雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

アルトゥロ・ウイの興隆、あるいはビッチはまだ発情中...

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今日、2021年11月21日、神奈川で『アルトゥーロ・ウイの興隆』の舞台を見てきた。

このブレヒトの芝居を見たかったのは、ひとえにサム・ペキンパーの『戦争のはらわた』(1977)に、この芝居のセリフが引用されていることを知っていたからだ。それはこんなセリフ。

"Don't rejoice in his defeat, you men. For though the world stood up and stopped the bastard, The bitch that bore him is in heat again."
(あの男の敗北を喜んでいる場合ではないぞ、諸君。たしかに、世界は立ち上がって奴を阻止したが、あのバスタードを生んだビッチがまた発情しているのだ)

これがブレヒト『アルトゥロ・ウイの興隆』(1941)からの引用。戯曲の内容は「ヒトラーナチスがあらゆる手段を使い独裁者としての地位を確立していく過程を、シカゴのギャングの世界に置き換えて描いたもの」だという。「アルトゥロ・ウイ」とは、ほかならぬアドルフ・ヒトラーのことなのだ。

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ペキンパーの映画を見直したとき、この引用を知った。直後にブレヒトの対訳本(市川明訳、松本工房、2016年)も買った。けれど積読状態で、なかなか読めないでいた。そこに、この戯曲の上演を知り、たまらずチケットを購入したという次第。

ひさしぶりの舞台だった。それも生バンドの入ったミュージカル。それだけでも楽しかったのだけど、目的のセリフが聞かれた時は鳥肌ものだった。ただし『戦争のはらわた』とは少し違う。バスタードやビッチという単語は出て来ない。こんなセリフだ。

「諸国民がやつを屈服させ、やつの主人となりました。
それでもここで勝利を喜ぶのは早すぎます。--
やつが這い出てきた母体は、まだ生む力を失っていないのですから。」
(市川明訳)

しかし、なるほど「バスタード」や「ビッチ」などの強烈な言葉は必要なかったのだ。なにしろ、3階席からはよく見えなかったのだけど、舞台の背後にハーケンクロイツと日の丸が浮かび上がっていたという。ぼくの席は端っこすぎて見えなかったのだけれど、一緒に見た娘に教えてもらった。

遠いどこかの国の出来事だと言いながら、ブレヒトが亡命したアメリカのシカゴを舞台にしていたこの芝居に、特定の国の特定の時代を象徴する旗を、しかもこの国のそれに重ねるなんて、そう娘は言った。そう言わせるほど、みごとな演出だったのだ。

さらに、どこか遠いシカゴのギャングの話ではるはずなのに、そのひとつひとつをヒトラーと彼が権力を掌握する過程に重ねようとする字幕が、あえてヤボなことをすることで、この戯曲の仄めかすものの在処をずらしてゆく。シカゴのギャングをドイツのナチスのパラブルにするはずだったものが、オリジナルに似たようで異なる別のパラブルへと変化してゆく。

圧巻は、日本が誇ったアイドルグループのひとり草薙くんが依代となったウイが、ジェームズ・ブラウン風のオーサカ=モノレールの熱い演奏で、「シセロとシカゴ/ドイツとオーストリア」の「八百屋/大衆」に見立てた観客席を熱狂させてゆくとき。

草薙/ウイが手拍子を求めると、観客は手拍子を返す。イエスの挙手を求めると1階席のファン=観客=大衆がまばらながらに挙手をする。音楽やむ。部下のひとり、さらなる挙手を求めて怒鳴ると、あろうことかマシンガンを客席にむけて唸らせる。ふたたび音楽が響く。挙手が続く。舞台では、あの3人の赤く卑猥な美女たちが踊る。ウイ/草薙が乱舞する。

そんな熱狂のなかでの挙手を、ぼくは三階席から見下ろしながらぞっとしてしまった。だから、つい、おもわず、腕を上げてサムダウンしてみせたのだが、そんなぼくに隣の娘が「それはヤバイよ、ファンの方もいるんだよ」と警告してくれる。

「あっ、たしかにそうかもしれない」とは思ったとき、はっと気がついた。なるほど、これは見事にのせられてしまった。さすがブレヒトだ。

そう、たしかに熱狂する観客に向けてサムダウンするのはヤバイ。サムダウンは熱狂を冒涜し、冒涜された熱狂は暴走する。だとすれば、その熱狂が立ち上がる前に、その熱狂を起こすかもしれないものに対して、サムダウンする前にするべきことをしなければならない。

しかし、するべきこととは、いったい何なのか。

その答えは、もしかすると、たとえば、この『アルトゥーロ・ウイの興隆』の舞台なのだろう。

そもそもこの戯曲は最初「止められるアルトゥーロ・ウイの興隆」と題されていた。それは「まだ止められるアドルフ・ヒトラー興隆」のパラブルなのだが、いかんせんブレヒトが1941年に最初の稿を書き上げた時には遅かった。ウイ/ヒトラーの熱狂は戦争から破壊へと進んでしまっていたのだ。

それでもこの戯曲は、1958年にベルテンベルグ州立劇場(シュトゥットガルト)で初演をむかえる。しかし、その2年前にブレヒトは亡き人となっていた。

第二次世界大戦後の世界はたしかに、破壊をもたらした者を屈服させたが、その諸国民が主人となったはずの戦後体制は東西に引き裂かれ、雲行きが怪しくなっていた。またしても遅かったのだろうか。

遅かったことはたしかだ。しかし遅すぎることはない。いやむしろ、まだ止められるかもしれない時だからこその戯曲執筆(1941年)であり、舞台上演(1958年)であったと思いたい。

この戯曲そして舞台は、あのウイが産み落とされるかもしれない状況のパラブルでもある。

いつまた、ウイがまたもや産み落とされないとは限らない。いやむしろ、あいつを産み落としたビッチは、その肥沃な身体を発情させているやもしれぬ。だとすれば、だからこそ、まだ間に合う。「ウイの興隆は止められる」。

その舞台を見よ。

あの赤いワンピースに白い肌を露出させたビッチたちが、まるで三美神を転倒させたかのように艶やかに姿で踊る。そこに、ジェームズ・ブラウン(J.B.)のファンクが鳴り響く。虐げられたものが、虐げられたがゆえのルサンチマンでその才能を輝かせ、虐げられたものの復讐を果たそうとするかのような強烈なビート。そのビートを演奏するオーサカ=モノレールはJ.B.の依代であり、いかがわしいポピュリズムの表象でもある。

そこにウイが登場する。そこに賭けられているのは、ぼくらはまだその興隆を止められるかもしれないという掛け金。だからこそ、最後の最後のカーテンコールで、あのウイ/草薙に向けられた鳴り響く拍手の熱狂のなか、その手前になる黒くカーテンには、戯曲には見当たらない引用が浮かび上がる。

熱狂する大衆のみが操作可能である。

政策実現の道具とするため、私を大衆を熱狂させるのだ。

アドルフ・ヒトラー

その文字を見つめながら、拍手を続けるのか、拍手を躊躇うのか、黙るのか、それともブーイングするのか、どうしてよいのか、ぼくらの誰もが宙吊りになって、呆然とするほかない。

 

親父とお袋、それから介護と虐待の向こう側へ

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 ある作家とある評論家のツイッターでやりとりが目に入りました。「ケア」のなかに「虐待」を読み取った評論家に、作家が「虐待」とは書いていないと反論する構図のようでした。このおふたりは、冷静にやりとりをされ、互いに落とし所を探しておられた。ツイッターでよくある感情的な言葉の応酬にはならなかったことに、他人事ながらホッとしました。きっとうまく共通の立場を確認され、解決策を見つけ出されると信じます。

 そんなやりとりを読ませていただきながら、ぼくはぼくで自分のことを考えました。両親のことです。あいまいになりそうな記憶を辿りながら、思い出したことがあります。父のケアのこと。父が母をケアしていたときのこと。ぼやけた記憶は放置すればさらに輪郭をあいまいにし、やがて形のないものに還元されてしまうはず。その前に文字にして、フォルムをはっきりさせ、思考の素材にしておこうと思うのです。

 今年のはじめ、ぼくは父を見送りました。その父は15年ほど前に母を見送っています。母やアルツハイマーを患って7年、最後は寝たきりにでしたが、父はずっとひとりで母をケアしていました。どうやらデイサービスも利用していたようです。そのことは、後で知りました。父を担当するケアマネージャーさんから「奇遇ね、お母様もわたしが担当させてもらったのですよ」と聞いたのです。

 父は弱音を吐きませんでした。下の娘が生まれて、東京に出てきたとき、ホテルの間取りを気にするのでどうしたのかと聞けば、見てればわかるといいます。母は一人で自分の部屋に戻ることができなくなっていたのです。わかっただろうと言うとき、父の少しばかり寂しそうな顔を覚えています。上の娘が生まれた時は、ひとりで新幹線に飛び乗ってかけつけてくれた母ですが、それから4年後には、ホテルの部屋にさえもどれなくなっていたのです。

 それから弟の結婚式がありました。そのときはもう、かなり混乱していて、何度も何度も今日は何の日だったのか尋ねます。最後には式場にいられなくなって、ホテルの部屋に戻り、しばらく一緒に過ごしたのを覚えています。なんだか時間が止まったような不思議な感覚でした。

 それからも父はずっとひとりで、遠くに住むぼくら息子たち迷惑をかけることなく、自宅での介護を続けます。帰省すると歓待してくれました。今にして思えば、歓待してくれたのは、ぼくらがいれば少し気を抜くことができたからかもしれません。よく食べて、よく飲みました。帰省は楽しいものでしたが、よくよく思い出してみれば父が「いらいら」を抑えきれなかった場面もありました。

 たとえば母が、うまく着替られなかったり、車椅子にうまく乗れなかったりすると、目に見えてイライラしていました。ぴしゃりと軽く叩いたり、「ほらほら、もう、なにしとんねん」と声を荒げていました。ぼくらはいい気なもので、「やりすぎだよ、おとうさん」なんて言っていました。一生懸命なのはわかるけれど「やりすぎだ」、そう肉親には見えていたものは、きっと外からは粗雑で、暴力的に見えたのではないでしょうか。少なくとも、プロの看護師がそんなことをすれば「虐待」だと訴えられたはずです。

 その父を今年の初めに見送りました。4年前に年金が入っていないと大騒ぎになり、結局は混乱していただけだとわかったのですが、どうも様子がおかしい。なんとか予約をとって、病院に連れてゆくと、初期認知症と診断されました。これは大変だと、それからバタバタと介護認定やらデーサービスを手配。ぼくと弟は遠隔地に住んでいますから、要介護の認定がおりて近くで面倒をみてくれるサービスが見つかったことで、ほっとしたのを覚えています。

 デーサービスが見つかったといっても、まかせっぱなしにはできません。どちらかといえば時間が自由になるぼくが帰省し、諸々の手続きや書類の整理を進めてゆきました。作業は父と話をしながら進めるのですが、なんといっても父は認知症を患っているわけで、同じ話を何度も繰り返します。最初は、そういうものだと割り切って、柔かに「うんうん、それはね…」と応じられるのですが、そのうちこちらも疲れてきます。「いらいら」が溜まってくると、そのうち繰り返される問いかけに答えられなくなり、つい「さっき言っただろ」と声を荒げてしまいます。イライラの爆発です。

 娘を連れて帰省した時などは、「お父さん、いらいらしちゃだめだよ」と指摘されます。しまったとは思うのですが、うまくコントロールができません。一段落すると、ほんとうにぐったりしてしまいます。今にして思えば、父のケアをしながらイライラを爆発させてしまったように、父もまた母をケアしながら同じことをしていたわけです。プロならやってはいけないのですが、肉親だとついやってしまう。いやむしろ、肉親だからこそやってしまう。肉親の「ケア」には、どうしても「虐待」がつきまとってしまうのではないか。ぼくにはそう思えるのです。

 「虐待」とはなにか。日本語にすると大変否定的に響きます。ぼくは、こういうときはイタリア語で考えることにしています。「虐待」はイタリア語では「abuso」と言います。これは動詞「abusare」に遡り、その成り立ちは「 ab-usare 」で、接頭辞「ab- 」(遠ざかる、離れる)が動詞「usare」(使用する)を従えた形になります。語源辞典を見れば、ラテン語の abusus は「完全に消費してしまうこと」とあり、転じて「完全に使う、悪しく使う」と意味が変化しているようです。

 ではケアの現場における「abuso」とは、いったい何を「ab-usare」しているのでしょうか。ぼくはケアだと思います。ではケアとは何か。イタリア語では「cura」です。その語源は不明ですが、意味としては「治療」と「配慮」のふたつがあります。「介護」と訳すこともできるでしょう。「治療」(cura) の名目で、ベッドに縛りつけたり、監禁したりすることは、治療を「完全に行おうとして、行き過ぎ、結果的に悪く使ってしまう」(abusare)ことであり、治療における「虐待」(abuso)です。それは家庭における「介護」の現場でも起こります。思うように動けなくなった肉親を助けようとして、つい冷たい言葉を投げかけたり、手を出してしまうようなこともまた、介護を「完全に行おうとして、行き過ぎ、結果的に悪く使ってしまう」(abusare)ことであり、「虐待」(abuso)になってしまうわけです。

 ケアをしていると、相手が大切な人であればあるほど、そして親しければ親しいほど、「いらいら」が募るものです。とりわけ肉親のケアでは、疲れとやるせなさでイライラが募ります。募ったイライラは小さな爆発を繰り返しながら、本来のケアから離れてゆき、「虐待」へと近づいてゆくわけです。

 認知症の父は、「認知がうまくゆかない」「記憶が定着しない」という苦しみを患う「患者 paziente 」です。プロの介護士ならば、職業的な「忍耐 pazienza 」を持って臨むことになります。ところが、そのプロでさえ時にゆきすぎてしまうことは、世間の「虐待」(abuso)のニュースが教えてくれるところです。

 プロでさえそうなのです。突然に肉親の介護をしなければならなくなったとき、肉親としてなんとか「忍耐 pazienza 」を持ち続けることは、かなり大変です。ぼくの場合は、娘が付き添ってくれたり、弟が分担してくれたりしてくれたことで助かりました。なによりも、デーサービスから始まった、小規模多機能型居宅介護の力を借りることができたのが大きかった。必要に応じて、デーサービスの時間や回数を増やし、病院の受診や薬の管理、食事や入浴のサービスなど、ほんとうに細かく面倒を見てもらえたおかげで、診断が出てから足掛け4年にわたって、とんでもない「虐待」にいたることなく、比較的おだやかに乗り切ることが出来たように思うのです。

 家族や介護サービスの助けがなければ、きっとぼくは、父のケアに耐えられなくなり、ケアという苦しみを患うことになっていたはずです。 父が認知症を患う「患者 paziente 」なら、ぼくもケアの苦しみを患う「患者 paziente 」となる。肉親のケアでは、おそらく、ケアする者のケアされる者の双方が、「苦しみを患う patire 」という意味での「患者 paziente 」になってしまう。どうしてそんなことが起こってしまうのかというと、たぶん、ケアする者とケアされる者との関係に強度がありすぎて、ケアという行為をうまく「使用 uso」することができなくなってしまうからではないでしょうか。そこに「行きすぎた使い方/悪しき使用/虐待 ab-uso 」が生まれることになるのです。

 だからケアの現場にはどうしたって「悪しき使用 abuso」がつきまといます。そもそも、ぼくたちの人間関係は、配慮(cura)のなかで適度に使用(uso)され、その使用のなかで新たな人生を開いてゆくものだと思うのです。ところが、ある種の苦しみ(patos)に襲われたとき、ぼくらはその苦しみを患いながら(patire)、忍耐(pazienza)を失い、にもかかわらず人間関係の「使用 uso 」をなんとか完遂しようとするあまり、本来の関係から逸脱し、遠ざかり、離れてゆき、慈しみ育み成長させてゆくべき人間関係を、損ない、破壊し、殺してしまうような悪しき方向へと歪んでゆく。それが「虐待 abuso 」なのでしょう。

 人を大切にしようとするとき、そこから「虐待」は始まります。「人を大切にする」ことをイタリア語では「avere cura di qlcu. 」とか「curare」と言うのですが、そういう意味での「大切にする」(cura)とは人間関係における「配慮」のことです。この「配慮」をぼくたちはうまく「使用」(usare)しなければなりません。それは「使用」のなかで自分自身も変化しなら、「配慮」そのものを成長させて、より実りの多い、笑顔のたえないものへと高めてゆくことだと思うのです。

 肝心なのはバランスなのでしょう。気を抜くと、すぐに行きすぎて、やりすぎて、バランスを失いながら、とんでもないことをやらかしてしまいます。それは、ある種の綱渡りなのかもしれません。ともかくも、綱を渡り切ること。「虐待 abuso」の淵に落ちることなく、向こう側へ渡りきれば、きっと笑顔を浮かべることができるはず。そしたらまた、ドキドキしながら、また次の綱へと足を踏み出せば良い。

 生きるってのはたぶん、そんな綱渡りみたいなものじゃないでしょうか。

 

 

カンニングとゲイ・サイエンス

 こんな記事を読んだ。少しイラっとしてしまった。そんなのはわかっている。問題はそこじゃない。そう思ったのだ。


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 Web テスト代行が問題なのではない。教育機関はこれからも DX (digital transformation)を進めてゆくだろうし、ICT(Information and Communication Technology) を利用し続けるだろうし、さらには CBT(Computer Based Testing)の機会も増えるはずだ。そんなのはわかっているし、問題はそこにはない。

  ぼくが問題だと思ったのは、テストの不正に注意喚起をすることにある。替え玉受験やカンニングのような不正を注意する前に、なぜ不正が起きるのか考える必要はないのだろうか。不正がどこから来るのか考えることなく、ただ不正に注意喚起をするのはただのルーティンであり、習慣であり、身体と精神の反射であり、知性の貧困にほかならないではないか。

 そもそも、不正のどこが悪いのか。それはむしろ、英雄的な行為ではなかったのか。うまくカンニングをやりとげたときの達成感は、ほんとに否定されるべきものなのだろうか。造反有理という言葉は、ほんとうに過去の遺物になってしまったのだろうか。

 考えてみれば、初等教育から高等教育にかけて、学校での高い評価とは、効率的にテストで正解を叩き出し、点数を稼ぐことではなかったのだろうか。

 要領よくクイズで勝利したものが、そのまま社会でも勝利をつかみ、成功を収めることができるという幻想を振り撒いてきたのが教育だとすれば、その幻想によってカンニングは見つからなければ善なのだと思うものが現れてきても不思議ではない。

 ふつうは悩む。点数だけが人生ではない。就職だけが成功ではない。お金だけが幸福をもたらすものではない。そんなことは誰だってわかっている。わかっているから悩むのだ。

 けれども、まじめに教育を受けた者のなかには、教育の振り撒く歪んだメッセージをそのまま飲み込むものだっている。学歴で自分を評価し、他人を評価し、自らを卑下し、弱いものに対して優越感を感じる。無力なものは無価値であり、消えてもらってかまわない。この優生思想こそが、学校が密かに教えてきたことではなかったのか。

 そんなことはない。ほとんどの教師がそう答えるのだろう。けれども、子供を点数で評価することを拒否したことのある教師は名乗り出よ。そんな教師はどこにもいない。ぼくだってそうだ。評価をしなければ給料がもらえない。給料のために評価する。点数をつける。ならば教師は採点マシーンではないか。

 ところが、そんな採点マシーンからでも、ありがたいことに子どもたちの多くは、人生が点数だけではないと学んでくれている。それが「教育の奇跡」と呼ばれるものだ。けれど、それはあくまでも奇跡であり、起こることがめずらしい。だから多くの子どもたちが、点数がとれないことを頭の悪さと思い込む。学歴コンプレックスを抱えこみ、自分が不幸なのは自分のせいだと思い込む。こういうのをニーチェなら奴隷根性と呼ぶのだろう。

 それでもなんとかしたいなら、カンニングをすればよい。チャンスがあれば、チートすればよい。採点マシーンの教師の目を盗み、採点マシーンのシステムのバグをつき、苦労してとる点数を、苦労せずにとってみせばよい。親の金をつかって、テクノロジーを駆使して、仲間や友人をたぶらかし、受験ゴロにたぶらかされながら、みんなで不正をやらかせばよい。

 国政を見てみよ。オリンピックを見てみよ。不正は、バレなければ不正ではないし、たとえバレてもシラを切れば切り通せるかもしれない。だから不正すればよい。不正、万歳。ぼくらの社会は、一方でそんなふうに呼びかけている。きみは奴隷でいなくてもよいのだ。だからうまくやってくれたまえ...

 とはいいながら、建前としては不正はよろしくない。とうぜん不正には「注意喚起...」をすることになる。ちゃんちゃらおかしい。そんなのは、ただのアリバイにすぎない。おそらく、この茶番は永遠に繰り返すのだ。

 しかし、心ある教師なら、みんな知っているはずだ。カンニングのような不正は恐れるほどのことはない。不正に注意喚起するよりも、喚起すべきはむしろ「学びの歓喜」「ゲイサイエンス」なのだと。

 学びは喜びだ。喜びの陽光のなかで、雲も霧も消えてゆく。不正はルサンチマンの雲であり霧なのだ。それを文字通り雲散霧消させるのは、学びの喜びにほかならない。だから喜びよ来れ。不正を告発せよ。真理を暴け。謎を解き明かせ。道の世界への扉を開け。そして飛び込め。冒険せよ。歓喜せよ。生きよ。

 そう、ただ生きる喜びを感じるとき、ぼくらは不正なんて雲や霧の出どころを知りつつ、それを受け入れて乗り越え、その向こう側に立ち上がる虹を見ることだってできるわけだ。

 あちこちの大学をサスライながら採点マシーンを続けているぼくだけど、ときどき、そんな虹をみんなと見てみたいと思いながら、話を続けている。だって、そのほうが楽しいからね。