雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

アガンベンの『私たちはどこにいるのか? —— 政治としてのエピデミック』をめぐって

私たちはどこにいるのか?

 

ジョルジョ・アガンベン

『私たちはどこにいるのか?政治としてのエピデミック』

高桑和巳訳(青土社2021年)

 

 

45日に購入。

 こんなにすらすらと読めるアガンベンがあっただろうか。しかも、読み始めたら目から鱗がボロボロと落ちてゆく。「私たちはどこから来たのか」でもなく「私たちはこの先どこへ行くのか」でもなく、単に「私たちはどこにいるのか」、それこそが今立てるべき唯一重要な問いだというのだ。

 

その記述は、パンデミックのもとで非常事態宣言が長引いている状況が「例外状態」の日常化であり、大学や学校がこれを限りにと閉鎖され、政治的もしくは文化的な話をする集会が中止され、デジタルなメッセージだけが交わされる世界へと、なんの躊躇いもなくむかってゆく状況をあぶりだしてゆく。歴史学者は、今の時代を振り返るとき、死者の葬儀をゆるさずに焼き払い、移動が制限され、友人や愛する人と交わる自由を奪われた人々が、それに甘んじているとは、なんたることかというわけだ。

 

アガンベンは、ネットを介した情報通信技術が人間的な接触/感染を肩代わりしてくれることに、誰もが身を任せているような状況は、かつて民主主義からファシズムが生まれた状況と重なるものだと指摘する。あたかも、みんなで社会的距離を保ち、ロックダウンのなかベランダで歌を歌って元気付けあい、外出するときは外出申請書とマスクが欠かせない状況を耐えべきだと考える人々から、それこそ激しい反発を招く。

 

ジャン・リュク・ナンシーを初めてする知識人たちも驚き、はげしい失望を隠さない。その言説がドイツで右翼から引用されたとき、その釈明に向かったアガンベンのインタビューはカットされて、ようやく掲載されたという。イタリアではクオリティーペーパーからの依頼原稿が、その内容から、掲載を断られることもあったようだ。 

 

たしかにアガンベンのもの言いは反時代的だ。ぼくなんかも、大学でオンライン授業を行なっているし、講座主任をする学校ではオンラインの旗振りを行なってきた。ところがそれは、アガンベンに言わせると「情報通信的独裁」への忠誠にほかならず、かつて「ファシズム体制に忠誠を誓った大学教員」と等価だと断罪されてしまうのだ。

 

f:id:hgkmsn:20210409003153p:plain

しかし、それがみごとに正鵠を射るものでもあることも、認めないわけにゆかない。アガンベンから「なるほど私たちの大学は、惜しんでも嘆くこともできないほどの腐敗と専門的無知の点に達してしまった」と言われたら、なるほどそうかもしれないと思ってしまう。ぼくらが死んでゆく社会現象としての大学教育に携わっているのかもしれない、というのは実に説得力がある。

 

それはいわば、もはや先のない核燃料リサイクル施設で働いている職員に似ているのかもしれない。終わりに近づくだけのものであるとしても、そこでの仕事はやめるわけにはゆかない。各施設はたとえ稼働することがなくても、無事に廃炉にいたるまではメンテナンスしなければならないのだから。同じように、やがて死にいたる大学教育であるにしても、あるいは「情報通信的独裁」への忠誠だと言われようとも、仕事を拒絶したとたん明日からのご飯に困ってしまう。反発したくもなろうというものだ。

 

しかし、アガンベンが批判しようとしているのは、人が自由に移動して、友人や恋人など会いたい人と会うことが、情報通信機器を介してではないとできなくなるという事態だということは、確認しておかなければならない。たしかにそれは、感染症の危険がなくなるまでの限定的なものだと言われているかもしれない。しかし、すでに変異株が発生し、緊急事態が繰り返されるなかで、限定的という言葉は虚しく響く。そしておそらくは、すべての例外状態がそうであるように、あるていど感染症がおちついた時点でもなお、健康上の理由(バイオセクリティ)が取り沙汰され、例外状態は延長を重ねられることになるはずだというのは、なるほどもっともなことではないか。

 

遠隔事業のためのテクノロジーは、今後教育産業では不可避の投資対象になるのは目に見えている。感染症が問題になる前から、情報通信テクノロジーの売り込みは続けられていたわけだから、推して知るべしだ。このテクノロジーは、あらゆるテクノロジーがそうであるように、今後もぼくたちを呪言(ことほぎ)ながら呪(のろ)うことになるに違いない。

 

第一次世界大戦自動車産業が発達し、飛行機が空を飛び回るようになるのだが、ぼくらはその技術なしではもう暮らせなくなっているではないか。第二次世界大戦で原爆の副産物である原子力発電もそうだ。原子力産業は、どれほど先がないものに見えたとしても、もはや人間の意思を超えた自律性を持っているように思える。

 

吉本隆明は「反原発」を批判して、原発は続けるほかないと明言したけれど、そこにあるのは科学への楽観主義ではなく、それが人の制御を超えた自律性を持ったものとして動き始めているという状況認識にほかならなかったのだろう。

 

戦争のあとに、呪われた技術が残る。そしてぼくらはもはや、その技術なしに生きることができなくなる。アガンベンは、それをオランダの科学者ルイ・ボルク(1866-1930)の「胎生児仮説」(fetalization theory)から指摘する。ボルクによれば「ヒトという種の特徴は、環境への適応という自然な生命プロセスが徐々に阻害されてゆくところにあり、環境への適応は、環境を人間に適応させるためのテクノロジー諸装置が肥大的に増加することによって置き換えられてゆく」(p.105)のだというわけだ。

 

これはむかし、岸田秀なんかが「本能の壊れた人間」という言い方をしていたものと響き合う。それが他の動物と違うところなのだが、だからこそおかしなことが起こってしまう。おかしなことで済んでいればよいけれど、呪われてはいても人間を利するものであった技術は、ある時点からプロセスを逆転させ、その技術が人間に襲いかかる。「病気を治療すべきだった医学がいま、病気よりもさらに大きな悪を生み出す恐れがある」(p.106)、そうアガンベンは言うのだ。

 

その意味で、パンデミックは医学ではなく政治的なものとなる。というよりもアガンベンによればそれは、そもそも政治的なものであったという。

 

「エピデミックという用語は、政治体としての人民を表すギリシャ語の demos に由来しています。この語源が示しているように、エピデミックはなによりもまず政治的概念です。ポレモス・エピデーミオス(polemos epidemios)〔文字通りには人民(デーモス)に広がる戦争(ポレーモス)〕というのは、ホメロスでは内戦を指します。今日、私たちにはっきり見えているのは、エピデミックが政治の新たな現場、世界的内戦の戦場になろうとしているということです —— というのも内戦が、内部の敵、私たちの中に住んでいる敵を相手取った戦争だというのは明らかなことだからです」(p.140)

 

この「私たちの中に住んでいる敵を相手取った戦争」において、掲げられるのは、なによりも大切なのは健康を守ることだという大義になる。かつてはテロから国家を守るためのセキュリティは、いまやウィルスから健康を守るたものバイオセキュリティとなる。

 

「バイオセキュリティ体制において民主主義的な政治パラダイムがいかに深刻な変容を被ったかは、ただひとつの例を示すだけで明らかに示されると思います。ブルジョワ民主主義において、すべての市民は「健康権」を持っていました。この権利がいまや、人々の気づかぬうちに、いかなる対価を払っても果たすべき、健康への法的義務へと顛倒してしまっています」(p.142

 

そうなのだ。健康は求めるべき権利ではなく、もはや押しつけられた義務となった。健康でいるために、ぼくらはマスクを被り、ロックダウンを受け入れ、リモートによる社会生活を余儀なくされている。それはまさに、パンデミック感染症の爆発的広がり)のあとのパンデミックな(すべての民衆の広がってゆく)戦いとして、誰もが黙々と従うことを受け入れている。

 

このパンデミックにおいて、ぼくらが頼りながら僕らを統治するのは、携帯電子端末を介した情報通信的テクノロジーだ。だからこそ通信料をなるべく安く設定して、誰もがスマホを手にしていることが重要になってくる。それはテクノロジーによる経済的・政治的な独裁だとアガンベンは言う。ただし、その独裁は、個人によるカリスマ的な独裁ではなく、もはや人間からの制御がきかなくなったシステムによるシステムを通しての独裁であり、簡単にいえば映画『マトリクス』の世界が実現しつつあるということにほかならない。

 

できることはない。それがマトリクスであるならば、目覚めるためには、夢の中に止まって、それが夢であることを示す歪みを見つけるしかない。そしてもし、ザイオンからの侵入者によって薬を飲むか飲まないかの選択を迫られることがなければ、プラグインされた剥き出しの生からの生体エネルギーを少しずつ搾取されるほかないわけだ。

 

あるいは、ムッソリーニの肝いりで作られたチネチッタ撮影所のコミュニスト映画人のように、ひそかに独裁を超えてゆく文化を耕してゆくのもよいだろう。秘密結社のような場所を開きながら、そこからやがて「新たなウニウェルシタス」が現れるのを待つほかないのかもしれない。いずれにせよ、自分たちが一体、資本主義という宗教が力を失い、民主主義体制はすでに体裁だけで終わりにつかずきつつある中で、いったいどの地点にあるのかをはからなければならない。その意味で、「私たちは今どこ地点にいるのか? A che punto siamo? 」(これが本書の原題だ)が問われなければならないということなのだ。

  

その上で、ぼくたちがいったい何を失って、何を得たのかを問い直すことが、今、哲学が立ち上げるべき問いなのだとアガンベンは言う。だからこそ彼は、かつて学生の組合として成立したウニウェルシタスへと立ち戻る。そこには、招聘した講師なんてそっちのけで、各地から集まった学生たちが、それこそ夜を徹して語り合う共同体が想起される。姿を少しずつ変えつつも、その共同体は面々と、ぼくらの国の今にも、引き継がれてきている。それはたしかにそうなのだ。

 

しかし、非常事態下の遠隔授業が始まったとたん、この学生の共同体は息の根を立たれたように見える。少なくともアガンベンはそう嘆いている。でも、嘆いているのはアガンベンだけじゃない。多くの教師たちもまた嘆いている。すくなくとも教師たちは、かつての学生の成れの果てなのだ。だから、この教師たちは、情報通信的独裁に忠誠を誓いながらも、チネチッタコミュニストのように、ひそかにインスティテュートとしての大学を拒否したり、あるいは失われつつある大学のなかで途方に暮れながらも、かつての共同体への憧れを捨ててはいないし、それが失われつつあることに敏感なのだ。

 

一方で学生たちにしても、みずから飛び込み居場所を見いだせると信じた大学に裏切られ、失望したとしても、その失望のなか、きっとどこかで、新たなウニウェルシタスを組織しつつある。きっとそのはずだと思う。ぼくら教師にできることは、そうであることを祈ることと、そのきっかけとなるかもしれないヒントを語り続けるだけかもしれない。そしてもひとつ、なにも恐ることはないと言い続けること。

 

アガンベンは、恐れなくてもよいという言葉をハイデガーによって組み上げ、この本の最後に訴えている。ぼくらが恐れているということは、ぼくらが世界に開かれてることを示しているにすぎない。だからこそ、ウイルスを恐れることができる。しかし、なぜ恐れるのか。それはただのウイルスではないか。恐れているというのは、本質的には、ウイルスに対して自分は無力でありたと思ってしまっているからではないのか。ぼくらは、恐れるという気分の中にいるだけなのかもしれない。だって怖がっていれば何もしなくて良い。何もしなくてすむという欲望こそが、恐怖の正体なのではないのか。そして権力は、そこを利用する。人々を恐怖させれば、人は慌てふためき思考を止めて、恐怖という「無力でありたという欲」に取り込まれてしまう。
 

今や宗教となった医学が行なっているのがそれだ。病気を恐怖としての病気とするとき、恐怖にかられた患者たちが、医者の祭壇を前にしていっせいに礼拝する。そして恐怖を取り払ってやろうと患者たちに告げる医者が行なっているのは、恐怖のマッチポンプと呼ぶのが適切かもしれない。それはマッチで火をつけておいて、その火を消してやろうとポンプで水をかけてやるのだ。

 

だから、希望を与えてやろうとすべての言説は、絶望の言説だと心しなければならないのだろう。絶望の恐怖によって無気力に陥った者に、希望という薬を売るのだ。まさに絶望のマッチポンプ。逃れる道はただひとつ。希望にしがみつかない、希望は捨てることだ。

 

僕らは今「希望を捨てたものだけに希望が与えられる」ような世界に生きている。「希望」を語ることが政治的なトラップだと言ったのは、マリオ・モニチェッリだったと思う。モニチェッリに言わせれば、「希望」という言葉はまやかしであり、最も警戒すべき支配者のトラップだという。

 

そう言う意味で、否定論者も陰謀論者も、この「希望」のトラップにかかってしまった人々なのだろう。もちろんぼく自身にしても、彼らを笑うことはできない。つい希望のようなものに飛びつきたくなる。けれども、アガンベンやモニチェッリに言わせれば、それが欺瞞だ。問うべきは「今自分はどの地点にいるのか」という問いなのだが、それは生半可ではない覚悟のいる問いでもある。そのことをアガンベンは、ミシェル・ド・モンテーニュの次の言葉を引くことで示そうとしたのではあるまいか。

 

死が私たちをどこで待っているかは定かではないのだし、私たちのほうが死を至るところで待とう。死についてあらかじめ熟考することは、自由についてあらかじめ熟考することである。死ぬことを学んだ者は、隷従を忘れたのである。いかに死ぬかを知ることはあらゆる隷属や拘束から私たちを解放する。(p.71, p.93)

 

まるで葉隠のようなことを言うモンテーニュだけど、ぼくはなるほどと思った。こちらのほうで死を待ってやればよいのだ。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と武士道ではいうけれど、死を思うとはそういうことだ。もがいていたら沈むしかない。溺れる人が希望というワラにすがるとき、その人はじぶんが「どの地点にいるのか?」が分からなくなっているのだと言い換えても良い。流れに身を任せるしかないという諦念は、死を前にしたときの生の跳躍なのだけれど、恐怖に囚われた瞬間、容易に死の餌食になるだけではなく、生と死の間に宙吊りにされ、管理される肉体として、隷属し拘束されてしまうことになる。その拘束するベルトも、隷属させる鎖もすべては、コトバでできている。

 

だからこそ、哲学はコトバを系譜学的に解体し、新たに組み換えようとする。コトバを自らの生の形式として創造しなおす必要があるのだ。アガンベンが行なっている系譜学的な探究というのは、きっとそういうものなのだろう。

おそらくは、そういう意味にとればよいのだ。訳者の高桑さんが、その「あとがき」のおわりに翻訳・引用するアガンベンの詩をおいたのは。なんといっても詩(poesia) こそが、クリシェを繰り返すだけの「言語の自動機械」に堕することなく、言語をみずからの母語としながら、みずからの生の創造(poiesis)する手段にほかないのだから。

 

f:id:hgkmsn:20210409003118p:plain


上の翻訳のイタリア語の原文は以下の通り。

 

Si è abolito l’amore

 

Si è abolito l’amore

in nome della salute

poi si abolirà la salute.

 

Si è abolita la libertà

in nome della medicina

poi si abolirà la medicina.

 

Si è abolito Dio

in nome della ragione

poi si abolirà la ragione.

 

Si è abolito l’uomo

in nome della vita

poi si abolirà la vita.

 

Si è abolita la verità

in nome dell’informazione

ma non si abolirà l’informazione.

 

Si è abolita la costituzione

in nome dell’emergenza

ma non si abolirà l’emergenza. 

 

https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-si-bolito-l-a

 

私たちはどこにいるのか?

私たちはどこにいるのか?

 

 

「Ignorante」をめぐって

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Narrenschiff_%281549%29.jpg

 共同通信によると、テニスの大坂なおみさんが、2月6日にメルボルンで記者会見し、東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の女性蔑視発言について「いいことではないし、その背景を知りたい。情報不足で少し無知な発言」と述べたという。この日本語訳について疑問を投げかかるツイートがあった。次のとおりだ。

  大坂さんの言葉を英語にまで遡り、なるほどそれが「I feel like that was a really ignorant statement to make.」だったのかと知ることは大切なこと。けれども、ここでもこの文章をどんな日本語にすべきかという政治的な言語ゲームには参加する気はないが、「 ignorant 」という言葉は気になるので、以下にメモを記しておく。メモやノートはFBにつけていたのだけど、このまえノート機能がなくなってしまったので、少しご無沙汰していたこのブログをノート代わりに使おうと思ったというわけだ。

 イタリア語でも「ignorante 」というのは「モノを知らない人」という意味で、羅語 「ignorare」 (知らない、知らないことする)に由来。これは形容詞「ignarus 」を経て、否定の接頭辞「 i- 」をはずした「 gnarus」(知ること)に遡る。

 「gnarus 」はイタリア語の「 co(g)noscere」(知る)や「 (g)noto」(知られた)あるいは「ignoto」(未知の)、または「(g)nota」(注釈、知の印)などに派生、印欧諸語の語根「 gno-/gna- 」(知)が共通していることがわあかる。

 興味深いのは「 (g)narrare」(語る)も「gna-」に由来し、「知る状態に置くこと」という意味だったというだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/Lion-faced_deity.jpg

 因みに 「グノーシス主義」のことを言う gnosticismo も同じ印欧語の語根「gno- 」を持つ希語「gnosis」(知)からなる言葉。グノーシス主義は1世紀ごろの地中海世界にみられた思想潮流で、ユダヤ教キリスト教的な伝統や権威に基づく見解よりも、個人の宗教的な「知」を重視する。

  そんなグノーシス主義の文脈で興味深いのは、この思想潮流が、それまでの正統的な見解への反発のように見えること。伝統や権威がシステムとして動きだしたところで、個人は個人的な「知」から遠ざけられ、ある意味で「ignorante」(無知な者)たることを余儀なくされる。

 権威が権威として機能しているとき、その言動はただ受け入れられる。しかし、権威が権威を失いつつあるとき、その代表者は自らの姿を「無知な者」(ignorante )として晒すことになる。寓話的には「裸の王様」だろうか。

 問われているのは、その王が「無知なる者」として自らが裸であることをさらすとき、王の無知を無知と見ることを可能にしたその「知」(gnosis )のあり方であり、それをいかにして「語る」((g)narrare)かということなのだろう。
 

朝カル新宿「ヴィスコンティとは誰だったのか」(1)と(2)

f:id:hgkmsn:20201220231948j:plain

2020/9/12 朝カル新宿、「ヴィスコンティとは誰だったのか(1)」
 
 ひさしぶりの対面式でしたが、フェイスカバーはどうにも嫌なので、結局はマスクをつけて喋ることに。ときどき息が苦しくなりましたが、それでもリモートとは違う高揚感に後押しされて言葉が出てくる感じがありましたね。
 ここ2週間ほどは、ヴィスコンティを復習しながら、ずいぶん発見がありました。両親の出自と別居の話しが、彼の人生のなかでどんな意味をもった、今回はちょっと考えてしまいました。やっぱりヴィスコンティは、そのルーツがあって、その上ではじめて、どんな人であり、どんな選択を重ね、どうしてその作品、どうしてその方法で表現したか、そんなことが問われるわけです。
 もちろん、そんなことを考えなくても、作品は作品として楽しめば良いというのもあります。それでも、デビュー作の『郵便配達は2度ベルを鳴らす』のオープニングシーンで、マッシモ・ジロッティクララ・カラマーイのトラットリアに入ってくるところなんて、それまで35年のヴィスコンティ人生が反映しているように読めてしまうし、そう読むことの楽しみというのも、あるのだと思います。
 今回の最後に話したそのシーンでは、撮影の細かいカット割や流れもさることながら、ふたつの音楽の引用がとても興味深い。見直しながら初めて気がついたのですけれど、最初におぼつかないピアノの調べで、ヴェルディは『椿姫』(1853年)の「プロヴァンスの海と土」の旋律が流れてきて、次に当時の流行歌の『フィオリン・フィオレッリ』(1939年、ヴィットリオ・マスケローニ作曲、ペッピーノ・メンデス作詞)を歌うカラマーイの声が聞こえてきます。何の違和感もなく重なりながら、肩や無闇な恋に落ちたものを呼び戻そうとする歌であり、肩や恋に落ちる気持ちを歌うもの。意味としては正反対のベクトルを持ちながらも、高揚する気持ちがやがて破局を招くまでにいたる「盛衰」あるいは、必然的な「没落」が、ヴィスコンティのデビュー作冒頭からは示されているように思えてなりません。
 それはミラノの名門出身貴族でありながら、共産党支持を表明して冠せられた「赤い貴族」という、あのバロック的な形容詞に似ています。それは、相矛盾するもののなかに置かれた人間が、それでも生きようとする力のありようなのかもしれません。生まれてきたからには、その場所に生きることを引き受け、苦しみと喜びのあいだで、やがては衰え退場してゆく。そんな人間の真実に、映画や演劇やオペラを通して、迫ろうとしたように思います。
 人間の真実とは、結局のところ生と死のあいだにあって一瞬の輝きを放つもの。それを「自由への希求」と呼ぶならば、「生まれるのも死ぬのも大変だけど、たぶん死ぬ方が楽だ」と語るときのヴィスコンティが、生涯をかけその実存主義の旗として掲げるものなのかもしれません。

 

2020/12/19 朝カル新宿 「ヴィスコンティとは誰だったのか(2)」

 先週の土曜日(12/12)に「フェリーニと旅するイタリア」と題して朝カル立川で話してきて、その一週間後にヴィスコンティの第2回目。けっこうハードスケジュールでした。とはいえフェリーニヴィスコンティも何度か話したお題なので、なんとかなるとは思ったのですが、それでも同じことをしゃべりたくはありません。結局はまたあちこちあたって、最初から調べ直すことになるのですが、今回はそんなに時間もなく、なんとなく前回にちょっと深めたオペラと映画の関係を調べてみようと、前日から当日の朝にかけてドタバタ。けっこう疲れました。

 さて2回目ではあるのですが、初めての方もいらっしゃると思って、まずは映画ポスターでヴィスコンティのおさらい。晩年の『イノセント』と『家族の肖像』が、それぞれダンヌンツィオとマリオ・プラーツが背景にあることをさらりとふれて、ドイツ三部作の『ルートヴィッヒ』、『ベニスに死す』、『地獄に堕ちた勇者たち』)はヴィスコンティの極点かもしれないという感想から、『異邦人』と『熊座の淡き星影』の2作品のもつアクチュアルな意味は無視できないし、かなり興味深いよねという話から、あの『山猫』と『若者のすべて』へ。『山猫』はランペドゥーサの映画化として有名なのですが、『若者のすべて』が実のところヴェルガの「マラヴォッリャの人々」と響き合っていることと、どちらにも背後にはアントニオ・グラムシの南部問題が横たわっていることなんかを思い出して、『白夜』というぼくの大好きな作品のことは一言「これ好きなんです」ですませ、今回のセミナーの話の目標が『夏の嵐』であると申し上げました。

 いやこの『夏の嵐』(1954)、ネオレアリズモを超える傑作なんですよね。どういう意味かというと、ヴィスコンティが目指した映画がひとつの形として現れているのだと思うのです。それを彼は「チネマ・アントロポモルフィコ」と呼ぶわけですが、その話はあとで触れるとして、もうとつ、これ、ヴィスコンティの作品のなかで、はじめて興行的な成功を果たした作品でもあるのです。

 今回のセミナーは、そんな『夏の嵐』へといたる道筋を、まずは前回の到達点である『妄執(郵便配達は2度ベルを鳴らす)』(1943)から辿ってみることにしました。なにしろ一人の映画監督が、どんな時代に、どんな作品を、どういう理由で撮ろうとしたのかって、けっこう重要なんです。そこにひとつの流れが見つかれば、ああそういうことだったんだと思うことが多々あるからです。たとえば『夏の嵐』の場合は、絢爛豪華な時代劇だけど、単純なよろめきドラマにすぎないじゃないかという人はたくさんいるわけで、実はぼくも最初見たときはそう思っていたのです。ところが、『妄執』からのヴィスコンティの作品を辿り直し、その後の展開を見てみると、この『夏の嵐』と言う作品は、ヴィスコンティのなかでもとりわけ重要なものなのではないかと思えるようになってきたのです。実際、ぼくはカルチャーの授業で受講生のみなさんとイタリア語で脚本をじっくり読む機会があったのですが、これがもう実に深い内容なのです。そして、その内容の深さに気づくためにも、それまでのヴィスコンティを知ることが大切なのです。

 さてヴィスコンティのデビュー作『妄執』が公開されたのは1943年の7月です。その7月に連合軍がシチリアに上陸、ムッソリーニが失脚、同年9月には休戦協定が発表されます。事実上の敗北宣言なのですが、同時に、ヴィットリオ・エマヌエーレ国王とイタリア政府は国外に逃げ出します。それは同時に、ナチスドイツはイタリア全土を占領、ムッソリーニ復権させ傀儡政府を作るわけですが、そんなナチ=ファシスト政権のもので、抵抗運動を起こしたのがレジスタンスというやつですね。

 このレジスタンスを具体的にイメージしてもらうために、ロッセリーニの『無防備都市ローマ』のマニャーニの銃殺のシーンを見てもらいました。この映画ではアンナ・マニャーニが、テレーサ・グッラーチェ(Teresa Gullace 1907-1944)というナチスに殺された女性を演じて、映画史にその名を残すことになるわけですが、実のところそれよりも前にヴィスコンティが彼女を『妄執』に起用して撮影を始めていたのです。マニャーニはそれくらい個性的な舞台女優であり、この人についてはいちどきっちりまとめなければなりませんね。

 さてそのマニャーニなのですが、撮影中に妊娠(essere in stato interessante)が発覚し、結局はララ・カラマーイが代役に立つことになるわけです。カラマーイも悪くないですけどね。彼女は彼女でファムファタールを見事に演じていますが、それでもマニャーニの迫力に比べると、見劣りすることはいなめません。いずれにせよヴィスコンティは、あとでふれる『ベッリッシマ』で彼女を起用しリベンジを果たすことになります。

 閑話休題レジスタンス闘争のころのヴィスコンティは、ローマにいて自宅をレジスタンスの活動家の隠れ家に提供していたといいます。ヴィスコンティは、雑誌『チネマ』の仲間を通して、当時は非合法だった共産党に接近し、その後も終生に党との縁を切ることはありません。1944年の4月に、ヴィスコンティレジスタンスに加担したことで逮捕されます。とはいえ貴族ですから、それなりのもてなしをされたとも言われていますが、それでもレジスタンスは非合法活動ですからね、すぐに処刑される可能性もないわけではなかった。幸い、同年の6月4日、連合軍によってローマは解放されます。もちろんヴィスコンティも解放され、戦後を迎えることになるわけです。

 戦後のヴィスコンティは映画を諦めたわけではないのですが、なかなか企画が実現しない状態が続きます。その間に彼が精力的に活動したのは演劇でした。コクトーの『恐るべき親たち』、ジャック・カークランドの『タバコ・ロード』、ホモセクシャルを取り上げたマルセル・アシャールの『アダム』、テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』などを次々と演出してゆきます。そしてその演出のリアリズム(ボロを纏わせ無精髭そのままの役者たちを舞台にあげるような演出)や、ホモセクシャルのような危うい題材も取り上げるなど、戦後の演劇界に革命をもたらすことになるわけです。

 そんなヴィスコンティが、ついに映画を撮れるようになるのは、共産党からの依頼でした。それは1947年のことでした。前年にイタリアは国民投票によって王政を廃止し、共和制を選んでいました。1948年には共和制体制での初めての総選挙が行われるよていでした。そこで共産党は、ヴィスコンティに、党を宣伝するようなドキュメンタリーを頼んだということのようです。この機会をヴィスコンティは最大限に利用することになります。最初は記録映画をとるための最小限のスタッフとともにシチリアに向かいます。それはアーチ・トレッツァという漁村。ほかならぬヴェルガの『マラヴォッリャの人々』の舞台となった村なのです。だから最初から構想は明らかでした。ヴィスコンティは記録映画を撮るふりをしながら、あの『妄執』から実に4年目のブランクを経て、新しい映画を撮ろうとしていたわけなのです。

 そんな『揺れる大地』を、今回のセミナーでは『ニュー・シネマ・パラダイス』から引用することから始めました。まだ焼け落ちて「新しく」建て直される前のパラダイス座で、『揺れる大地』が上映されるシーンです。映画が始まるると、パラダイス座の案内男(maschera)と村のお客の一人が顔を見合わせます。スクリーンの字幕を見ながら、「おい分かるか?」「あいにく文字は読めないんだ」と言葉を交わすシーンです。スクリーンには「イタリア語は貧しい人々の言葉ではない」(La lingua italiana non è la lingua dei poveri.)という文字が見えます。このふたりは、まさに「イタリア語」を読むことができないというわけなのです。

 これはイタリアは統一以来、イタリア語がずっと問題だったことを思い出しておく必要があます。1861年の統一直後、イタリア語を読みかけできる人はほんの一部でした。その後の教育の普及で識字率は上がってゆきますが、それでもシチリア識字率はそれほど高くはありませんでした。だから『ニューシネマパラダイス』のアルフレードだって小学校に入り直したではありませんか。だからほとんどの外国映画はイタリア語に吹き替えられました。だから小さなトトだって、映画館に入り浸るようになるわけです。もしも映画が字幕で上映されていたら、はたしてトトはあれほど早くから映画好きになっていたかどうか、そのあたりを考える必要がありますね。

 さてトルナトーレが『ニューシネマパラダイス』の舞台としたのはジャンカルドという村です。これは架空の街で実際にはパレルモ近郊の監督の故郷バゲーリアですね。では、この村の住民で、イタリア語が読めなかったあの二人(観客と劇場案内係のふたり)は、『揺れる大地』のセリフを聞き取ることができたのでしょうか。もちろん、ある程度は聞けたのでしょう。しかし、当時この映画を観たレオナルド・シャーシャが言うように、ヴィスコンティの映画から聞こえてくるのはカターニアのアーチトレッツァという漁村のかなり強い方言 vernacolo であり、理解するのがかなり難しかったと回想しています。だとすれば、パレルモ近郊のバゲーリアの人々にもそれほど簡単ではなかったはずです。シチリア以外の上映では、イタリア語の字幕がついたといいますし、その後、イタリア語に吹き替えも行われたと言う話もあります。ようするに、ヴィスコンティの『揺れる大地』のセリフは、カターニアの漁村の人々にしかわからないような響きに満ちていたというわけです。

ここにヴィスコンティロマン主義を見ることができる。その1941年のエッセイ「伝統と文明」において、カターニャの散歩中にヴェルガと出会ったというヴィスコンティは、なによりもその方言の音楽性に惹かれていることに注目すべきなのでしょう。

ごく普通の読者が、ヴェルガの小説に最初は表面的に触れるだけでもそこに可能性を感じて魅了されるとすれば、それはこの小説の「内的で音楽的なリズム」によるものではないだろうか。だとすれば、『マラヴォリア家の人々』を映画化するときの鍵のすべてはここにあるのではないだろうか。つまり映画化の鍵は、このリズムの魔法を聞き取って、捕まえることなのだ。それはすなわち、未知なるものへのあの微かな憧れがもたらす魔法なのであり、この世の中の何かがおかしいとか、あるいは、もっとましであってしかるべきだと気づくときの魔法であり、それこそは運命の戯れがつくる詩の実質にあるものなのだ。

ヴィスコンティはまさに、漁民たちのなかに「内的で音楽的なリズム」を見出そうとします。だからこそ、イタリア語で描かれたセリフを、彼らの言葉ではどういうのかを聞き出し、それを彼らの言葉でセリフにさせて、そのままに録音したというのです。『揺れる大地』は、当時としては珍しいセリフの同時録音が行なわれた作品です。それは、ヴィスコンティは、ヴェルガの小説のなかに描かれたイタリア語の背後に、ヴェルガが書き直す前の生の響きを見出そうとします。それはアルカイックで原初的な、まさに「魔法」の響きだということになるのかもしれません。

ヴィスコンティのこうした原音へのこだわりを、シャーシャは「遅れてきたロマン主義」と呼びます。カターニア方言をイタリア語へと書き換えたヴェルガが、現代的だとするならば、ヴィスコンティはそれほど現代的ではなく、むしろ退行的だと考えているようですね。だから「遅れてきたロマン主義」というわけなのです。

こうした方言の響きへのある種ロマン主義的なあこがれには、実は先行者がいます。アレッサンドロ・ブラゼッティの『1860』(1934年)がそれですね。トーキーができてまもない頃に、ブラゼッティは、パレルモの方言をそのままに録音しようとしている。それだけではない、そこにはブルボンの兵士たちが話すドイツ語や、教皇庁の兵士たちの話すフランス語、そしてイタリア各地の方言を混在させるのです。ブラゼッティの言語の方言的な響きに近づこうとする傾向を、真実への傾向と呼ぶとしましょう。それって、ヴィスコンティが『揺れる大地』のなかで方言を全面的に押し出して見せたときのロマン主義とも重なっては見えないでしょうか。

たしかにブラゼッティの場合は、この真実への傾向は、たとえ後に変更されるとしても、ファシズムへ憧れに通じるものです。ファシズムのルーツとしてリソルジメントを見るという姿勢のなかで、シチリア方言はある種英雄的にとりあげるというわけです。いっぽうのヴィスコンティは、ファシズムに憧れることはありせん。しかし、『揺れる大地』のカターニア方言のロマン主義は、おそらくは共産主義にある革命のロマンティシズムを経由して、ヴェルガ的なものへと辿り着いたもののはずです。ところが、そのヴェルガ的なものを映画化するとき、ヴィスコンティはヴェルガを転倒させることになります。少なくともヴェルガのなかにあったはずの理性的で啓蒙的なもの、ある種のモダニズムヴィスコンティにはありません。ヴェルガには、カターニア方言をイタリア語のなかに表現してゆくとするときにモダニズムがあったのだとすrば、ヴィスコンティには、イタリア語からカターニア方言へと遡ってゆくロマンティシズムがあったと言えるのかもしれません。

意味がわからなくても、その原初的な響きの「音楽性」に魅力を感じたのがヴィスコンティだとすれば、ブラゼッティもまた、本物らしさとしての衣装にこだわり、パレルモでオーディションをして配役にこだわります。そしてそのこだわりが、ヴィスコンティの場合は音楽的な形式、ブラゼッティの場合は衣装や方言や場所という映像の上でのリアリズム的な形式というわけなのでしょうか。そんな形式へのこだわりは、下手をするとそれ自体がある種の耽美主義 estetismo へと陥るわけなのですが、イタリアには耽美主義の巨匠ダンヌンツィオがいるわけですから、なかなか複雑なところですね。だからこそ、ダンヌンツィオの対極にあるヴェルガの存在が、少なくともヴィスコンティにうまくバランスを取らせているのかもしれませんが、そのあたりはまだまだ勉強の余地がありますね。

さて、今回のセミナーで話したかったのは、この言語の話ではなく、むしろ音楽の話であり、具体的には『揺れる大地』のなかに引用さえるヴィンチェンツォ・ベッリーニの『夢遊病の女』のなかのアリア「Ah non credea mirarti」の引用の仕方なのです。スミレの花を手に取り、それが束の間の愛と重なるのだと歌う主人公の歌を、ヴィスコンティは漁民たちが、イワシの大漁によって束の間の喜びを味わっているシーンに引用するのです。ところが主人公の船はシケで壊れてしまい、漁に出ることがかなわなくなります。愛の喜びが消えてしまったと嘆くアリアは、漁民たちの大漁がつかのものであることを暗示するというわけですね。しかもヴェッリーニは、舞台となったアーチトレッツァでは、地元の誇りとして「カターニアの白鳥」と呼ばれる人物であるわけなのですから、このあたりはオペラに精通したヴィスコンティが、リアリズムのなかにオペラをさりげなく招き入れているシーンだと考えることができるのでしょう。

ヴィスコンティのリアリズムのなかにオペラが入り込んでくるのは、この作品だけではありません。続く『ベッリッシマ』でもドニゼッティの『愛の妙薬』の一節が非常に効果的に用いられているのです。それが村の女たちが、噂をする「Saria possibile?」だ。女たちは、主人公の農夫ネモリーノが叔父の死によって大金持ちになったらしいという噂をする歌なのですが、これが歌われるのが『ベッリッシマ』の冒頭のシーンです。今回のセミナーでは、先のこのオペラのコミカルなシーンを見てもらってから、映画の冒頭をみることにしました。映画では、村の女たちのうわさばなしの歌に続いて、ラジオのアナウンサーが映画のために小さな女の子のオーデションが行われることを告知します。その「みなさんとむすめさんの幸運のためにper la vostra e la sua fortuna」というセリフは、もしもデビューしてスターになれれば「たいへんな幸運=一攫千金 una fortuna」とも聞こえるわけですが、それこそは『愛の妙薬』の大金持ちになった噂にかさなってゆくというわけなのです。

しかしながら、楽しそうなオペラブッファの軽やかな調べに始まった『ベッリッシマ』は、その最後に敗北感を持ってきます。娘に入れ込みすぎた母親、アンナ・マニャーニはそれが虚しい夢にすぎなかったという現実をつきつけられるのです。まるで『揺れる大地』のアントーニオの敗北感に重なるようではありませんか。

さらにこの敗北をスケールを大きくするのが『夏の嵐』。ここでも冒頭にヴェルディのあの「イル・トロバトーレ」が使われるわけですが、その意味については以前に解説したのでここではふれませんが、いやまたこれがすごいんですわ。一見それはよろめきのメロドラに見えるのですが、しかしながらイタリアのリソルジメントの負の側面に目を向けるものであるわけです。一言で言えば、グラムシのいう「受動革命」とか「欠如した革命」という概念を使いたくなるような、ある種の敗北感なのですが、そのあたりを論じるのはまた別の場所にする必要がありますね。けれども、ヴィスコンティは、その敗北感にヴェルディではなく、アントン・ブルックナーを持ってくるというのがまたすぐいわけです。まさにヴェルディのリアリズムに対して、ブルックナーのロマンティシズムがぶつけられるという構成。

まさに人生は歴史のなかにあり、その歴史は敗北の歴史であるというような、ヴィスコンティ映画の壮大なドラマがここから始まるわけなのです。それを音楽劇という意味でのメロドラマと呼ぶならば、そこに浮き彫りにされてゆく、いつかは敗北せざるをえない人間の姿こそは、ヴィスコンティが目指した「チネマ・アントロポモルフィコ」なのかもしれませんね。


******


さて、その(3)は来年になります。パンフとかもうできているはずなのですが、たぶん次に話す内容は予告とは少し違うものになりそう。さてはてどうなることやら...