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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

パゾリーニ「わがネーションよ」

イタリア語 もろもろ

Pasolini. Visioni e profezie tra presente e passato (Sulle orme della storia)

 

 パゾリーニの詩はどれもそうなのですが、この詩も強烈です。Facebook に投稿されているのを見かけて、おもわず日本語に訳してみることにしました。

 

わがネーションよ
 
アラビアの民でもなく、バルカンの民でもなく、古の民でもない
生きているネーションにして、ヨーロッパのネーションよ:
おまえは何なのか?その地に住むのが、幼児、飢え人、堕落者、
地主に雇われた政治屋、反動的な自治体の首長、
頭はポマードでぎとぎとなのに足はよごれたままの弁護士ども、
信心ぶった伯父さん連中のようにリベラルで人でなしの役人たちとくれば、
まるで兵舎であり、神学校であり、自由な海岸であり、娼館のごときでないか!
何百万ものプチブルが、何百万もののブタのように、
押し合いへし合い群れをなし、無傷のままの小さな宮殿のたもとにいるが、
そのまわりをかこむコロニアル風の家々は、まるで教会のようにペンキも剥がれている。
おまえは、今まで存在したというまさにそれゆえに、もはや存在せず、
かつて自覚があったというまさにそれゆえに、もはや自覚がない。
そして自分がカトリックだというただそれだけで、おまえの悪が
全き悪であり、あらゆる悪に責任を負うものだとは考えられないのだ。
 
おまえのこのみごとな海に沈んでしまえ、世界を解放せよ。
 
(ピエロ・パオロ・パゾリーニ 1922-1975) 

 

 ここでネーションと訳したのは nazione ですが、これは国民国家(ネーション・ステート)のネーションのことですね。国民ということであり、また国家のことでもある。それは、もちろんパゾリーニが生きた当時のイタリアのことなのでしょう。

その地に住まうものとして挙げられているゆくのは、幼児 infanti 飢え人 affamati や堕落者 corrotti のような人々と、政治家たち(governanti impeigati ) なのですが、この人々は大土地所有者に雇われていて impiegati di agrari 、また地方の首長 prefetti にしても旧体制的な保守派 codini なのですね。それから弁護士たちがいる。ふつう弁護士は avvocato と言いますが、パゾリーニはこれに軽蔑の意味を添える語尾 -uccio をつけて avvocatucci と(弁護士ども)と呼んでいます。彼らは頭をポマードでぎとぎとにしているのですが unti di brillantina 、よく見るとその足は汚れている( e [con] i piedi sporchi )。足が汚れているという含意はよくわかりませんが、おそらく見た目はよいのだけど、見えない足もとは注意していないとか、汚い仕事をしているということなのでしょう。それから官僚たちがいます。彼らは表面上はリベラル liberali なのですが、その実、悪意に満ちた人でなしあり carogne、それはたかも信心ぶった叔父連中のようだ come gli zii bigotti というのです。

こうしたネーションのことを、パゾリーニは「まるで兵舎であり、神学校であり、勝手自由な海岸であり、娼館のごときでないか!」というのですが、兵舎 caserma とは世俗的な権力、神学校 seminario は宗教的な権威、自由な海岸 spiaggia libera は(おそらく)市場の原理、そして娼館 casino とは欲望の法則が、その戯画化された姿を露にする場所なのでしょう。そしてそうした場所を持つネーションは、その政治、宗教、市場、欲望によって、人間を閉じ込める檻のようにイメージされているのではないでしょうか。

このネーションのもっとも醜悪な住民が、パゾリーニよればプチブルですね。まさに彼らは豚のように群れているのですが、彼らの住まいは小さな宮殿 palazzotti 。ところがプチブルは、ほとんど無敵の力を持っているので彼らの宮殿は無傷 ellesi にとどまっている。一方、その回りを囲んでいる家々はコロニアル風の邸宅なのですが、それはかつての貴族や富裕層が建てたまま放置されたしまったのでしょう、その壁のペンキは剥がれ落ちすっかり荒んでいる。その荒みかげんは、もはや威厳を失いつつある教会の荒み方と同じだというのですから、なかなか興味深い描写ですね。

それにしても、30年以上も前にパゾリーニが描き出した「わがネーション」は、今ぼくたちが生きている国と、どことなく似ているようには思えないでしょうか。ぼくたちの国ばかりではありません。おそらく、それは現在のさまざまな国民国家(ネーション)にも見事にあてはまるような気がします。

けれどもパゾリーニのすごいところは、ここから先ですね。彼はイタリアというネーションに向かって「おまえは、今まで存在したというまさにそれゆえに、もはや存在しない」と告げます。この「存在する」は、イタリア語で esistere です。これは e-sistere という組成ですから、「e(s)- 外へ」+「sistere ある」ということであり、そこには、何かが生成して生きてゆくという含意があります。つまり、ネーションというものが生成して現在まで続いてきたことが、「おまえは今まで存在してきた tu sei esistita 」という近過去の表現で示されています。ところが、そのネーションは腐敗し堕落していて、今やどうしようもなくなっている。だからこそ、もはやこれから先へと生き延びることはない。それが、「もはや存在しない non esisti più 」というフレーズの意味なのでしょう。

ここでパゾリーニは、まだベルリンの壁が崩壊していない時代に、すでに国民国家の終焉を予言しているようには聞こえないでしょうか。もちろん、イタリアというネーションが生まれたときには、自らの役割や大義を「かつては自覚していた fosti cosciente」。しかし、それは大過去 fosti で表されているように、現在とは遠く離れた過去もの。それゆえに今やそんなことに「おまえは無自覚である sei incosciente 」。そうパゾリーニは断罪しているのですね。

さらにこの断罪は、最後の部分で、さらに強烈なフレーズを呼び出すことになります。ごぞんじのようにイタリアはカトリックの国ですね。イタリアがネーションとして立ち上がるリソルジメントには、マッツィーニを考えれば明らかなようにキリスト教の影響がはっきりとみられますし、その後、世俗的権力と宗教的権威の対立があるものの、ムッソリーニ政権とは政教条約(コンコルダート)を交わし、ファシズムが倒れて戦後になってからも、長らくキリスト教民主党が政権を担って来たことからもわかるように、両者はなかば公然と結びついて来たのです。パゾリーニはそれが大きな問題だと指摘します。すなわち、イタリアというネーションは「自分がカトリックだというただそれだけで」思考停止に陥っているのであり、もはや歴史的使命を果たし、すっかり堕落してしまっているにもかからず、「自らの悪が全き悪である il tuo male è tutto male」ということが分らない。今のイタリアに見られるさまざまな「悪のひとつひとつに責任を負っている: colpa di ogni male」のが自分のせいであるということを「考えることができない non puoi pensare 」。そう断罪しているのですね。

こうしてパゾリーニは、この詩の最後に「わがネーション」に向かって、「おまえのこのみごとな海に沈んでしまえ、世界を解放せよ Sprofonda in questo tuo bel mare, libera il mondo.」と強烈な命令法を投げかけています。「このみごとな海 questo tuo bel mare」とは、おそらくイタリアを取り巻く「美しい」地中海のことなのでしょう。しかし、考えてみれば、今、その地中海に沈んで命を落としているのは、アフリカや東欧世界からの難民たちではありませんか。たしかに「美しい海」かもしれないけれど、そこでは世界中の悲惨によって、多くの罪なき人々の命が沈められている。だからこそ、すべての責任を負うべきネーションこそが、その海に沈んでしまうべきだと、パゾリーニは言っているのです。そうすることだけが、少なくと彼には、「世界を解放する」ことにほかならないと思えたというわけなのです。

このパゾリーニの言葉に、ぼくはおもわず自分のネーションのことを考えてしまいました。今なお天皇制を保持しつつ、靖国の問題がいつまでも取り沙汰されていますが、そんなぼくたちのネーションにも、パゾリーニの強烈な批判は、かなりの部分であてはまっているのではないでしょうか。そして、グローバリズムのただなかにあることを日々痛みを伴って感じさせられ、もはやネーション(国民国家)という擬制の賞味期限が明らかになりつつあるようにみえる現在、パゾリーニが30年以上も前に「わがネーション」に向かって放った「おまえのこのみごとな海に沈んでしまえ、世界を解放せよ」という予言的な言葉は、ものすごい切迫感をもって響いてくるのではないでしょうか。ぼくたちは、まさにパゾリーニの言葉通りのネーションの終焉を生きながら、まだ到来する世界の姿をうまくつかめないままに、過去と未来の「あわい」としての現在に立ち尽くしているということなのかもしれませんね。

 
YouTube でみつけたヴィットリオ・ガズマンの朗読も貼付けておきます。その下にはイタリア語の原文を載せておきますので、あわせてお聴きください。

 

 

Alla mia nazione

 

Non popolo arabo, non popolo balcanico, non popolo antico
ma nazione vivente, ma nazione europea:
e cosa sei? Terra di infanti, affamati, corrotti,
governanti impiegati di agrari, prefetti codini,
avvocatucci unti di brillantina e i piedi sporchi,
funzionari liberali carogne come gli zii bigotti,
una caserma, un seminario, una spiaggia libera, un casino!
Milioni di piccoli borghesi come milioni di porci
pascolano sospingendosi sotto gli illesi palazzotti,
tra case coloniali scrostate ormai come chiese.
Proprio perché tu sei esistita, ora non esisti,
proprio perché fosti cosciente, sei incosciente.
E solo perché sei cattolica, non puoi pensare
che il tuo male è tutto male: colpa di ogni male.

Sprofonda in questo tuo bel mare, libera il mondo.

Pier Paolo Pasolini

 

この詩を歌った曲もあるようです。Carlo Alberto Ferrara のアルバム Sana e robusta costituzione... (2009) に収録されています。
 

Alla mia nazione

Alla mia nazione

 

 

追記:

調べてみると、すでに四方田犬彦さんの日本語訳がありました。これを参考にぼくの訳文を少し訂正しました。また四方田訳を以下に引用しておきます。下線は、ぼくが若干気になった箇所です。

 

わが民族に

 

アラブ人にあらず、バルカン人にあらず、古代人にあらず、

今に生きる民族、ヨーロッパの民族、

お前は誰?新生児の、餓えた、腐敗した大地、

地主に雇われた統治者、完璧な反動派

ポマードを塗りたくり、足の臭い弁護士野郎、

偽善者の叔父同様にやくざで寛大な役人、

兵舎、神学校、無料のビーチ、カジノ

たくさんの豚のように、たくさんのプチブル

教会のように、植民地の破損した家々の間で、

壊れずにすんだ小邸宅を足でひっくり返し、草を食んでいる。

当然だよ、お前は昔は存在していたが、今は存在していない。

当然だよ、お前は昔は自覚していたが、今は無自覚。

お前が自分の悪を全部が悪ではなく、個々の悪の過失だと

考えたりするのは カトリックだからじゃない

お前のキレイな海とやらに落っこちな、世界を自由にしてやるんだな。

 

四方田訳『パゾリーニ詩集』(みすず書房)pp.233-234

 

パゾリーニ詩集

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