雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

イタリア映画への誘い(2)

Soundtrack

 

 フェルザン・オズペテクの『向かいの窓』は、具体的にはどんなふうに「すばらしいイタリア映画」なのだろうか。どうして多くのイタリア人をうならせたのだろうか。そのあたりを考えてみよう。

 

 まずは映画の冒頭、こんなシーンから。

 

 暗い通りに人影が現れる。 水たまりを跳ね上げながら石畳の通りを走り抜けて来ると、その若い男(マッシモ・ポッジョ)は何かにおびえるように角に立ち止まり、辺りをうかがう。人影はない。 狭い通りが闇の奥へと続いているだけだ。男は再び駆け出して闇に消える。つい先ほど、彼は人を殺してきたところなのだ。

 

 その場所をグーグルマップで確認しておこう。そこはローマ・ゲットー(ユダヤ人隔離地区)と呼ばれる地区。テヴェレ川のティブルティーナ島の左岸あたりで、反対側には安くて旨いピッツェリーアが軒を連ねるトラステヴェレがある。そこはかつて魚市が立ち、名物料理は魚のスープだという。決して裕福な地域ではない。

 

 続きを見てみよう。カメラは男が闇に消えるのを見届けると、ゆっくりと男の居た場所に戻りながら、男が角の壁に残した血の手形をとらえる。さらにパンが続くと、その動きに合わせるかのように、その血の赤は色褪せて消えてゆく。やがて明るい光が差し込んでくると、そこは別世界のように晴れたローマ。行き交う歩行者、その間をすり抜けるスクーター。あまりに平和な世界の出現に、ぼくたちはしばし唖然としてしまう。

 

 テクニックとしては、ありふれたものだ。カメラのパンと照明の具合で時間の経過を表現するという昔ながらの手法なのだが、それがただ夜から昼へのパンではないことは明らかだ。なにしろ、壁の血が色あせて消えてしまうほど時間が経過したのだ。それに、若い男が来ていた服装は、目の前に現れたあまりにも現代的な人々に比べて、あきらかに時代が違うではないか。

 

 そんなぼくたちの当惑をよそに、カメラは向こうから歩いくるカップルをとらえる。 たわいもない口喧嘩をしているこの若い夫婦は、ジョヴァンナ(ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)とフィリッポ(フィリッポ・ニグロ)。ふたりは現代のローマのありふれた日常の風景にすっかりとけ込んでいる。カメラはこの夫婦の後を追ってゲットーを出る。トラステヴェレに通じるシスト橋だ。その歩行者だけが往来する美しい橋のなかほどで、ふたりが出会うのは、目が虚ろで、手に紙幣を握りしめている老人だ。彼が言う。「わたしはとても混乱しています。何も思い出せないのです」。

 

 橋の上の老人を演じるのはマッシモ・ジロッティ。1918年生まれだから撮影時には85歳。ほとんどノーメークでありのままの自分をさらけ出しているこの俳優は、戦前からの長いキャリアを持つイタリア映画界を代表する名優のひとり(日本ではヴィスコンティの『郵便配達は2度ベルを鳴らす』(1943) や『夏の嵐』(1954)、パゾリーニの『テオレマ』(1968) などで知られている)。実は、そんな名優ジロッティと同じ名のマッシモ・ポッジョが、冒頭の若者を演じているのだが、たんに名前が同じだけではない。ポッジョの容貌は、若い頃のジロッティにそっくりなのである。

 

 そうなのだ。ここでネタバレをしてしまえば、じつは冒頭で若い男(M・ポッジョ)が殺人を犯したのは1943年10月16日の未明であり、カメラのパンがその血の手形が消えてゆくのを追うあいだに、なんと60年近い歳月が過ぎ、2003年のシスト橋で、ふたたびその男(M・ジロッティ)が記憶を失った状態で映し出されていたのだ。だとすれば、この物語の焦点はもちろん、冒頭の殺人事件はなんだったのか、記憶を失った男は今までどんな人生を送ったのか、ということになる。

 

 その話をする前に、もういちど確認しておこう。そこはローマのゲットーだ。そして先ほどぼくは、ネタバレ覚悟でそれが1943年10月16日に起こったことだと言った。たしかにその日にある事件が起こるのだが、それを理解するためにも、1943年がイタリアにとってどういう年だったのか確認しておかなければならない。

 

 1943年は、イタリア史にとって重要な年だ。7月にはムッソリーニが失脚、9月8日には連合軍と休戦協定が発表されるが、その直後、国王と内閣は国外に逃亡、イタリア全土はドイツの支配下に入る。それは、レジスタンスと呼ばれる対ドイツ抵抗戦争 Resistenza の始まりであり、同時に、息を吹き返したムッソリーニファシストたちとの苦しい内戦 Guerra civile の始まりだった。このあたりの事情は、ロッセリーニの『無防備都市ローマ』(1945)や『戦火のかなた』(1946)、タヴィアーニ兄弟の『サン・ロレンツォの夜』(1982)、またフラッツィ兄弟の『ふたりのトスカーナ』(2000)など、またマルコ・トゥッリオ・ジョルダーナの『狂った血の女』(2008)など、多くのイタリア映画が描き出してきた。

 

 しかし、フェルザン・オズペテクが想起させようとするのは、イタリア映画にほとんど描かれたことのない事件である。それは1943年10月16日、ユダヤ教安息日にあたる土曜日の明け方、ローマ・ゲットー地区に住む1022名のユダヤ人の身にふりかかる。まだ誰もが寝ているころ、突然にドイツ兵と警官に踏み込まれた住人たちは、20分で身支度をさせられ、そのまま強制収容所に移送されてしまったのだ。病人や老人、200人ほどいた子どこや乳幼児もふくめて、住み慣れた土地から引き離された彼らのうち、生きてローマに戻ってきたのは17名だけ。うち女性は1名だけだったという。

(参考:http://it.wikipedia.org/wiki/Rastrellamento_del_ghetto_di_Roma

 

 オズペテクは、マッシモ・ジロッティが演じる老人を、そんなローマ・ゲットーのユダヤ人狩りの生き残りとして描き出す。そして、痴呆症を患うこの老人が「何も思い出せないのです」という言葉は、そのまま21世紀のイタリアの人々が、そんな過去について「何も思い出せない」でいることに言及しているようにも聞こえるのではないか(きっと同じことは、21世紀のぼくたち日本人についても言えるのだろう)。

 

 しかしオズペテクは、決してそこに政治的なメッセージを込めるようなことはしない。むしろ彼が、そうした政治的メッセージと孕んでしまう歴史的な事件に触れることなったのは、ある偶然の出来事から物語をかたり起こそうとしたからだ。それについて、彼はこんなふうに語っている。

 

 数年前、シスト橋の近くで年配の男性と出会いました。彼は、手にお金を持ち、自分が誰かわからないと言うのです。はじめ私は、ジョヴァンナと同じように、人を騙そうとしているのだろうと思いました。しかし彼は、30年間家を出たことがなく、街がすっかり変わったことに驚いたというではありませんか。

http://www.cineuropa.org/it.aspx?t=interview&documentID=20746&l=it

 

 

 『無邪気な妖精たち Le fate ignoranti 』が、ローマに住むオズペテクの周囲の人々の、一風変わった共同体に目を向けたものだとすれば、この映画もまた、シスト橋を歩いていたときの彼の目の前で起こった出来事から始まるものだ。その30年間家を出たことがないという老人の話を、オズペテクはローマのユダヤ人狩りに結びつけることになる。それは、決して外国人差別がないとは言えないイタリアで暮らしてきたトルコ人の彼にとって、ある意味で自然な連想だったのではないだろうか。しかし、彼はこの物語を政治的なものにするつもりはないと言う。

 

 わたしは感じるままに語ります。論理的に進めるのではなく、むしろ自分の感情に耳を傾けるのです。たしかに歴史的な事件に言及していますが、『向かいの窓』を政治的映画と見て欲しくはありません。実際、わたしが語ろうと思ったのは、過去に言及しながらも、現在についての物語なのです。

http://www.cineuropa.org/it.aspx?t=interview&documentID=20746&l=it

 

 オズペテクの物語がイタリア人だけでなく、ぼくたち日本人の心さえ打つことできるのは、ここに秘密があるのだろう。「感じるままに語る」こと、そして「論理」ではなく「自分の感情に耳を傾ける」こと。これこそが、逆説的に見えるかもしれないが、あらゆる小説や映画が普遍性を獲得する鍵となるものなのではないだろうか。だからこそオズペテクは、感じるままにローマのユダヤ人狩り事件を呼び起こしながらも、あくまでも自分の生きる現在の物語を語りだそうとする。そして、それが現代の物語となるために、あのジョヴァンナとフィリッポの若い家族の物語が、前夜に殺人を犯しユダヤ人狩りを生き延びた老人の物語に接続されることになるのである。

 

 そんなオズペテクの現代の物語は、マルチェッロ・マストロヤンニソフィア・ローレンが共演したかつての名作を強く想起させる展開をみせるのだが、それについては次回ということで。

  

(続く)

 

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