雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

習合、コンタミネーション、そして臨場性の回復へ

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久方ぶりに内田樹の新刊を買う。あいかわらずさっさと読めた。

いくつかポイントがあるのだけど、ひとつは最近の「理解と共感にもとづく共同体」への拒否感の表明。そいうものは、映画で言えば『エクスペンダブル』的な近ごろの傾向で、やたらべたべたと仲良くしたがっていると批判。

これはよくわかる。空気を読むなんてのは、じつは理解と共感のヴァリエーションに過ぎないし、パトスを同調させるなんてことを強制するとき、同調できないものが排除されるという風景を、ぼくらは何度見たことだろう。

こういうべたべたの共同体(のようなもの)に対して、本物の共同体として内田が対地するのが、映画でいえば『7人の侍』(あるいは『荒野の7人』)的な集団。それぞれが個性的で、身分もバラバラ、それぞれ別々の理由を持ちながら、ひとつの目的のために寄せ集められた集団。じつはこれ、本来の意味での共同体 comune 。だって語源に遡れば「 con-munes (責務を共にする)」のが共同体なのだから。

こういう寄せ集め的なものを、内田は「習合」と表現する。これは、いくつもの教義が折衷されながら了解されたものなのだけど、これが第二のポイント。内田は「習合」これこそが日本的な宗教の骨法と喝破すると、仏教も含めた漢意(からごころ)批判する本居宣長(1730-1801)が、そこからいかに遠いところにあったかを指摘する。

この宣長批判がぼくには刺激的だった。内田に言わせると、宣長の言っていることは、「外国と理想を同一化」してきた日本の批判なのだが、それが結局のところ「日本と理想を同一化」すべきだという訴えに終わっているという指摘する。なんとなれば、この「日本」とは「大和心」と言い換えられるものとして、どこまでも遠い昔から香りくるもの(朝日に匂う山桜花)として、規定とはいえない規定として提起されるだけだというのだ。

なるほど、宣長の「漢意」批判から出てきた「大和心」には、ヴィーコが『新しい学』(1725年)のなかで示そうとした語源学的な方法で示そうとした古代人から立ち上がる「歴史学」の可能性を連想させはするものの、それが古いものであるという意味において無規定のまま称揚される点に関しては、かのナポリの哲学者が厳しく批判した、同時代の学問の「自惚」の一種の変奏曲と捉えられるのかもしれない。

もちろん内田が宣長を批判するのに、遠くヴィーコを引き合いに出すようなことはなく、引かれるのは江戸時代の町人合理主義者、冨永仲基(1715 -1746)の『翁の文』(1746)なのである。そこで冨永は、漢意の儒教も仏教も、そして大和心の神道も、それぞれが歴史的・地理的な状況のもとで生まれたものであるから、今の状況には合わないという主張してるという。したがって冨永の主張は内田によって次のように要約される。「儒仏神はどれも今の世にはあわない。歴史的な存立条件を失ったので、今の人はそれ以外の「誠の道」を求めるべきだ」(268頁)。

今日深いのは、この冨永らの主張が、空海(774-835)の『三教指帰(さんごうしき)』(797年)のスタイルを踏襲していると指摘されるところ。ほぼ1000年前の空海を想起し、その過去のスタイルを召喚することで、思いがけない説得力を持ったという内田の言葉に、ぼくはパゾリーニ(1922-1975)が「過去の力」と呼んだものを連想するのだが、イタリアの文学史なら何度も召喚されるダンテやボッカッチョなどのスタイルにそれを見ることもできるのだろう。

いずれにせよ、あの空海にまで遡るこの「過去の力」は、冨永をへて、さらには中江兆民(1847-1901)の『三酔人経綸問答』(1887年)にも繰り返されてゆく。内田は、千年を経てなお選択される話型の存在に驚きながら、そこに「《日本的》な知性のありよう」を感じたというのである。その「ありよう」とは、土着のものが外来のものと「習合」している「ありよう」なのだが、この土着と外来の混ざり合った状態は、時代のながれのなかで、しばしば、土着のものを分離せよとか、逆に外来のものを駆逐せよという揺り戻しを経験することになる。ようするに「純血状態」が求められるのだけど、そんなものは、そもそもなかったのではないかというのが、この本の主張の核心だ。

だから、内田の十八番の「はっぴいえんど」話が最後に登場し、「日本のロック」が英語で歌うべきか日本語で歌うべきかという問題に、「はっぴいえんど」がまさに音楽的な「習合」の範例を示したという指摘に、ああいつもの内田節だなと安心しながら、なにかがすっと腑に落ちてゆく。ベンヤミンが指摘した映画鑑賞の肝要である「くつろぎ」のなかでの変容というやつなのだけど、ぼくの場合は「習合」というのが「ジャズ」や「ファンク」や「フュージョン」と同じ意味だという発見であり、同時に感染学で言う「感染 contaminazione」が、じつはジャズやファンクなど、異種の音楽の「融合 contaminazione 」であり、それはつまるところ「共に触れること con-tamen (con-tangere)」だという発見だ。

言い換えるなら、「習合」という日本に通底してきた知のあり方とは、この列島が地理的にも歴史的にも、外来のなにかと「共に触れ合う」なかに立ち上がるような、そんなあり方だということ。そして、音楽をやるにしても、イタリア語教師という仕事をするにしても、評論や小説を読むにしても、映画を観るにしても、ぼくがなんだか肌にあうと感じるものが、じつは「習合」で「ジャズ」で「ファンク」で、ようするにコンタミネーションというもので括れるようなものだということなのだ。

だから大切なのは、コンタミネーション(文化的融合)が起こる場所を設定すること。そういう場所を求め、確保すること。ところがそれが今、べつのコンタミネーション(感染)によって決定的に剥奪されているという焦燥感。こいつに苛まれる日々。なにしろ、その場に臨まなければ出会えないなにものか、つまりゲニウス・ロキ(地霊)からもたらせる磁力が今はどうにも欠けていて、だからこそなんとか呼び戻せないものか。それはつまるところ、あの、おどろおどろしく、野蛮ながらも、活力にあふれ、それなしで枯れてしまう力の源泉ともいうべき「臨場性」*1の回復なのではないか。そんなことばかり考えているこの頃なのだから。

 

 

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*1:この言葉は斉藤環氏のブログで教授いただいた。

人は人と出会うべきなのか|斎藤環(精神科医)|note