雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

朝カル新宿「ヴィスコンティとは誰だったのか」(1)と(2)

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2020/9/12 朝カル新宿、「ヴィスコンティとは誰だったのか(1)」
 
 ひさしぶりの対面式でしたが、フェイスカバーはどうにも嫌なので、結局はマスクをつけて喋ることに。ときどき息が苦しくなりましたが、それでもリモートとは違う高揚感に後押しされて言葉が出てくる感じがありましたね。
 ここ2週間ほどは、ヴィスコンティを復習しながら、ずいぶん発見がありました。両親の出自と別居の話しが、彼の人生のなかでどんな意味をもった、今回はちょっと考えてしまいました。やっぱりヴィスコンティは、そのルーツがあって、その上ではじめて、どんな人であり、どんな選択を重ね、どうしてその作品、どうしてその方法で表現したか、そんなことが問われるわけです。
 もちろん、そんなことを考えなくても、作品は作品として楽しめば良いというのもあります。それでも、デビュー作の『郵便配達は2度ベルを鳴らす』のオープニングシーンで、マッシモ・ジロッティクララ・カラマーイのトラットリアに入ってくるところなんて、それまで35年のヴィスコンティ人生が反映しているように読めてしまうし、そう読むことの楽しみというのも、あるのだと思います。
 今回の最後に話したそのシーンでは、撮影の細かいカット割や流れもさることながら、ふたつの音楽の引用がとても興味深い。見直しながら初めて気がついたのですけれど、最初におぼつかないピアノの調べで、ヴェルディは『椿姫』(1853年)の「プロヴァンスの海と土」の旋律が流れてきて、次に当時の流行歌の『フィオリン・フィオレッリ』(1939年、ヴィットリオ・マスケローニ作曲、ペッピーノ・メンデス作詞)を歌うカラマーイの声が聞こえてきます。何の違和感もなく重なりながら、肩や無闇な恋に落ちたものを呼び戻そうとする歌であり、肩や恋に落ちる気持ちを歌うもの。意味としては正反対のベクトルを持ちながらも、高揚する気持ちがやがて破局を招くまでにいたる「盛衰」あるいは、必然的な「没落」が、ヴィスコンティのデビュー作冒頭からは示されているように思えてなりません。
 それはミラノの名門出身貴族でありながら、共産党支持を表明して冠せられた「赤い貴族」という、あのバロック的な形容詞に似ています。それは、相矛盾するもののなかに置かれた人間が、それでも生きようとする力のありようなのかもしれません。生まれてきたからには、その場所に生きることを引き受け、苦しみと喜びのあいだで、やがては衰え退場してゆく。そんな人間の真実に、映画や演劇やオペラを通して、迫ろうとしたように思います。
 人間の真実とは、結局のところ生と死のあいだにあって一瞬の輝きを放つもの。それを「自由への希求」と呼ぶならば、「生まれるのも死ぬのも大変だけど、たぶん死ぬ方が楽だ」と語るときのヴィスコンティが、生涯をかけその実存主義の旗として掲げるものなのかもしれません。

 

2020/12/19 朝カル新宿 「ヴィスコンティとは誰だったのか(2)」

 先週の土曜日(12/12)に「フェリーニと旅するイタリア」と題して朝カル立川で話してきて、その一週間後にヴィスコンティの第2回目。けっこうハードスケジュールでした。とはいえフェリーニヴィスコンティも何度か話したお題なので、なんとかなるとは思ったのですが、それでも同じことをしゃべりたくはありません。結局はまたあちこちあたって、最初から調べ直すことになるのですが、今回はそんなに時間もなく、なんとなく前回にちょっと深めたオペラと映画の関係を調べてみようと、前日から当日の朝にかけてドタバタ。けっこう疲れました。

 さて2回目ではあるのですが、初めての方もいらっしゃると思って、まずは映画ポスターでヴィスコンティのおさらい。晩年の『イノセント』と『家族の肖像』が、それぞれダンヌンツィオとマリオ・プラーツが背景にあることをさらりとふれて、ドイツ三部作の『ルートヴィッヒ』、『ベニスに死す』、『地獄に堕ちた勇者たち』)はヴィスコンティの極点かもしれないという感想から、『異邦人』と『熊座の淡き星影』の2作品のもつアクチュアルな意味は無視できないし、かなり興味深いよねという話から、あの『山猫』と『若者のすべて』へ。『山猫』はランペドゥーサの映画化として有名なのですが、『若者のすべて』が実のところヴェルガの「マラヴォッリャの人々」と響き合っていることと、どちらにも背後にはアントニオ・グラムシの南部問題が横たわっていることなんかを思い出して、『白夜』というぼくの大好きな作品のことは一言「これ好きなんです」ですませ、今回のセミナーの話の目標が『夏の嵐』であると申し上げました。

 いやこの『夏の嵐』(1954)、ネオレアリズモを超える傑作なんですよね。どういう意味かというと、ヴィスコンティが目指した映画がひとつの形として現れているのだと思うのです。それを彼は「チネマ・アントロポモルフィコ」と呼ぶわけですが、その話はあとで触れるとして、もうとつ、これ、ヴィスコンティの作品のなかで、はじめて興行的な成功を果たした作品でもあるのです。

 今回のセミナーは、そんな『夏の嵐』へといたる道筋を、まずは前回の到達点である『妄執(郵便配達は2度ベルを鳴らす)』(1943)から辿ってみることにしました。なにしろ一人の映画監督が、どんな時代に、どんな作品を、どういう理由で撮ろうとしたのかって、けっこう重要なんです。そこにひとつの流れが見つかれば、ああそういうことだったんだと思うことが多々あるからです。たとえば『夏の嵐』の場合は、絢爛豪華な時代劇だけど、単純なよろめきドラマにすぎないじゃないかという人はたくさんいるわけで、実はぼくも最初見たときはそう思っていたのです。ところが、『妄執』からのヴィスコンティの作品を辿り直し、その後の展開を見てみると、この『夏の嵐』と言う作品は、ヴィスコンティのなかでもとりわけ重要なものなのではないかと思えるようになってきたのです。実際、ぼくはカルチャーの授業で受講生のみなさんとイタリア語で脚本をじっくり読む機会があったのですが、これがもう実に深い内容なのです。そして、その内容の深さに気づくためにも、それまでのヴィスコンティを知ることが大切なのです。

 さてヴィスコンティのデビュー作『妄執』が公開されたのは1943年の7月です。その7月に連合軍がシチリアに上陸、ムッソリーニが失脚、同年9月には休戦協定が発表されます。事実上の敗北宣言なのですが、同時に、ヴィットリオ・エマヌエーレ国王とイタリア政府は国外に逃げ出します。それは同時に、ナチスドイツはイタリア全土を占領、ムッソリーニ復権させ傀儡政府を作るわけですが、そんなナチ=ファシスト政権のもので、抵抗運動を起こしたのがレジスタンスというやつですね。

 このレジスタンスを具体的にイメージしてもらうために、ロッセリーニの『無防備都市ローマ』のマニャーニの銃殺のシーンを見てもらいました。この映画ではアンナ・マニャーニが、テレーサ・グッラーチェ(Teresa Gullace 1907-1944)というナチスに殺された女性を演じて、映画史にその名を残すことになるわけですが、実のところそれよりも前にヴィスコンティが彼女を『妄執』に起用して撮影を始めていたのです。マニャーニはそれくらい個性的な舞台女優であり、この人についてはいちどきっちりまとめなければなりませんね。

 さてそのマニャーニなのですが、撮影中に妊娠(essere in stato interessante)が発覚し、結局はララ・カラマーイが代役に立つことになるわけです。カラマーイも悪くないですけどね。彼女は彼女でファムファタールを見事に演じていますが、それでもマニャーニの迫力に比べると、見劣りすることはいなめません。いずれにせよヴィスコンティは、あとでふれる『ベッリッシマ』で彼女を起用しリベンジを果たすことになります。

 閑話休題レジスタンス闘争のころのヴィスコンティは、ローマにいて自宅をレジスタンスの活動家の隠れ家に提供していたといいます。ヴィスコンティは、雑誌『チネマ』の仲間を通して、当時は非合法だった共産党に接近し、その後も終生に党との縁を切ることはありません。1944年の4月に、ヴィスコンティレジスタンスに加担したことで逮捕されます。とはいえ貴族ですから、それなりのもてなしをされたとも言われていますが、それでもレジスタンスは非合法活動ですからね、すぐに処刑される可能性もないわけではなかった。幸い、同年の6月4日、連合軍によってローマは解放されます。もちろんヴィスコンティも解放され、戦後を迎えることになるわけです。

 戦後のヴィスコンティは映画を諦めたわけではないのですが、なかなか企画が実現しない状態が続きます。その間に彼が精力的に活動したのは演劇でした。コクトーの『恐るべき親たち』、ジャック・カークランドの『タバコ・ロード』、ホモセクシャルを取り上げたマルセル・アシャールの『アダム』、テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』などを次々と演出してゆきます。そしてその演出のリアリズム(ボロを纏わせ無精髭そのままの役者たちを舞台にあげるような演出)や、ホモセクシャルのような危うい題材も取り上げるなど、戦後の演劇界に革命をもたらすことになるわけです。

 そんなヴィスコンティが、ついに映画を撮れるようになるのは、共産党からの依頼でした。それは1947年のことでした。前年にイタリアは国民投票によって王政を廃止し、共和制を選んでいました。1948年には共和制体制での初めての総選挙が行われるよていでした。そこで共産党は、ヴィスコンティに、党を宣伝するようなドキュメンタリーを頼んだということのようです。この機会をヴィスコンティは最大限に利用することになります。最初は記録映画をとるための最小限のスタッフとともにシチリアに向かいます。それはアーチ・トレッツァという漁村。ほかならぬヴェルガの『マラヴォッリャの人々』の舞台となった村なのです。だから最初から構想は明らかでした。ヴィスコンティは記録映画を撮るふりをしながら、あの『妄執』から実に4年目のブランクを経て、新しい映画を撮ろうとしていたわけなのです。

 そんな『揺れる大地』を、今回のセミナーでは『ニュー・シネマ・パラダイス』から引用することから始めました。まだ焼け落ちて「新しく」建て直される前のパラダイス座で、『揺れる大地』が上映されるシーンです。映画が始まるると、パラダイス座の案内男(maschera)と村のお客の一人が顔を見合わせます。スクリーンの字幕を見ながら、「おい分かるか?」「あいにく文字は読めないんだ」と言葉を交わすシーンです。スクリーンには「イタリア語は貧しい人々の言葉ではない」(La lingua italiana non è la lingua dei poveri.)という文字が見えます。このふたりは、まさに「イタリア語」を読むことができないというわけなのです。

 これはイタリアは統一以来、イタリア語がずっと問題だったことを思い出しておく必要があます。1861年の統一直後、イタリア語を読みかけできる人はほんの一部でした。その後の教育の普及で識字率は上がってゆきますが、それでもシチリア識字率はそれほど高くはありませんでした。だから『ニューシネマパラダイス』のアルフレードだって小学校に入り直したではありませんか。だからほとんどの外国映画はイタリア語に吹き替えられました。だから小さなトトだって、映画館に入り浸るようになるわけです。もしも映画が字幕で上映されていたら、はたしてトトはあれほど早くから映画好きになっていたかどうか、そのあたりを考える必要がありますね。

 さてトルナトーレが『ニューシネマパラダイス』の舞台としたのはジャンカルドという村です。これは架空の街で実際にはパレルモ近郊の監督の故郷バゲーリアですね。では、この村の住民で、イタリア語が読めなかったあの二人(観客と劇場案内係のふたり)は、『揺れる大地』のセリフを聞き取ることができたのでしょうか。もちろん、ある程度は聞けたのでしょう。しかし、当時この映画を観たレオナルド・シャーシャが言うように、ヴィスコンティの映画から聞こえてくるのはカターニアのアーチトレッツァという漁村のかなり強い方言 vernacolo であり、理解するのがかなり難しかったと回想しています。だとすれば、パレルモ近郊のバゲーリアの人々にもそれほど簡単ではなかったはずです。シチリア以外の上映では、イタリア語の字幕がついたといいますし、その後、イタリア語に吹き替えも行われたと言う話もあります。ようするに、ヴィスコンティの『揺れる大地』のセリフは、カターニアの漁村の人々にしかわからないような響きに満ちていたというわけです。

ここにヴィスコンティロマン主義を見ることができる。その1941年のエッセイ「伝統と文明」において、カターニャの散歩中にヴェルガと出会ったというヴィスコンティは、なによりもその方言の音楽性に惹かれていることに注目すべきなのでしょう。

ごく普通の読者が、ヴェルガの小説に最初は表面的に触れるだけでもそこに可能性を感じて魅了されるとすれば、それはこの小説の「内的で音楽的なリズム」によるものではないだろうか。だとすれば、『マラヴォリア家の人々』を映画化するときの鍵のすべてはここにあるのではないだろうか。つまり映画化の鍵は、このリズムの魔法を聞き取って、捕まえることなのだ。それはすなわち、未知なるものへのあの微かな憧れがもたらす魔法なのであり、この世の中の何かがおかしいとか、あるいは、もっとましであってしかるべきだと気づくときの魔法であり、それこそは運命の戯れがつくる詩の実質にあるものなのだ。

ヴィスコンティはまさに、漁民たちのなかに「内的で音楽的なリズム」を見出そうとします。だからこそ、イタリア語で描かれたセリフを、彼らの言葉ではどういうのかを聞き出し、それを彼らの言葉でセリフにさせて、そのままに録音したというのです。『揺れる大地』は、当時としては珍しいセリフの同時録音が行なわれた作品です。それは、ヴィスコンティは、ヴェルガの小説のなかに描かれたイタリア語の背後に、ヴェルガが書き直す前の生の響きを見出そうとします。それはアルカイックで原初的な、まさに「魔法」の響きだということになるのかもしれません。

ヴィスコンティのこうした原音へのこだわりを、シャーシャは「遅れてきたロマン主義」と呼びます。カターニア方言をイタリア語へと書き換えたヴェルガが、現代的だとするならば、ヴィスコンティはそれほど現代的ではなく、むしろ退行的だと考えているようですね。だから「遅れてきたロマン主義」というわけなのです。

こうした方言の響きへのある種ロマン主義的なあこがれには、実は先行者がいます。アレッサンドロ・ブラゼッティの『1860』(1934年)がそれですね。トーキーができてまもない頃に、ブラゼッティは、パレルモの方言をそのままに録音しようとしている。それだけではない、そこにはブルボンの兵士たちが話すドイツ語や、教皇庁の兵士たちの話すフランス語、そしてイタリア各地の方言を混在させるのです。ブラゼッティの言語の方言的な響きに近づこうとする傾向を、真実への傾向と呼ぶとしましょう。それって、ヴィスコンティが『揺れる大地』のなかで方言を全面的に押し出して見せたときのロマン主義とも重なっては見えないでしょうか。

たしかにブラゼッティの場合は、この真実への傾向は、たとえ後に変更されるとしても、ファシズムへ憧れに通じるものです。ファシズムのルーツとしてリソルジメントを見るという姿勢のなかで、シチリア方言はある種英雄的にとりあげるというわけです。いっぽうのヴィスコンティは、ファシズムに憧れることはありせん。しかし、『揺れる大地』のカターニア方言のロマン主義は、おそらくは共産主義にある革命のロマンティシズムを経由して、ヴェルガ的なものへと辿り着いたもののはずです。ところが、そのヴェルガ的なものを映画化するとき、ヴィスコンティはヴェルガを転倒させることになります。少なくともヴェルガのなかにあったはずの理性的で啓蒙的なもの、ある種のモダニズムヴィスコンティにはありません。ヴェルガには、カターニア方言をイタリア語のなかに表現してゆくとするときにモダニズムがあったのだとすrば、ヴィスコンティには、イタリア語からカターニア方言へと遡ってゆくロマンティシズムがあったと言えるのかもしれません。

意味がわからなくても、その原初的な響きの「音楽性」に魅力を感じたのがヴィスコンティだとすれば、ブラゼッティもまた、本物らしさとしての衣装にこだわり、パレルモでオーディションをして配役にこだわります。そしてそのこだわりが、ヴィスコンティの場合は音楽的な形式、ブラゼッティの場合は衣装や方言や場所という映像の上でのリアリズム的な形式というわけなのでしょうか。そんな形式へのこだわりは、下手をするとそれ自体がある種の耽美主義 estetismo へと陥るわけなのですが、イタリアには耽美主義の巨匠ダンヌンツィオがいるわけですから、なかなか複雑なところですね。だからこそ、ダンヌンツィオの対極にあるヴェルガの存在が、少なくともヴィスコンティにうまくバランスを取らせているのかもしれませんが、そのあたりはまだまだ勉強の余地がありますね。

さて、今回のセミナーで話したかったのは、この言語の話ではなく、むしろ音楽の話であり、具体的には『揺れる大地』のなかに引用さえるヴィンチェンツォ・ベッリーニの『夢遊病の女』のなかのアリア「Ah non credea mirarti」の引用の仕方なのです。スミレの花を手に取り、それが束の間の愛と重なるのだと歌う主人公の歌を、ヴィスコンティは漁民たちが、イワシの大漁によって束の間の喜びを味わっているシーンに引用するのです。ところが主人公の船はシケで壊れてしまい、漁に出ることがかなわなくなります。愛の喜びが消えてしまったと嘆くアリアは、漁民たちの大漁がつかのものであることを暗示するというわけですね。しかもヴェッリーニは、舞台となったアーチトレッツァでは、地元の誇りとして「カターニアの白鳥」と呼ばれる人物であるわけなのですから、このあたりはオペラに精通したヴィスコンティが、リアリズムのなかにオペラをさりげなく招き入れているシーンだと考えることができるのでしょう。

ヴィスコンティのリアリズムのなかにオペラが入り込んでくるのは、この作品だけではありません。続く『ベッリッシマ』でもドニゼッティの『愛の妙薬』の一節が非常に効果的に用いられているのです。それが村の女たちが、噂をする「Saria possibile?」だ。女たちは、主人公の農夫ネモリーノが叔父の死によって大金持ちになったらしいという噂をする歌なのですが、これが歌われるのが『ベッリッシマ』の冒頭のシーンです。今回のセミナーでは、先のこのオペラのコミカルなシーンを見てもらってから、映画の冒頭をみることにしました。映画では、村の女たちのうわさばなしの歌に続いて、ラジオのアナウンサーが映画のために小さな女の子のオーデションが行われることを告知します。その「みなさんとむすめさんの幸運のためにper la vostra e la sua fortuna」というセリフは、もしもデビューしてスターになれれば「たいへんな幸運=一攫千金 una fortuna」とも聞こえるわけですが、それこそは『愛の妙薬』の大金持ちになった噂にかさなってゆくというわけなのです。

しかしながら、楽しそうなオペラブッファの軽やかな調べに始まった『ベッリッシマ』は、その最後に敗北感を持ってきます。娘に入れ込みすぎた母親、アンナ・マニャーニはそれが虚しい夢にすぎなかったという現実をつきつけられるのです。まるで『揺れる大地』のアントーニオの敗北感に重なるようではありませんか。

さらにこの敗北をスケールを大きくするのが『夏の嵐』。ここでも冒頭にヴェルディのあの「イル・トロバトーレ」が使われるわけですが、その意味については以前に解説したのでここではふれませんが、いやまたこれがすごいんですわ。一見それはよろめきのメロドラに見えるのですが、しかしながらイタリアのリソルジメントの負の側面に目を向けるものであるわけです。一言で言えば、グラムシのいう「受動革命」とか「欠如した革命」という概念を使いたくなるような、ある種の敗北感なのですが、そのあたりを論じるのはまた別の場所にする必要がありますね。けれども、ヴィスコンティは、その敗北感にヴェルディではなく、アントン・ブルックナーを持ってくるというのがまたすぐいわけです。まさにヴェルディのリアリズムに対して、ブルックナーのロマンティシズムがぶつけられるという構成。

まさに人生は歴史のなかにあり、その歴史は敗北の歴史であるというような、ヴィスコンティ映画の壮大なドラマがここから始まるわけなのです。それを音楽劇という意味でのメロドラマと呼ぶならば、そこに浮き彫りにされてゆく、いつかは敗北せざるをえない人間の姿こそは、ヴィスコンティが目指した「チネマ・アントロポモルフィコ」なのかもしれませんね。


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さて、その(3)は来年になります。パンフとかもうできているはずなのですが、たぶん次に話す内容は予告とは少し違うものになりそう。さてはてどうなることやら... 

 

ルイージ・ザンパの『Anni difficili (困難な時代)』を観た

anni difficili (ed. restaurata e integrale) (2 dvd) DVD Italian Import

  ルイージ・ザンパの『Anni difficili(困難な時代)』(1948)年をイタリア版DVDで鑑賞。これは名作。でも日本では未公開で日本版のソフトもない。

  どうしてこんな名作が日本未公開名作なのだろう。おそらくはネオレアリズモ的な潮流から外れていることがひとつ。マッシモ・ジロッティぐらいしかスターが出ていないこともあるし、また、なにかの賞をとったわけでもない。けれどもたぶん1番の理由は物語には少しわかりにくいところがあるからじゃないかな。ぼくなんかが見ると、これは歴史の復習に絶好の素材だと思ってしまうのだけど、何も知らないと少しわかりにくいと判断されたのかな。そうだとすれば、ものすごく残念。
  ぼくが見た修復版はDVD2枚組。イタリア版とドイツ版が入っていた。興味深いのはドイツ版との比較。まずはタイトル。イタリア語版が『困難な時代 Anni dificili 』なのに対してドイツ版は『Mitgerissen (押し流されて)』。このタイトルのニュアンスの違いはきっと、それぞれの国のファシスト体制とナチス体制の過去への批判的意識の違いから来るという解説に納得。ドイツの場合、ナチス体制のまま敗北を迎えてしまう。だから「押し流されて」しまったという感覚なのだろうか、でもイタリアはちょっと違う。
  イタリアは、ファシスト体制の崩壊後すぐに休戦協定を発表(1943年9月8日)、直後にナチスの占領下に入る。そこから始まるのがナチ=ファシストへのレジスタンス闘争。痛ましい内戦を経て、最終的にイタリアからドイツがほぼ撤退するのが1945年4月の終わりで、ミラノで市民に蜂起をよびけるラジオ放送があった4月25日が「解放記念日」となる。戦後、イタリア人がみずからの手で共和制を選ぶのが1946年6月の国民投票。こうなるとイタリアには敗北という意識よりも解放を勝ち取って、新たに共和国を打ち建てたという意識が強い。ここは重要なポイント。
  ただし、この映画の舞台はシチリアシチリアの場合は少し事情が違う。ムッソリーニが最初に失脚して逮捕されたのは1943年7月25日だけど、この時点ではすでに島の半分が連合軍によって「解放」されていた。なにしろシチリア上陸作戦「ハスキー作戦」は7月10日に始まるのだ。だからシチリアは、イタリアのなかで最も早く終戦を迎えたわけであり、のちにレジスタンス闘争と呼ばれて理想化される内戦の悲劇を、もっとも味わわずにすんだ場所。その意味ではドイツがナチスの勢いに「押し流されて」迎えることになる敗北と、どこか似たところがあるのかもしれない。
  だからこの映画の主人公アルド・ピッシテッロが、同胞に向かって投げかける「卑怯者。わたしたちはみんな卑怯者だ(Vigliacchi. Siamo tutti vigliacchi)」というセリフは、ドイツの人々にも響いたのだろう。誰かが声を上げればよかったのに、結局は誰も声を上げることがなかった。だれもが刑務所に入れられることを恐れ、つまり死ぬことを恐れていた。その結果、自分の息子たちを死なせてしまったのだ。そんな心痛の表明は、ドイツはもちろん、そのまま日本にもってきてもきっと通じたのではないだろうか。
  しかし、ザンパの『困難な時代』はそれだけの話ではない。この映画ではっきりと告発されているのは、戦後の新生共和制イタリアにおける元ファシスト支持者たちの変節の問題。つまり、かつてファシストを熱狂的に支持しておきながら、戦後にはあれは本意ではなかった、じつは反対だったのだという態度。
  イタリアには、かつて「トラスフォルミズモ」と呼ばれる言葉があった。政治的な妥協工作のもとで次々と政治家が変節したことを示すものだ。ファシズム体制から戦後の共和制となった時期には、こうした態度は「コンティヌイズモ continuismo 」と呼ばれることになる。かつてフェシズム体制での官僚たちや、その支持を表明していた政治家たちが、戦後もそのままの地位に戻ってきたり、過去をなかったものとして共和制の中核に居座るという事態。ようするに、なにか人類学的な現象としてファシズムが「継続 continuare 」してしまったように見えるというわけだ。
  ザンパ/ブランカーティのこの作品は、そんなイタリアの伝統的な「トラスフォルミズモ」、あるいは「コンティヌイズモ」をじつにわかりやすく描き出していて、これはもう教科書にしたいくらい。でも残念ながら日本語版がない。誰か作ってくれないかな、手伝うからさ。
  閑話休題。ではそれは一体どんな内容だったのか。
  まずは題名の「困難な時代 anni difficili 」。それは具体的にはドイツでヒンデンブルグ大統領が死去した1934年8月2日から、1943年7月の連合軍のシチリア上陸とムッソリーニ逮捕・失脚までのおよそ十年のこと。この間、シチリアの街モーディカで市役所の職員をしているアルド・ピッシテッロが、伯爵であり市長(ポデスタ)である上司に呼び出され、このご時世にし役者の職員がファシストの党員でないのはいかがなものかと、なかば強引にファシスト党に入党させられる。こうして嫌々ながら突撃隊の黒シャツを着てブーツを履くことになった哀れなピッシテッロの日常を、ザンパのカメラが丹念に追いかける。
  ファシスト党への入党を強制された当初、ピッシテッロは行きつけの薬剤師のところにゆき、そこに集う仲間たちに相談する。仲間というのは医者や弁護士や議員といった町の名士たちで、シチリアの小さな町のブルジョワ階級の代表。彼らは、成り上がりのファシストたちを毛嫌いしていて、党のやることなすことを批判していたのだが、ピッシテッロの入党に関しては、互いに自分の主張を繰り返すだけで、あげくのはてには「自分で決めるしかないだろうな」と言と知らんぷり。まったく頼りにならない。
  そんなピッシテッロ、家に帰れば妻も娘もムッソリーニにぞっこん。ラジオから流れてくるその勇ましい演説にうっとりしている有り様。そういえば、エットレ・スコラの『特別な1日』(1977)でもソフィア・ローレン依代となったファシスト一家の主婦は、ムッソリーニの姿をスクラップにして大事にしていたっけ。ひと目見られただけどもう、という彼女に、ファシストに左遷を命じられた元アナウンサー役のマストロヤンニが、なんだって、ひとめで妊娠させちまうのかヤツは、なんて冗談で応じていたのが思い出される。まあそのくらい、ファシズム時代の女性たちは、演説も分かりやすいし、肉体美をさらけだすし、馬に乗ってさっそうと登場するムッソリーニの多才ぶり(poliedrico)にぞっこんだったというわけ。まさに劇場形政治でありポピュリズムなんだよね。
  まじめな市役所の職員のピッシテッロは、そんなムッソリーニの率いるファシズムになじめない。その理由を知るには、映画の冒頭のナレーションを振り返るのがよいだろう。シチリアという地に暮らすピッシテッロがどんな人物か、こんなふうに紹介している。

 これがシチリアだ。その古くからの高貴な土地は、陽光に揺らめく空のもとで、かくも厳しくメランコリーに満ちた様相を呈している。

 街並みが見える。何世紀にもわたって拡張してきた街並みには、合理的な都市計画の幾何学的な冷たさこそ欠くものの、生命の熱さにあふれている。まるで火山のまわり、あるいは最初の種がまかれた丘の上で、ゆっくりと生茂ゆく植物たちのようだ。

 人々は、坂や小さな庭があちこちにあり、テラスが屋上にまで作られ、いたるところに窓やバルコニーが作られた家々の街並みに暮らしながら、何千もの悲惨や労苦の経験のなかから引き出してきたのが、あの深淵で誰にでもわかる気風(genio)であり、それは良識(buon senso)と呼ばれている。

 なかでももっとも控えめで、広場を横切ってもその名を知るものがほとんどいないため、誰からも挨拶されることがないような、そんな人々が、真実と正義を大切にする感覚を愛しんで守っているのであり、その感覚が損なわれ傷つけられるときには激しく煩悶することになる。
 そんなひとりとして、とりわけ辛い時期を生き抜いたあわれな勤め人がいる。ここでみなさまに語ろうとするのは、その男の物語だ。アルド・ピッシテッロというその男は、この家に住んでる。

 Ecco la Sicilia, questa terra nobile e antica sotto il cielo inondato di luce, ha un aspetto così severo e pieno di malinconia.
 Ecco le sue città, cresciute nel corso dei secoli, prive della fredda geometria di una metropoli razionale e calde invece di vita, come pinte che si siano aggrovigliate lentamente attorno al vulcano o al colle su cui fu gettato il primo seme.
 Il popolo che abita in queste città, piene di scalinate e cortili, fitte di terrazze, altane, finestre e balconi, trae dalla sua millenaria esperienza, dalle sue sciagure e dai suoi sforzi, quel genio profondo ed elementare che si chiama buon senso.
 I più umili, specialmente quelli che attraversando le piazze non ricevono il saluto di nessuno, perché il loro nome è quasi sconosciuto, custodiscono con amore il senso della verità e della giustizia e soffrono pene acerbe quando esso viene offeso o ferito.
Di uno di questi uomini, un povero impiegato vissuto in tempo particolarmente difficili, vi racconteremo la storia. Si chiamava Aldo Piscitello viveva in questa casa.

 この冒頭のナレーションは、みごとに主人公をシチリアという場所のゲニウス・ロキ依代として定位してみせる。なにしろそこは「何千もの悲惨や労苦の経験」を強いる場所。そのゲニウス・ロキ(地霊 genius loci )こそは「あの気風」(quel genio)なのであり、それは「深淵だが誰にでもわかる(profondo ed elementare)」もの、つまり「真実と正義を大切にする感覚」(il senso della verità e della giustizia)であり、その意味でまさに「「良識(buon senso)」なのだ。
 そんなピッシテッロが、ファシスト党への入党を進めらる市長に、じぶんは政治には関心がないと言うとき、理解すべきはそれが「真実と正義」への感覚から来たものだということなのだ。家族から、あなたはいつもそんな調子なんだからだめなのよと言われて苛立つのも、同じ理由だ。嘘をつかず正しいことを黙々とこなすという態度が「良識」であるなら、シチリアのもっとも謙虚な人々(i piu umili)にこそが、その感覚の守り手でありその体現者(genio)。そんな謙虚なひとりであるピッシテッロにとって、ファシズムポピュリズムとは、「真実と正義」からかけ離れた存在だったにちがいない。
 ザンパ/ブランカーティは、この映画のなかで、そんなピッシテッロに黒シャツを着せ、長くて黒光するブーツを履かせる。哀れな中年男のピッシテッロ、若ければまだ多少は勇ましくてカッコよく見えたのに、突撃隊の制服はどうにもさまにならない。まさに「ブーツを履いた中年男 il vecchio con gli stivali 」がファシスト隊の訓練に励み、隊列の先頭で旗を持って行進するシーンは、哀れで滑稽だが、そこにはある種の真実が隠れている。
 この主人公の「ブーツを履いた中年男」の背後には、この映画に原作を提供し脚本に協力したヴィタリアーノ・ブランカーティ(Vitaliano Brancati, 1907–1954) の人生がある。シラクーサの近郊の街パキーノに生まれたこの作家、一度はファシストに熱狂して入党するものの、やがてそこから遠ざかってゆくという経歴の持ち主。そのあたりのこと描いた短編小説が「ブーツを履いた中年男 il vecchio con gli stivali 」であり、映画の原作だ。ブランカーティはここで、かつての自らの間違いを認め、認めた上で物語を立ち上げる。その精神は、映画の冒頭にこんな字幕で示されることになる。
 

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 日本語に訳せば「自分自身の欠点 difetti を笑うことは、文明的な民が持つ最良の徳力である」ということ。ここにある「欠点 difetti 」とは、もはや個人のものではなく、シチリア人のものでもあり、またイタリア人のものでもあれば、ドイツ人のものであってもよい(もちろん日本人のものであってもよいのだが未公開なのが悔しい!)。

 考えるべきは、この字幕がスクリーンに映し出されたのが、戦争が終わってまだ3年ほどしか経っていない1948年の劇場だということであり、観客たちにはまだファシズムやナチズム(あるいは軍国主義)の記憶が生々しい時期でということ。そんな観客は、かつてファシズムやナチズムに走った自分たちの姿を目の当たりにする。そこに欠けていたことからくる滑稽さを笑いながら、しだいに滑稽さのなかにグロテスクな姿をつきつけられる。それでも映画館のくつろぎにつつまれながら、そのなかでゆっくりと自らを省み、自らを変容させて、劇場を後にする。

 そのはずなのだが、しかし、自身がかつてファシストであったことを認め、そこから物語を立ち上げることは、戦後イタリアにあっては容易なことではない。なにしろイタリアには、ドイツのニュルンベルグ裁判や、日本の東京裁判にあたるものがない。勝者たちが敗者を裁くことの良し悪しは置いておくにしても、すくなくとも戦争犯罪を裁く法廷はイタリアにはなかった。早々に休戦協定を結び、レジスタンス闘争を経て、連合軍を解放軍として迎えたのだ。

 戦後のイタリアは誰もが自由に酔っていた。共産党でさえも、ファシスト体制下の多くの官僚の存続を認めたという。多くの市長(ポデスタ)は、そのまま市長(シンダコ)として居座ってしまう。だから戦後に「自分はかつてファシストだった」と言うものは誰もいなくなる。それはまったく不思議なことなのだ。なにしろかつては「みんながファシストだった Tutti erano fascisti 」。それにもかかわらず戦後になると「みんながそうではなかった Tutti non lo erano」という。ブランカーティのように、自身がかつてファシストであったと認めることは容易ではない。ましてやそれを笑い飛ばすことなど...

  主人公のピッシテッロを演じるのはウンベルト・スパダーロ(190 –1981)。この映画の役柄もそしてその風貌も、どこか『生きる』の志村喬を思い出させる。スパダーロの生まれはアンコーナだけれど、どうやら父親も母親もシチリアカターニア出身の役者夫婦。しかも、この映画で弁護士を演じたカターニア出身のジョヴァンニ・グラッソの劇団で仕事をしていたというから、きっと縁があったのだろう。
  このジョヴァンニ・グラッソ(19888-1963)の叔父が同姓同名のサイレント映画俳優ジョヴァンニ・グラッソ(1873-1930)。あのレオナルド・シャーシャが評論集『La corda pazza (狂気のコルダ)』(1970)(1963)所収「映画のなかのシチリア」のなかで、真っ先に名前を挙げた俳優であり、彼を主演にニーノ・マルトッリョ(1870 – 1921)の監督による『Sperduti nel buio(闇に迷い込んで)』(1914)が、たとえ舞台がナポリであれ、そこにはヴェルガ的なものが感じられると書いていたのが思い出される。
 ついでに言えば、この『Sperduti nel buio 』と同じ年にあのダヌンツィオが原案を書いたという『カビリア』が発表されている。ダヌンツィオ的な壮大な歴史物語とは対照的に、マルトッリョの『Sperduti nel buio』は目の見えない飲み屋の親父と歌手を夢見る物乞いの女の出会いを描くというのだから、それはまさにヴェルガ的なリアリズム。そうしたシチリア的なリアリズムの伝統に連なるのがピッシテッロを演じたウンベルト・スパダーロだというわけだ。 
 おっとまた話がそれた。さて、市役所の無名の職員にすぎなかったそのピッシテッロは、突撃隊の黒シャツにブーツ姿で、ファシストの肉体を鍛え誇示する訓練に参加すると、志村喬ばりのまじめさで黙々と取り組むと、体はボロボロ。疲れ切って家に帰くる日々が続いたある日、息子のジョヴァンニ(マッシモ・ジロッティ)が兵役から帰ってくる。父親の黒シャツ姿に顔をしかめるジョヴァンニ。なぜ柄にもないことをしているのかという思いが透けて見えるのだが、この息子がそれを口にすることはない。イタリアの正規軍が新参者の黒シャツ突撃隊を快く思っていないことは、当時の誰もが知っていること。正規軍の兵士が父で、黒シャツ突撃隊が息子なら世代的な衝突にもなるのだろうけれど、ここでは息子のほうが昔ながら軍隊に属し、父のほうが新しく台頭したファシストという滑稽さが、狙いなのだろう。
 そんなジョヴァンニには、マリア(ミリー・ヴィターレ)という恋人がいる。叔父の薬局を手伝っている娘だが、この薬局の主人である薬剤師がピッシテッロの友人であり、この薬局に仲間の名士が集まり、マリアの出してくれる薬(というかリキュール)を飲みながら、仲間内のおしゃべり(あるいは秘密の会合)を楽しんでいたというわけ。ジョヴァンニとマリアのほうも再会を喜び合い、結婚の約束を交わす。そのころ、街ではファシストたちが幅を聴かせるようになり、ムッソリーニの演説に広場の人々が喝采を送り、気がつけばエチオピア戦争(1935-1936)が勃発、ジョヴァンニは東アフリカの戦線に招集されてしまうのだ。
 ジョヴァンニはそれから、次々と戦線に招集されることになる。エチオピア戦争から帰ってきて、ようやくマリアと婚約を発表した矢先、今度は「出兵先不明 Destinazione ignota」という召集を受ける。ファシスト政府はスペイン内戦(1936-1939)に自国の兵士を送っていたというわけだ。そんなスペインから帰ってようやくマリアと結婚すると、こんどはドイツがズデーデン地方を併合したとのニュースが飛び込んでくる。1939年にはフランスとイギリスがドイツに宣戦布告。翌年6月にはドイツに押し込まれていたフランスに対して、イタリアが宣戦布告する。
 ムッソリーニがフランスに宣戦布告したとき、仲間たちは陰で非難するだけだったのだが、この薬剤師は違っていた。「フランスはわれらの姉妹国ではないか」と叫ぶと、ラジオ放送に歓喜の声を上げる群衆のなかに進み出て「ラ・マルセイエーズ」を大声で歌い逮捕されてしまう。この薬剤師を演じたのはアルド・シルヴァーニ(1891 – 1964)。どこかで見たことがあると思って調べてみれば、フェリーニの『道』でサーカスの団長ジラッファであり、『カビリアの夜』でカビリアを催眠術にかける奇術師ではないか。なるほど、このころから実にみごとな存在感を示していたというわけだ。

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 こうしてマリアは薬局にひとり残される。その2階にはジョヴァンニと二人で暮らすための新居があつらえられていたのだが、部屋を用意してくれた叔父の薬剤師は逮捕され、ようやく夫となったジョヴァンニは、またしても招集されてしまう。第二次世界大戦の始まりだ。それでもジョヴァンニは、3ヶ月の休暇を得て故郷に帰ってくる。ようやく新婚生活が始まり、マリアのお腹に子どもが宿ったそのとき、イタリアはロシア戦線への派兵を決定。子どもが生まれるのを待つ余裕もなくジョヴァンニはロシア戦線に向かう。それあのデ・シーカの『ひまわり』(1970)でマストロヤンニが派兵された場所。
 そんなロシアからジョヴァンニがようやく帰ってくる1943年、7月10日には連合軍がシチリアに上陸した。ファシストに近かった市長は、突然にピッシテッロに取り入って来ると、あの友人たちにとりなしてくれるように頼んでくる。ファシストたちは及び腰になり、駐屯していたドイツ軍は神経質になってゆく。そんな故郷に帰ってきたジョヴァンニ、ようやく生まれたばかりの息子を抱き上げられると、疎開していたマリアのもとに向かう途中、撤退直前のドイツ兵に撃ち殺されてしまう。
 7月25日、ジョヴァンニの葬儀で悲しみに沈む家族たちが集まった部屋に、ムッソリーニが逮捕されたという知らせが飛び込んでくる。通りでは人々が「イタリアの兄弟よ、イタリアは今目覚めた」と声をあげて歌っている。そんな「マメーリの讃歌」が響き渡るなか、息子の亡骸を見つめるピッシテッロ、突然に意を決したように立ち上がると、街の名士が集まっていた市役所に向かう。そして、市長や薬局の仲間たち、そして街の名士が集まっているその広間に入ってゆくとピッシテッロ。その姿を見て湧いていた部屋は静まり返る。そこでこの謙虚の人は言う。

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卑怯者。わたしたちはみんな卑怯者だ。広場で手を叩いていた連中。家に隠れてブーイングしていた連中。わたしちはみんな卑怯者なんだ。刑務所に入れられるしかるべきだった。何人かは入れられた。ほんのわずかだけは!だがわたしたちは刑務所が怖かった。死ぬのが怖かった。それで息子たちを死なせてしまったのだ。卑怯者。わたしが自分の息子を死なせてしまったんだ。

Vigliacchi. Siamo tutti vigliacchi. Quelli che battevano le mani in piazza. Quelli che fischiavano nascosto in casa. Siamo tutti vigliacchi. Dovevamo farci buttare in carcere come hanno fatto certuni. Pochi! Ma abbiamo avuto paura del carcere. Paura di morire. Abbiamo fatto morire i nostri figli. Vigliacchi. Io ho fatto morire mio figlio.

 ピッシテッロの言葉が終わるや否や、またしても新しい知らせが入ってる。「アメリカ軍が街に入ってきた」というのだ。こうして街にはドイツ軍に代わりアメリカ軍が駐屯することになる。それでも、いつものように市役所で仕事をするピッシテッロ。仕事場のシーンは冒頭とまったく同じアングルだ。そこのまた使いがやってくる。「市長(ポデスタ)が、いや市長(シンダコ)がお呼びだ」という。アメリカ軍の支配下にはいり、ファシストたちの市長(ポデスタ)は、アメリカ軍のための市長(シンダコ)として、同じ椅子にファシスト隊長ではなくアメリカ軍の将校と並んで座っていた。
 しかしピッシテッロには、あの時代に起こったのと同じことが起こる。かつてはファシストに入党していないから首にすると言われたのだが、今度はファシストに入党していたから首にしなければならないと、同じ市長(ポデスタ/シンダコ)から、言われるのである。ピッシテッロはもはや黙っているしかない。その場に居合わせたアメリカ軍の将校が尋ねる。この男はなぜだまっているのか、と。市長が答える。
なぜって、自分はファシストじゃなかったと言いたいのでしょうね。そんな考えは持っていなかったし、突撃隊でもなかったし、戦争を憎んでいたし、連合軍が上陸してたときは幸せでいっぱいだったとでも言いたいのではないでしょうか。何を言いたいかなんてわかりませんけれどね。
Perché vorrà dire che non era fascista, che non la pensava così, che non era squadrista, che odiava la guerra, che è stato felicissimo il giorno in cui gli alleati sono sbarcati. Chissà cosa diavolo vuol dire.

 この言葉にアメリカ人将校が言う。「彼もか。いったいぜんたい《自分はファシストでしたと》と言う勇気のある者にまだ一人も会ったことがないぞ」(Anche lui. Ma non mi riesce a trovare uno che ha coraggio di dire “sono stato fascista”.)

 実に見事なシーン。黙ってふたりを見つめるピッシテッロの瞳がすべてを語っている。そして記憶に残るラストシーンがやってくる。街の広場は人で溢れている。アメリカ兵たちは、住人から国に持って帰る土産を買っていた。そのなかにファシスト突撃隊の制服を買ってきたものがいる。彼はピッシテッロのそばにやってくると、こうたずねる。

「へいパイザ、おれはこれを2千リラで買ったのだが、高いかな?」

 それはピッシテッロが来ていたのと同じような制服だ。それを手に入れるために、家族は2千リラの出費をしていた。同じ値段だ。だが、ピッシテッロは言う。

「そいつはじぶんにはずっと高くつきましたな」。

 そしてエンドマーク。なんとも見事なセリフ。みごとなエンディング。真理と正義を愛する彼が、その制服を身に付けることになったときから始まる「困難な時代」を、これほどみごとに言い表す言葉が、ほかにあるだろうか。

 

「フェリーニとは誰だったのか?」...

 

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今年はフェデリコ・フェリーニ(ほんとうならフェデリーコ・フェッリーニが正しいのかな)の生誕100年の年で、ほんとうならゴールデンウイークのイタリア映画祭でも回顧上映が予定されていたのだけれど、コロナ禍でご破算。ところが年度の後半に入って頼まれた仕事が昨日完了。Zoom で「フェリーニとは誰だったのか?」と題してお話しさせてもらった。

ところが以前作ってあったキーノートのスライドが見当たらない。Fellini part 3. しかなくて、Part 2 と Part 3 が消えていたのだ。何が起こったかと言うと、マックの「タイムマシーン」にバックアップしていたはずが、新たなバックアップを作成したとき以前のデーターはひとまとまりに消されてしまったというわけ。まあマックからすると、ちゃんと注意してあるだろ、気がつかないのはあんたのせいだぞ、ということなのだろうけれど、いやはや、このアプリ、便利なようでかなりやばい。お仕入れに入れておいた段ボール箱なのに、いっぱいになったからと、奥の方の箱が一括して捨てられてしまったというわけ。

しかたがないのでフェリー二のジェネレーショングラムをこんな感じで作り直した。手間はかかったけど、作業しながら頭の整理ができた。おすすめですよ。

youtu.be

それから、全作品のポスターの画像を集め直して、まえに使った映像をチェック。Keynote のアップデート版は、YouTube のリンクをそのまま読み取ってくれるので、ものすごく便利なのだけどひとつ問題がある。開始位置の指定ができないのだ。

次のリンクを見て欲しい。これは『カビリアの夜』がアカデミー外国語映画賞を受賞したときのクリップだけど、受賞作のタイトルが読み上げられるところを「開始位置」として指定している。

youtu.be

これをやるには、指定したい時間にスライドバーを合わせてから「共有」をクリックし、ローグボックスのなかの「開始位置」にチェックを入れるだけで良い。

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ところがキーノートではこの機能が使えない。「開始位置」を指定してクリップを引用しても、映像が最初からになってしまうのだ。しかも、ビデオとちがって、引用箇所のエディティングやポスターフレームの指定ができない。うーん、アップルさんがんばって。

そんなわけでフェリーニフィルモグラフィーを振り返り、それからジェネレーショングラムを眺めてとか思ってたのだけど、ポスター見ながら全作品を振り返ってたら、あっというまに1時間ぐらい話してしまう。対面式だったら画像とイタリア語のタイトルから邦題を当ててもらえばさっと終わるのだけど、Zoom だと参加者とのやり取りがもたついて時間がかかってしまう。いきおい少し説明をはじめると、もう止まらない。計算がすっかり狂っちゃった。

ともかくも、実は彼、アルド・ファブリーツィの脚本家として映画界に入ったのだという話をして、そのころは痩せていたのだけど、ジュリエッタと結婚してぶくぶく太ってきたんだよなんて言ってると、もう時間がなくなってきちゃった。

それでもなんとかYTで見つけたジュリエッタのインタビュー映像から、「嘘つきですか」「ええ」みたいなやりとりをイタリア語でひっぱってきて、説明できたのはよかったかも。

youtu.be

- È bugiardo?
- Sì.
- È timido?
- È bugiardo e timido. È la stessa cosa.
- Ha mai dei dubbi?
- È il dubbio in persona. Però mi permette, scusi. Lei mi ha detto “è bugiardo?” e ho detto “sì”. Però è bugiardo perché la bugia per lui non è bugia, è fantasia. Per lui è vedere quello che gli altri non riescono a vedere. 

フェリーニは)嘘つきですか?

 ええ。

内気?

 嘘つきで内気です。同じことですから。

疑ったことは?

 疑いが歩いているような人ですわ。けれどもすいません、いいですか。さきほど「嘘つきか?」と言われて「そうです」と答えました。でも嘘つきなのは、彼にとっての嘘は嘘ではなくて、ファンタジーだからです。彼にとってそれは、他の人がうまく見えないものを見ることなのです。

 これは『8½』の直後のインタビューだけど、マジーナはじつに的確にフェデリーコのことを見抜いている。嘘とはファンタジーなのだ。そしてもうひとつ感動的なのは、この少し前のシーンで、映画のなかでアヌーク・エーメが演じたグイードの妻はご自身のことなのではという質問に、最初は気づかなかったけど、まわりに言われて気がついたと答えるところ。しかも、その自分の分身にフェデリーコの分身であるグイードが、愛の告白をしてくれたことを喜んでいるところ。グイードは、作品のなかでサンドラ・ミーロと浮気し、カルディナーレを理想化しているのだけれど、そんなことはアーティストにとって当たり前と言わんばかり。少なくとも自分のことを気にかけてくれていること、そして結婚して何年もしてから、気持ちを打ち明けられたようで嬉しかったと言っているところ。いやあ、実に良い話ではないか。

 

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ちょうど同じ頃のフェリーニは、この「嘘/ファンタジー」を通して普通の人が見えないものを見ようとしているというマジーナの話を、こんなふうに説明している。引用しておこう。

- Qual è il sentimento, lo stato d’animo che t’ispira di più, dal quale ti senti più nutrito?

- Non lo so, forse il tentativo di riprendere, di riuscire a riascoltare un discorso che si è interrotto, che un po’ per volta è stato fatto con voce sempre più debole fino al punto che non ho saputo più udire. Ecco, questa sensazione qui, di riagganciare un filo che mi è sfuggito di mano. Anzi, mi accorgo così che sto diventando un pochino lirico ma se dovessi tentare proprio di darti una definizione esatta di quello che è lo stimolo più nutriente del mio modo di esprimermi e di vivere, mi sembra che sia proprio questo: tendere l’orecchio e il cuore a qualche cosa che è quasi dimenticato e che non vorrei avere dimenticato.
(Le favole di Fellini: diario ai microfoni della Rai. Raccolta di interviste scelte e riproposte da Paquito Del Bosco. Con CD Audio, Roma, Rai-Eri, 2000, p.51.)

 あなたはどういう感情、どういう精神状態のときにインスピレートされるのですか?着想はどんな?ことから来るのでしょうか?

 わからないですけれど、たぶん、なんとかして途切れてしまった話を捕まえ直し、もう一度聞き直してみようとすることからくるのではないでしょうか。それも、少しずつ声に出されながら、ますます小さくなってゆき、最後には聞こえなくなってしまう、そんな話です。そうなのです、そんな話を聞き取りたいという感覚なのです。つまり、この手からするりと抜けちた一本の糸を掴み直そうとするときの感覚。いや、そういってしまうと少しリリカルになってしまいますね。でも、もっとも触発的で、表現することと生きることを後押ししてくれる何かをできるだけ正確に言葉にするなら、こういうことです。ほとんど忘られていながら、できれば忘れたくなかったものに、耳と心を傾けることなのです。

 

この「ほとんど忘られたもので、できれば忘れたくはなかったものに、心澄まして耳を傾けること(tendere l’orecchio e il cuore a qualche cosa che è quasi dimenticato e che non vorrei avere dimenticato)」というのは、ほんとうにフェリーニ作品の全般に貫かれていること。それこそザンパノが、もはやこの世にないジェルソミーナのトランペットのモチーフに触発され、夜の浜辺で耳にする「虚無」。アウグストが最後の最後に聞いた村人の子どもたちの素朴な歌声。マルチェッロがトレヴィの泉でシルビアに「ほら、聞いて」と告げられて聞くことになる滝の音の沈黙などなど。そして最後には『ボイス・オブ・ムーン』のイーヴォが、月の声に向かって静かにしてくれないかと懇願して、その耳を傾けようとしたあの井戸の中からの「ますます小さくなってゆく声」。

 

それは、消えゆく声に耳を傾けようとするフェリーニのその残響。その消えゆくなにかに耳を傾けてることの喜びを伝える使者。たぶんそれがフェリーニという人だったのだろう。

 

P.S. 質疑応答のときに、フェリーニに感じるノスタルジーはどこから来るのでしょうかと聞かれた。 これはすごく興味深い質問。実は、この質問に答えられるように、『マストルナの旅 (Il viaggio di G. Mastorna)』の話を準備しておいたのだけど、それについてはまた別の機会にちゃんと書いておきたい。

ただ概略だけ記せば、「マストルナの旅」における失敗と病気による入院が、フェリーニフィルモグラフィーの大きな転機となっている。だから『悪魔の首飾り』から『サテリコン』への流れが重要になる。ここでフェリーニはおそらく、自分の知らない世界への映画的なアプローチが可能であることを学ぶのだ。そのアプローチにより『フェリーニの道化師』や『フェリーニのローマ』が撮影され、あの名作『アマルコルド』がうまれることになる。

『アマルコルド』が描くのはフェリーニのリミニではない。あくまでも知らない世界への映画的接近アプローチで描きだされた「小さな町」(borgo)なのであり、その名も Borgo という町なのである。そこにノスタルジーを感じるとすれば、その源はフェリーニの故郷リミニではなく、あくまでもファンタージーが生み出した町「ボルゴ」へのノスタルジーにほかならない。

8 1/2 (字幕版)

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