雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

「剥き出しの生とワクチン」... 訳してみた

 アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』のことはすでに紹介した。そこでのエッセイはすべて、Quodlibet 社のサイトに掲載されたもので、その最後の章「恐怖とはなにか?」(2020/7/13)の後も、アガンベンは執筆を続けている。最新版のエッセイが、今月の16日に掲載された「剥き出しの生とワクチン」だ。

www.quodlibet.it

 読んでみると、アガンベンのエッセンスが見事に集約されているだけではなく、今ぼくたち誰もが感じている不安を見事に言語化してくれているではないか。短いエッセイなので、ささっと日本語に訳してみた。こなれていない箇所はご勘弁。ではご笑覧。

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剥き出しの生とワクチン

 わたしはこれまで、剥き出しの生という形象を思い起こしてきた。事実、感染症があらゆる可能な疑いを超えて示しているのは、人類が信じるものはもはや剥き出しの実存だけになってしまったという事態のように思われる。キリスト教による愛と憐憫の営み、そして殉教さえもいとわない信仰も、政治理念が掲げる無条件の連帯と、労働の金銭への信頼も、剥き出しの生が脅かされるやいなや、二次的な場所へと後退してしまうように見える。その脅威をもたらすリスクの統計的な実態は不確かで、あえてきちんと規定されないままに放置されているにもかかわらずである。

 この概念の意味と起源をはっきりさせるときが来た。そのためには、人間というのは一度定義すればそれで済むような存在ではないことを思い出しておく必要がある。それはむしろ、絶え間なく更新される歴史的な決断の場所であり、その度ごとに人間を動物から、すなわち人間のなかにある人間的なものを、彼の内や彼の外にあって人間的ではないものから隔てる境界を定めるのだ。

 リンネが、その分類学のために、人間を霊長類から区分する特徴を記述しようとしたとき、彼はどうしてよいかわからないと告白すると、ホモ homo という一般名の傍に、古い哲学的なモットー「nosce te ipsum (なんじ自身を知っている)」と書き記すだけに終わる。これがサピエンス sapiens の意味なのであって、後にリンネは、その著書『自然の体系』の第10版に次のように書き加えることになる。ヒトとは自分がヒトであること認識し、それゆえにヒトのものではないものからヒトのものを分類する――決断する ―― 動物である、と。

 この決断を歴史的に実行させてきた装置のことを、人類学的マシンと呼ぶことができる。マシンの機能は、人間を動物的な生から排除し、この排除によって人間を生産することだ。しかし、マシンが機能するためには、この排除がひとつの包摂でもあり、動物と人間のふたつの極のはざまに関節 articolazione があって、動物と人間を分断しながらも連結する閾があることなのだ。この関節が剥き出しの生である。すなわち、まったく動物的であるわけでもなく、ほんとうに人間的でもないものの、その中では絶えず人間と人間ではないものの分類が遂行されている、それが剥き出しの生なのだ。

 この閾は、必然的に人間の内部を通過し、彼の中で生物学的な生と社会的な生を区分する。それはひとつの抽象物であり仮想的な存在だ。しかし、抽象物でありながらも、それはリアルなものとして、その都度その都度、具体的で歴史的かつ政治的に定義された形象のなかに血肉化してゆく。すなわち、奴隷、野蛮人、ホモ・サケルのように、殺しても犯罪とならない対象。あるいは啓蒙の時代から19世紀にかけて、野生児、人狼、そして猿と人間の間の失われた環としてホモ・アラルス。20世紀にあっては、例外状態における市民、ラーガーのユダヤ人、蘇生室における超過昏睡状態の人や臓器移植のために保存された肉体。

 パンデミックの管理において今日問題となる剥き出しの生の形象とは、どのようなものなのだろうか。それはもはや病人ではない。病人は、たしかに隔離され、医学の歴史のなかでこれまでそう扱われてきたように扱われているとしても、そうではない。それは、感染した者である。あるいは ―― 矛盾に満ちた言葉で定義されるように ―― 無症状の病人 il malato asintomatico と呼ばれる者がそうなのだ。どんな人間も、仮想的に、知らないうちにそうなっているところのものである無症状の病人が、剥き出しの生の形象となっているのだ。

 問題はもはや健康ではなく、健康でも病んでもいない生命なのだ。そういうものとしての生命は、病状発症の可能性があるがゆえに、その自由を剥奪することが許され、あらゆる種類の禁止と監視のもとに置くことができるものとなる。あらゆる人間は、この意味において、仮想的に無症状の病人だ。病気と健康の間を揺れ動くこの生命の唯一のアイデンティティは、PCR検査とワクチンを運命づけられていることだ。PCR検査とワクチンは、新しい宗教の洗礼として、かつて市民権と呼ばれていたものの転倒した形象を規定することになる。洗礼は、もはや消すことができないものではなくなり、必然的に臨時的で刷新可能なものとなる。というのも、この新しい市民権は、いつでもその証明書を提示しなければならないのであって、もはや剥奪不能な権利でも解消不能な権利でもなくなってしまい、たんなる義務となって、絶えず決定され更新されなければならないものとなるのだ。

2020年4月16日

ジョルジョ・アガンベン

 

私たちはどこにいるのか?

私たちはどこにいるのか?

 
ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

 
例外状態

例外状態

 

 

ヌメラシー、低くあること、応答可能性、そして世界に参加すること

計算する生命

4/25 

 TWで評判がよかったので、近所の書店で注文。届いてすぐにページをめくる。おもしろい。指で数字を操ながら数的理解に到達するに、どうやら人は痛みを伴う跳躍をしなければならないようだ。
 森田さんは記している。「生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へと押し広げてゆくには、多かれ少なかれ痛みを伴う」。だから韓国には「数放者(スポジョ)」という言葉があり、英語圏には「数学恐怖症 mathemaphobia 」という言葉があるという。それでも、この痛みを乗り越え跳躍を果たすことで、生まれ持っていた「数覚(すうかく)」が少しずつ文節化されてゆく。こうして数字を操る能力としての Numeracy が出来上がってゆく。

 なるほど、パンデミックの時代に問われているのは、文字を操る能力としてのリテラシー literacy に加えて、この数字を司るヌメラシー Numeracy でもあるのだろう。日本で、毎年インフルエンザが直接の原因で死亡する人がほぼ3,000人。インフルエンザにかかったことによって自分が罹患している慢性疾患が悪化して死亡するケース(超過死亡)については10,000人と言われている。コヴィッド19の死亡者数はどうか。東洋経済のサイトを見ると現在までの数字が9,851人。超過死亡についてはそこにはデータがない。これは誰かに調べて欲しいのだけど、聞くところによると、日本はそれほど増えていないらしい。
 この数字をどう理解するか。それがヌメラシーだ。それはたとえば、今問題になっているトリチウム水の海洋投棄の問題もそうだし、その原因となった2011年の原子力発電所事故とそれにとおなう放射能汚染の問題もそうだ。あのとき、ぼくらのなかにあったヌメラシーの貧困。桁が違うという認識をすることができなくて、有るか無いか、それは毒か毒ではないかという幼児退行。それが今でも続いているのだ。

 文字もそうだが、数字というは、「生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へと押し広げてゆく」道具にほかならない。けれども、この道具のことをよく知らないと、それを使うことはおろか、いつのまにか道具に使われてしまうことになってしまう。

 いやはや、まだ読み始めたばかりなのだけど、これは楽しい。なんだか中学生の数学の時間からやり直しているような感覚。しかも、まだまだページがあるぜ、ドキドキ!

 

4/26

 読了。近年でいちばん響いた。すこぶる読みやすい文章。その背後にある教育者としての実践があり、そこから紡ぎ出された知の営みがある。

 だから、フレーゲラッセル、そしてヴィトゲンシュタインと、「言語論的的転換」の流れが、そういうことだったのかと腑に落ちる。

 なによりも掃除ロボット・ルンバの話がよい。ロドニー・ブルックスによる「表象なき知性」とか「世界自身が世界の最良のモデルだ(The world is its own best model.)」なんていう言葉には、グッと引き込まれてしまう。なにしろ一つの中枢がすべてを制御する中枢的なシステムではなく、何層にも別れた制御系が互いを包摂しながら並行して動き続ける非中枢的システムを具現化したルンバ君が、我が家でも大活躍しているのだ。

 この表象なき知性のモデルは昆虫なんだという。なるほど非中枢的なシステムではないか。身体的なセンサーを介して、自分を取り囲む世界に参加する生命。それはまさにハイデガーが着想の源泉とした生物学者のユクスキュルのダニと、その環世界(ウムベルト)。

 ひるがえって僕たち人間はどうなのか。森田さんが披露する人間という表象の系譜学的な解体も素敵だ。人間= Human の語源とはラテン語の「humus(大地)」であり「humilis(低い)」に由来する言葉であること。これを数学的知性による拡張された世界に生きるぼくらの姿と重ね合わせて見せるとき、こんな言葉が出てくることになる。

 「私たちはいま、自分の朝の発熱が、地球規模のパンデミックの局所的な現れかもしれないと感じる。今日の暑さが、生物の大量絶滅を引き起こしている気候変動の一部かもしれないと考える。こうして、いつも自分が、無数の異なるスケールの字武具が錯綜する網(メッシュ)のなかに編み込まれていると実感すること」。

 すなわち、数学を通して出会った「ハイパーオブジェクト」との接触が、ぼくたちに「human」として「低く humilis」あり、その意味で「恥」を感じながら「謙虚」であるべきだという自覚を促すわけだ。もはや人は自然界の頂点ではない。自分を取り巻くすべてのものと同じ地平に低く降り立っているという意識。そして、その地平において、他者の存在に耳をすませ、それに応答すること。そうした意味での応答可能性/責任(responsibility)が、計算する生命に託されている。

 世界を描写することから世界に参加することへの跳躍。ヴィトゲンシュタインの場合それは、田舎引きこもって子供たちを相手に教えること、問題も起こしたようだけれど、それにもかかわらずそうすることによって、もたらされる。少なくとも森田さんはそう読んでいる。
そういうのをキリスト教では洗礼というのだろう。深く沈んで浮き上がること。

 まさに環世界へと深く沈み、みずからの「低さ humilis 」と「恥」と「謙虚」を飲み込んで、そこに身を投げ出すことではじめて、浮かぶ瀬もあるということなのかもしれない。

 

計算する生命

計算する生命

  • 作者:森田 真生
  • 発売日: 2021/04/15
  • メディア: 単行本
 
開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

 

 

宗教となった医療、あるいは、恐怖から逃れるために希望を捨てること

日本の医療の不都合な真実 コロナ禍で見えた「世界最高レベルの医療」の裏側 (幻冬舎新書)

 

あらら、帯に問題になっている歴史学者さんの名前が... でも、内容は面白かったです。

 体長100メートルのゴジラと、1メートルのジャガーという比喩はなんだかピンときました。アジアにやってきたのはもちろんジャガーのほうです。それでも街中で野放しになっていると思うと怖いことは怖いですけど。

 ただ、この本が面白いのはコロナの問題というよりは、病院経営の問題なんですね。イタリアには「家庭医」というのがあるというのは知っていたのですが、この本ではプライマリ・ケア医と呼ばれるものです。ヨーロッパでは、病気かなと思ったらまずはこの「家庭医」あるいはプライマリ・ケア医に相談してから、専門医に行くという順番なっているわけですが、日本ではそうではない。ともかく総合病院に行って、すぐに専門医に診てもらうのが当たり前。ヨーロッパの人からすると、どうしてそんなことができるのかわからない。だって、最初から専門医に行くなんて、自分で病気を診断しているようなものですからね。

 日本の医療はすごく優秀はなずなのですが、どういうわけか、いつの間にか、逆立ちした医療になってしまっていることを、この本は読みやすく指摘してくれます。簡単にいうと、病院を経営することが、医療をダメにしているという指摘であり、それが日本では特殊に歪んだ形であらわになってきている。とくにコヴィッド19による重傷者に対する病床不足。ヨーロッパやアメリカに比べたらそれほど患者数が多いわけではないのに不足しているという事態の背後には、この「病院経営」という問題があるわけです。

 この問題に著者の森田さんが気づいたのは、夕張での医療崩壊(=病院閉鎖)の前後の比較だったといいます。端的に言って、じつは病院経営が病人を作り出していたのかもしれないというのです。ぼくが驚いたのは、病院の閉鎖後、「老衰」という死亡理由が増えたという記述です。森田さんによると、医師にとって「老衰」と死亡診断書に書くことは敗北なんだそうです。

 医者にとって、死亡の原因となった病名を特定できなかったのは敗北だということです。けれども、人は年をとるといつかは死にます。そのときは複合的な理由で死んでゆくのであって、ひとつの病名に原因をしぼることなんて、そもそも不可能ですよね。しかし、大きな病院に入院し、身体中にチューブを差し込まれ、生命反応をモニターしているような状態のなかだと、最終的な死因を特定しやすくなります。まあ、最後は心不全と書けばよいのですが、それはモニターでチェックしているから言えること。

 実際に人が老いて死ぬときは、複合的に死ぬのであり、それも自宅で、家族に見守られながら、息を引き取ったのなら、「老衰」という診断も出てくるはず。ところが、夕張では、医療崩壊=病院閉鎖の前には「老衰」はほとんど0%だったのが、崩壊=閉鎖の後には大きくその割合を増やしたというのです。言い換えるならば、医療が経営しているとき何らかの死因がついていた。極端に言えば、病名や死因をつけることが経営だった。ところが、医療の経営が破綻した後では、「老衰」が増えてゆく。老いて、衰えて、自宅で、誰かに看取られて死ぬことができるようになった。死は経営の対象ではなく、生の営みのなかに取り戻されたともいえるのかもしれません。

 森田さんは、誰もがそれなしには不安でしかたがなくなった医療を「宗教になった医療」と呼んでいます。これは医療が経営になったことと関係します。経営の背後にはたらく理念は資本の理念ですよね。じつは資本主義は、商品をそれなしには人々が不安になるようなものとして売りに出すようなシステムです。いらないものを買わせるわけにはゆかないのですが、それなしには不安になるように仕向ければ、誰だってその商品を買ってくれるからです。その意味で、資本主義もまた宗教になっている。

 こう考えてくると、アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』(青土社)での指摘を思い出します。このイタリアの哲学者もまた、医療などの科学を宗教と呼んでいます。そしてその宗教が、バイオ・セクリティーを振りかざして人々に不安と恐怖を与えることで、その解消をうたいながら、希望をかかげるものだというのです。だから「希望を捨てたものだけに希望がある」という逆説的なフレーズを記すわけです。

 注意すべきは、「希望を捨てる」という意味を取り違えないことです。「希望」とは「恐怖」や「不安」に対する護符なのです。宗教は「希望」という護符を売ることで、宗教としてなりたつものなのです。ならば、護符を買わなければどうなるのか。バチがあたるぞと言われます。「恐怖」「不安」があおられるのです。「希望を捨てる」ためには、そそのかされないことです。「不安」「恐怖」というものは、どこにでもあるものであり、むしろぼくらはそんな「不安」や「恐怖」に開かれている、そう思い起こさなければなりません。

 「《不安》や《恐怖》に開かれている」というのは、簡単にいえば、どうせ「死ぬ」のが運命であり、そこから逃れることは誰にもできない、そう覚悟することです。この覚悟のなかにあることが、「希望すてることによって希望がある」状態なのではないでしょうか。

 森田さんの本は、そのあたりをきちんと見つめていると思います。「希望を捨てる」ための知恵が散りばめられています。そのひとつひとつに触れることで、売買される希望がボロボロと落ちてゆきます。そこに残されるものこそが、ぼくらの生きる身体なのかもしれません。

 

私たちはどこにいるのか?

私たちはどこにいるのか?