妹(あるいは姉)の記憶がこびりついていることが判明する。自分よりも才能があり、自分が落第させらた劇団の入団試験に合格したというこの姉妹の存在は(オリジナル脚本によればすでに亡くなっている設定だ)、メルヴィルの情熱と挫折の記憶の在り処をマークしている。 

 チェーホフの『かもめ』と亡き妹の思い出こそは、メルヴィルの「人間的な本性」の場所にほかならない。それは苦々しさを伴いながらも「変わることのない愛」の在り処なのだ。こうして、すべてが変わりゆく世界のなかで、決して変わることのないものの存在に気づいてゆくなかで、メルヴィルはもはや再び自分を取り戻してゆく。そして、ある決意をもって、逃げ出したサン・ピエトロのバルコニーへと戻ってゆくことになるのである。

 それにしても、モレッティがこの映画にアルゼンチンの歌姫メルセデス・ソーサの曲を選んだことは興味深い。2013年3月19日、あの歴史的な教皇辞任劇に続くコンクラーベにおいて、奇しくもアルゼンチンの枢機卿ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが選出されるのだが、彼こそは現教皇フランシスコなのである。それはまるで、この映画のなかに響いたソーサの歌声が、南米初の教皇の選出を予言していたかのようではないか。

 

* * *

 

Todo cambia の歌詞とその拙訳を以下に掲載しておく。

Todo cambia

 

Cambia lo superficial
Cambia también lo profundo
Cambia el modo de pensar
Cambia todo en este mundo

 

上辺にあるものが変わり

奥底にあるものも変わる

考え方は変わり

この世ではすべてが変わりゆく

 

Cambia el clima con los años
Cambia el pastor su rebaño
Y así como todo cambia
Que yo cambie no es extraño

 

気候は年とともに変わり

羊飼いは羊の群れを変えてゆく

すべてが変わるように

わたしが変わるのも不思議ではない

 

Cambia el más fino brillante
De mano en mano, su brillo
Cambia el nido el pajarillo
Cambia el sentir un amante

 

最高のブリリアントカット

手から手へ渡るうちにその輝きを変えてゆく

小鳥はその巣を変え

愛する人の気持ちも変わってゆく

 

Cambia el rumbo el caminante
Aunque esto le cause daño
Y así como todo cambia
Que yo cambie no extraño

 

旅人は道を変える

たとえそれが危険なのことでも

こうしてすべてが変わるのなら

わたしが変わるのも不思議ではない

 

Cambia el sol en su carrera
Cuando la noche subsiste
Cambia la planta y se viste
De verde en la primavera

 

太陽は軌道を変え

夜が続くようになれば

植物も変わりゆき

春には緑の衣をまとう

 

Cambia el pelaje la fiera
Cambia el cabello el anciano
Y así como todo cambia
Que yo cambie no es extraño

 

獣たちの毛は生え変わり

老人の髪も変わりゆく

こうしてすべてが変わるなら

わたしが変わるのも不思議ではない

 

Pero no cambia mi amor
Por más lejos que me encuentre
Ni el recuerdo ni el dolor
De mi pueblo y de mi gente

 

けれどもわたしの愛は変わらない

どれほど遠くにいようとも

わたしの大地と故郷の人々たちの

思い出も苦しみも変わることがない

 

Lo que cambió ayer
Tendrá que cambiar mañana
Así como cambio yo
En esta tierra lejana

 

昨日に変わったものは

明日にまた変わるのだろう

この遠い場所でわたしが

変わってゆくように

 

Cambia, todo cambia (x4)

 

変わりゆく すべては変わりゆく

参照サイト *2

 

 

ローマ法王の休日 [DVD]

ローマ法王の休日 [DVD]

 

 

Palombella Rossa [Italian Edition]

Palombella Rossa [Italian Edition]

 

  

 

息子の部屋 [DVD]

息子の部屋 [DVD]

 

 

Todo Cambia

Todo Cambia

 

 

 

*1:原文はこうだ。“E non mi interessava nemmeno schiacciare il mio film sull'attualità, cercavo di raccontare l'irrompere nella Storia, con la maiuscola, della semplice crisi di un uomo che non accetta di far prevalere il ruolo, per quanto sacro e potente, sulla propria natuara umana. Se non è attuale e verosimile, pazienza, mi sono detto, ma è quello che voglio raccontare. Non la realtà per quello che è, ma per quello che potrebbe essere. Ed eccoci qua” 引用元はここ:http://www.dagospia.com/rubrica-2/media_e_tv/il-profeta-habemus-papam-il-simpatico-nanni-moretti-che-cosa-dovrei-dire-che-sono-50801.htm

*2: http://nekoyanagioffice.blog.jp/archives/65194695.html , 

http://www.antiwarsongs.org/canzone.php?lang=it&id=4843