デ・シーカ祭り。監督第二作。とはいえ単独で監督したこという意味では第一作といえるかも。というのも、第一作の『Rose scarlatte (緋色の薔薇)』では、ジュゼッペ・アマート(Giuseppe Amato)が共同監督をしたと主張。デ・シーカに言わせると、自分で監督したつもり。だからこの第二作目は、監督の技量を試す試験のようなもの。そしてデ・シーカはその試験に見事に合格したというのが当時の評価らしい。
「白い電話」シリーズの多くがそうだったように、この作品も原作はハンガリーの戯曲で、1938年代の『Magdát kicsapják(Magda Is Expelled /マグダは放校された)』のリメークのようだ。オリジナルの映像は見つからなかったけど、スチル写真を見る限り、デ・シーカは女子商業学校の雰囲気を模倣している。舞台はローマのはずなのだけれど、どこか現実離れしているのは、おそらくそのあたりにポイントがあるのだろう。
それでも、これがデビューとなるカルラ・デル・ポッジョのマッダレーナが溌剌としていて、見ているだけで元気になる。たしかに「素行は零点 ZERO IN CONDOTTA」なのだけど、悪いのはむしろ、口髭にメガネの堅物化学教師だったりするわけで、今でも通じる学園コメディの典型。だいたい教師ってやつはいつの時代も変わらないんだね。
さらに女子生徒たちが個性的で楽しい。特筆すべきは、素直で少し間の抜けたお嬢さん聴講生エヴァを演じたイラセマ・ディリアン(Irasema Dilian)。それから優等生で告げ口屋のバルゲッティのパオラ・ヴェネローニ(Paola Veneroni)が、可愛い顔のおすましさんなんだけど、イケスカない同級生を演じて、よいメリハリをつけている。この女優さんソルダーティの『トラヴェット氏の悲惨』では娘の役で達者なところを見せてくれたっけ。
それから、ヒロインの作文の先生エリーサを演じたヴェーラ・バーグマンが美しい。この映画のヒロインなんだけど、ドイツの人なのね。彼女をイタリア映画の主役に抜擢したのはデ・シーカで、みごとにその相手役を務めている。そのデ・シーカが演じるのは、ウィーンの大財閥の御曹司。とはいえ堅物でも青白いボンボンでもなく、なかなかのロマンチストで、いわば白馬に乗った王子様。
物語が面白くなるのは、エリーサ先生が架空の人物にあてて書いたラブレターが、誤って投函されてしまい、デ・シーカの演じる御曹司の手に渡るところから。なにせロマンチストの御曹司なものだから(デ・シーカがやると説得力があるんだよね)、飛行機に乗って手紙の送り主を探しにやってくる。ところが、送り主だと思った相手を取り違え、その家族や、学校を巻き込んでの大騒ぎとなるという古典的な「取り違え喜劇」。
大変面白いのだけど、現実とは少しばかりかけ離れているし、そもそも登場人物たちがそれぞれに個性的ではあるけれど、リアルではない。どこか現代風の古典演劇を見ているように感じさせてくれるところがよいところ。
デ・シーカは、そのあたりの演出術をマリオ・カメリーニに学び、自分なりに高めてゆくわけだけれど、時代は1940年、第二次世界大戦が始まったところ。その意味でも、現実離れした喜劇だったはず。とはいえそれが、映画というものでもあるはずだ。戦争中であっても、観客は日常を離れて、夢を見たいではないか。だとすれば、カメリーニ/デ・シーカ流の軽やかで、古典的で、女の子たちが元気いっぱいの喜劇はぴったり来る。戦争が始まったときに、戦争や人殺しの話を見たくはないのだから。
だからこそ、映画は大成功を収め、デ・シーカはカメリーニ流の喜劇を撮り続けることになる。しかし、それも『修道院のガリバルディ兵』(1942)まで。それまでずっと、わざとらしい作りものの世界に行きてきたデ・シーカだが、戦争のさなかに、違うものを描きたくなってくる。そして、その可能性を開いたのがチェーザレ・ザヴァッティーニだとの出会いであり、最終的にはふたりで脚本を書き上げた『子供たちは見ている』(1943)ということになる。
イタリア語版のDVDは発売されているみたいだけど、現在は廃盤みたい。探せば見つかるかも。でもYouTube で全編を見ることができる。画質も悪くない。ただし日本語字幕はなし。こんなに面白いんだから、日本語版があっても良いと思うんだけどね。